コイツ呼ばわりされて目を白黒させる征樹を尻目に、蓮は彼から貰ったハンカチで鼻をかむ。
「誰って、俺の従兄だよ」
「イトコだって? 何だ、その禁断のワードは?」
「禁断ってどういうことだい?」
「小さいころから面倒をみてきたとか、そういうアレなのか? アタシらの知らない蓮ちんのアレコレを知ってるアレなのか?」
「アレって何なんだい、モブ子さんたち。何を言ってるんだい?」
「そういうとこだぞ? なぁ、蓮ちん、そういうところなんだぞ?」
「一体何の話をしてるんだい?」
「蓮、落ち着け」
柾樹が割って入る。
モブ子らが蓮にイチャモンをつけていると、柾樹が解釈するのも無理はない。
何せ彼女たちは圧が強い。
早口でまくしたてる様子は、まるでひ弱な三十路講師を追い詰めているかのようだ。
「禁断ってどういうことなんだい? 教えてくれよ、モブ子さん?」
「蓮、気にしなくていいから。落ち着けるところへ行こう」
「落ち着けるところって何だ? いやらしい従兄だな。このエロイトコめ!」
「えっ、何の話だい?」
「だから蓮、放って……」
ひたすら狼狽える蓮を挟んで、睨みあう征樹とモブ子。
やがて征樹の醸しだす理性的な雰囲気に押されたか、モブ子らは「うむぅ」と呻いた。
「ア、アタシらは小野ちんの味方だからな!」
「痛っ!」
オーダーメイドのスーツの膝のあたりを蹴り飛ばすと、三人組は脱兎のごとく駆けて行った。
「な、何なんだ、あの子たちは……?」
脛をさすりながらポカンと見送る征樹。
「モブ子さんたちだよ」
「モブコサンタチ? サラッと言ってるけどそれは名前なのか、蓮?」
「別に。モブ子さんはモブ子さんだよ」
「モブコサンハモブコサン? まぁいいけど……。それより台風が直撃しそうだけど大丈夫か?うちに来るか?」
うるさいよ、征樹兄ちゃん──そう言いたくなるのをぐっと堪えて、蓮は彼女たちの後姿を見送っていた。
「小野くんが学校、やめちゃう……?」
「なぁ、蓮? モブコサンってあの三人全体でモブコサンなのか? それとも、個人で……」
「………………」
「蓮、聞いてるのか?」
「………………」
何やら複雑なことを言い出した征樹は完全に無視された。
「学校に来たら普通に会えるものと思ってた。でも小野くんが学校をやめたら、多分もう二度と会えないよね……」
ネムノキが風に揺れて、立ち尽くす蓮に影を落とした。
「伝えたいことがあったのに……」
鳥獣腐戯画のイラストが入ったボールペンもリュックの中に入っている。
会えなければ、これを返すこともできない。
どうしても彼に伝えたいことがあったのに。
──発表の前、励ましてくれてありがとうって。君らしくない大きな声と、真剣な表情に驚いたよ。夢中にさせてくださいって言ってくれたおかげで勇気が出たんだ。ありがとうって。
視線を落とした地面には、萎れた青い花が地面に横たわっていた。
ネモフィラだ。
そういえばネモフィラを見ながら小野くんが言っていたなぁと、蓮は思い出す。
──あのときから、先生のことが好きだったのかもしれません。
何を言っているんだろう、この子はと思ったものだ。
「あのときって、いつなのかな。あんなカッコイイ子に会ってたら忘れないと思うんだけどなぁ」
先生が思い出してくれるまで教えません──なんて、意地悪なことを言われたっけ。
もしもこのまま会えなくなったら、その答えも分からずじまいなんだと、萎れた青が眼下でジワリとぼやける。
不意に蓮が目をしばたたかせたのは、花を覆うように青い光が瞬いた気がしたからだ。
鮮明な青色が、記憶の中で蘇る。
時を一年ほど遡る。
青の花びらを見下ろし佇む青年は、周囲の視線を集めていた。
柔らかそうな薄茶色の髪、細身の体躯。
整った容貌は、通りすがる人が思わず振り返ってしまうほどである。
しかし薄い色合いの双眸は無感動に花を映すだけ。
「小野、ごめんごめん」
そう、これは一年前の小野梗一郎である。
名を呼ばれたからか、その目がちらりと動いた。
向こうから駆けてきたのは学ラン姿の青年だ。
いかにも高校生と分かる愛嬌と、それからわずかな緊張感を身にまとっている。
「中島、なんで制服?」
今にも雨が振り出しそうな空の下。
オープンキャンパスという看板の横でちゃっかり自撮りをしている友人を見やり、梗一郎は顔をしかめた。
学校見学のため、登成野学園大学の校門前で待ち合わせていたのだが、朝寝坊常習犯の友人はきっちり十分遅れてきたのだ。
ごめんという一言ですませると、むしろ友人は信じられないという目線で梗一郎を見やる。
Tシャツとチノパンという梗一郎のラフな格好に、彼は呆れている様子だ。
もしかしたら合否判定をする偉い人がこっそり見てるかもしれないだろ、なんてことを小声で囁いてくる。
「そんなわけないだろ。第一、ここは滑り止めって言ってたじゃないか」
「まぁ、そうなんだけど。でも万一ってことがあるし」
どんな頭脳の持ち主でも受験すれば必ず通るといわれている大学である。
受験生の夏休みという貴重な時間を使ってわざわざオープンキャンパスに出向く意味が分からない。
一人で行くのはどうしてもイヤなんだという友人、名を中島という。
彼に付き添うかたちで、興味のない大学にこうしてやってきた自分も相当なお人好しだと梗一郎は思っていた。
「……まぁ、気晴らしも必要だし。あの家にいたら息が詰まるから」
「小野、何か言ったか?」
首を横に振りながら大学構内に足を踏み入れ、梗一郎も友人も驚いたように足を止めた。
滑り止めの底辺校という認識からは想像もつかないほど、キャンパスには人が行きかい活気づいていたのだ。
大学生と思しき男女の姿は、この曇り空の下でも何だか眩しい。
わずか数歳しか違わないはずなのに、ずいぶんと大人びて見えた。
「オレ……、うんとオシャレしてきたらよかった」
こうなると己の制服姿が恥ずかしくなったか、友人は学ランを隠すように鞄を胸の前に抱えて背を丸める。
別にうんとオシャレをする必要はあるまいが、中島の学ラン姿はたしかに浮いている。
呆れるやらおかしいやら。
笑いを噛み殺しながらも、梗一郎は募集要項の書かれたポスターを指さした。
友人の気を、少しでも逸らせてやりたいとの思いで。
「中島、何科を受けるんだっけ?」
「いやもう何科だっていいんだ。大学生になれるんなら。強いて言うなら、入ってからなるべく楽そうなのがいい」
「お前……」
「そういや知ってたか、小野。ここって来年からBL検定対策講座ってのができるらしい」
「びーえるけんてい? 何だ、それは」
「よく分かんないけど、難関資格の対策講座らしい」
「へぇ」
「うっわ、興味なさそう」
茶化すように中島が笑った。
曖昧に頷いて梗一郎も口元を歪める。
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