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深冬芽以
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廃校の廊下は、10年前のあの夜と同じ、湿ったコンクリートの匂いが立ち込めていた。
九条刑事が足を引きずりながら私の前を行く。
手にした懐中電灯の光が、剥がれかけた壁紙と、誰のものかもわからない古い教科書を照らし出す。
突き当たりにある、あの理科準備室。
私の喉が焼かれ、人生が止まったその場所から、微かにクラシック音楽が漏れ聞こえてきた。
九条が慎重にドアを開ける。
「……おかえり、栞。待っていたよ」
月明かりが差し込む教卓の椅子に、一人の男が座っていた。
渡邉 誠
10年前に事故死したはずの、私の父親。
その柔和だったはずの顔は、闇の中で冷徹な彫刻のように静まり返っている。
そして、その足元には、信じられない光景があった。
死を偽装し、屋上で爆発に消えたはずの愛華が
まるで忠実な飼い犬のように跪き、父の靴を磨いていたのだ。
「愛華…どうして、そこに……」
私の掠れた声に、愛華がゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、美波やエリカを支配していた時の傲慢さはなく、ただ底知れない恐怖と心酔が混じっている。
「……栞、あなた何もわかってないのね。私を『女王』に育て上げたのは、この人よ。美波に熱湯を渡させたのも、パンドラの一部を私に与えたのも。全部、パパの教育よ」
父——誠は、ゆっくりと立ち上がり、私に歩み寄った。
「栞。お前は私の最高傑作だ。お前の声帯に刻んだ『暗号』。それは、特定の周波数の声でしか解読できない、この国の裏金ネットワークのアクセスキーだ」
「……お前を喋れないようにしたのは、お前がその力を自覚するまで、外部に漏らさないための保護だよ」
「保護……?私の10年を奪ったのが、保護だって言うの!?」
私は激昂し、近くにあったビーカーを父に向かって投げつけた。
父はそれを軽々とかわし、悲しげな溜息をついた。
「声が出ない間、お前は深く思考し、悪意を観察し、強くなった。パンドラを乗り越えた今、お前の声は完成したんだ。さあ、その声で、私に『鍵』を渡しなさい」
父が私の喉元に、見たこともない複雑な形状の集音デバイスを突きつける。
「断れば……九条君、君の出番だ。君が10年前に受け取った裏金。その全記録を今すぐ公開してもいいんだよ?」
九条が銃を構えたまま、苦渋の表情で固まる。
父は、娘を愛する親の顔など、最初から持っていなかった。
彼は自分の築き上げた「犯罪の帝国」を完成させるために
娘の声帯すらもハードディスクの代わりに利用した怪物だったのだ。
その時、私のスマホが再び震えた。
結衣からの、最後にして最大のメッセージ。
【パンドラの心臓】
栞。お父さんの理論には一箇所だけ欠陥がある。
その周波数は、あなたが『絶望』している時ではなく、『誰かを心から否定する時』に最大出力になるの。
私は、父の冷たい目を見つめ返した。
10年分の沈黙。10年分の憎しみ。
それを、すべて一つの音に変える。