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床に転がった銀のトレイが、私の心臓の音を代弁するように空虚な音を立てていた。
アイン様が今、なんと言ったのか。
一瞬、頭の中が真っ白になって、呼吸の仕方さえ忘れてしまう。
静まり返った執務室の中で、自分の鼓動だけが耳元でうるさく打ち鳴らされていた。
「あ…アイン、様……?いま、何とおっしゃったのですか……?」
聞き間違い。あるいは、私の救われない片想いが見せた、質の悪い幻聴。
震える声でそう問いかけても
視界の先にいるアイン様の瞳は、冗談を言っているようには到底見えなかった。
彼は椅子から立ち上がると、一歩、また一歩と私との距離を詰めてくる。
上質な絨毯を踏みしめる足音が、やけに重く響いた。
「驚かせてすまない。だが、本気なんだ。シンデレラ、俺の妻になってほしい。……期間限定の、偽りの妻でいいんだ」
「……偽りの、妻?」
その補足を聞いた瞬間、わずかに浮き足立った心が急速に冷えていくのを感じた。
そうだ。冷静になればわかることだ。
アイン様が私のような、元・灰かぶりの侍女を、本物の王妃として選ぶはずがない。
この胸の痛みは、最初から分かっていた格差を突きつけられたせいだろうか。
「ああ。近頃、王宮内での縁談の押し付けが酷くてね。俺に相応しい公爵令嬢だの、隣国の王女だのと、連日のように見たくもない写真や釣書が届く。もはや執務に支障が出るレベルなんだ」
アイン様は困ったように眉を下げ、深くため息をついた。
第一王子として、彼には国を背負う義務がある。
けれど、自由を愛し、誰よりも民のために奔走する彼にとって
愛のない政略結婚という名の「鎖」は、何よりも忌々しいものに違いない。
「そこでだ。俺にはすでに心に決めた女性がいるという既成事実を作りたい。……君なら、俺の性格も、この執務室の勝手もすべて知り尽くしている」
「何より、俺は誰よりも君を信頼しているんだ」
信頼
その言葉は、凍えていた私の胸を温かく、そして鋭くチクリと刺した。
アイン様の力になりたい。
彼が望まない結婚に縛られ、その瞳から輝きが失われるくらいなら、この身を盾にしてでも守りたい。
……けれど、それは同時に、私の叶わぬ恋に明確な「終わり」を告げることでもあった。
妻役を完璧に演じきれば、いつか私は
本物の愛する妃を迎える彼を、一番近くで見送らなければならなくなるのだから。
「私のような者が…お役に立てるのでしょうか?身分も、教養も、他の令嬢方には遠く及びません。お側にいるだけで、アイン様の泥を塗ることにならないか不安で……」
「身分なんて関係ない。あの日、君を連れてくると決めた時から、俺にとって君は誰よりも価値のある存在だ。……どうか、受けてくれないか?」
アイン様が私の両手をそっと取り、祈るような手つきで包み込む。
大きな掌から伝わる確かな熱に当てられて、私の脆い理性は、音を立てて崩れ去った。
「…アイン様のお力になれるのでしたら、喜んで。この命が尽きるまで、完璧な妻を演じてみせます…!」
「はは、ありがとう、シンデレラ。……でも、命まではかけなくていいからな。ただ、俺の側にいてくれればいい」
アイン様は満足そうに目を細めて微笑むと
私の額に、誓いのような、羽が触れるような軽いキスを落とした。
───その翌日から、私の「偽装結婚生活」という名の甘すぎる試練が始まった。
「シンデレラ、朝食だ。今日は君の好きなベリーのタルトを用意させたんだ。ほら、口を開けて」
「えっ、アイン様!?じ、自分で食べられます…それに、侍女たちが部屋の外に……!」
「いいんだ。今は夫婦だろう?仲睦まじいところを見せないと、周囲は納得してくれない」
アイン様は楽しそうに、そして慈しむような笑みを浮かべながら、フォークを私の唇へと寄せてくる。
「な、なるほど……!これも演技なのですね…!」
必死に自分に言い聞かせてタルトを口にする。
けれど、変化はそれだけではなかった。
廊下を移動する時は、人目があるからと必ず腰を引き寄せられ、アイン様の体温が常に隣にある。
さらに夜は、夫婦の体裁を守るために同じ寝室で過ごすことになった。
アイン様の「庇護」は、これまでの主従関係だった時よりも、ずっと密やかで、独占的で……。
何より、逃げ場がないほどに甘くなっていった。
不意に大きな手で頭を撫でられる回数が増えるたび。
耳元で、蕩けるような声で「可愛い」と囁かれるたび。
私は自分が演じているのがただの「役」であることを、今すぐにでも忘れそうになってしまうのだった。