テラーノベル
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煤の匂いと、冷たい床の感触。
それが、幼い私の世界のすべてだった。
「ちょっと、ぐずぐずしないで!早く床を磨きなさい、この穀潰しが!」
叔母の鋭い怒声が地下室に響き渡る。
それと同時に、硬い靴先が私の脇腹を容赦なく小突いた。
鈍い痛みが走り、思わず呼吸が止まる。
けれど、反論することなんて許されない。
私はただ泥に汚れた雑巾を握りしめ、感覚のなくなった指先を動かし続けた。
私の名前シンデレラ。
両親を亡くし、親戚の家に引き取られてからというもの、自由は奪われたも同然だった。
灰にまみれて働く姿から「灰かぶり」と蔑まれ、地下室で獣のように扱われる毎日。
明日を望むことさえ忘れてしまった私の前に、その人は前触れもなく現れた。
冷え切った視界に飛び込んできたのは、煤けた景色にはあまりに不釣り合いな
鏡のように磨き抜かれた革靴。
驚いて顔を上げると
そこには燃えるような赤髪を揺らし、眩いばかりの軍服を纏った青年が立っていた。
「……ひどい有様だな。君が、ここで不当に働かされている娘か?」
その瞳は、凍える私の心を溶かすほど温かく、陽だまりのような色をしていた。
叔母たちが顔を真っ青にして慌てて膝をつく中
第一王子だというその方は、汚れきった私の前に躊躇いもなく跪いた。
「俺はアインと言う。君を迎えに来た」
差し出されたのは、汚れ一つない白手袋の手。
私は自分の煤だらけの手を見て、反射的に後ろへ隠した。
「汚れ…てしまいます、から……」
掠れた声で拒もうとしたけれど、アイン様はその手を逃がさないと言わんばかりに
優しく、けれど拒絶を許さない力強さで包み込んだ。
「構わない。これからは、誰にも君を傷つけさせない。俺の城へおいで」
差し込んだ逆光に目を細めながら、私は初めて知った。
世界には、こんなにも熱い体温があるのだということを。
◆◇◆◇
───それから、数年
私はアイン様の側近の侍女として、彼の側にいた。
あの日、地獄から救い出してもらったこの命。
今度は彼のためにすべてを捧げたい。
その一心で、身の回りのお世話に明け暮れる日々を送っている。
「シンデレラ、また無理をしているんじゃないか? 少しは休めと言ったはずだ」
執務机でペンを動かしていたアイン様が、ふいに顔を上げて私を呼び寄せる。
促されるまま側に寄ると、大きな手が私の頭に乗せられた。
子供をあやすように、ゆっくりと、愛おしそうに髪を撫でられる。
「君に倒れられたら、俺は嫌だ。頼むから無理はし過ぎないでくれ」
「…っ、いえ。無理などしてないですよ……!アイン様のお役に立てるのが、私の幸せですから」
触れられた場所から熱が広がり、心臓の音がうるさいほどに跳ねる。
命の恩人、憧れの人。
そして、決して手の届かない高貴な太陽。
この温かな「庇護」の中にいられるだけで、これ以上の贅沢はいらない。
そう自分に言い聞かせて、この恋心に鍵をかけてきた。
しかし、そんな穏やかで切ない日常は
アイン様が放った一言で音を立てて崩れ去った。
「シンデレラ。ちょっといいかい?実は、君にしか頼めない仕事があるんだ」
いつになく真剣な眼差しで見つめられ、私は無意識に背筋を正した。
「はい、なんでしょうか…?アイン様のためなら、私は何でも───」
彼のためなら、どんな困難な命だって完遂してみせる。
そう覚悟した瞬間
「──なら、単刀直入に言う。俺の、妻になってほしい」
手に持っていた銀のトレイが、ガチャンと高い音を立てて床に落ちた。
静まり返った執務室に、その音だけが異様に長く響き続けていた。
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