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パトカーのドアが開いて、警官が一人、スンホたちの車に近づいてくる。
車内の空気が張り詰めていた。
スンホの手は震えていたが、声を出す勇気はまだどこにもなかった。
「運転手さん、すみません、ちょっと免許証と車検証を――」
警官が窓越しに穏やかに声をかける。
運転手の男がにやりと笑って、書類を差し出そうとしたその時。
後部座席のドアのロックが、内側から外れた。
ガチャ、と小さな音が響く。
男たちが一斉にスンホの方を見た。
スンホが開けたわけじゃなかった。
古い車のロックが緩んでいたのか、さっきスンホがドアに押しつけていたときにずれていたのか――
偶然が重なっただけだった。
警官がそれに気づく。
「……後ろの方、体調大丈夫ですか?」
スンホは思わず警官の目を見た。
男たちの手が、静かにスンホの腕を掴んで止めようとする。
「だいじょ――」
隣の男が遮るように言葉をかぶせた。
「大丈夫です。寝てるだけです。」
だがスンホの目と、警官の目が一瞬で何かを伝え合ってしまった。
警官の視線が男たちの手元に落ちる。
スンホの腕を不自然に掴む指。
空気が一瞬止まった。
警官が顔を険しくした。
「ちょっとドア開けてくれる?」
男たちの手がスンホを引き戻そうとした瞬間、
警官が無線を掴んで何かを叫んだ。
スンホは無意識にドアを押した。
半分開いたドアの隙間から、冷たい空気が流れ込む。
男たちの手がスンホの服を掴んだが、
次の瞬間、別の警官が駆け寄ってきてドアをこじ開けた。
「やめろ!」
スンホは無理やり外へ引き出され、
路肩の冷たい地面に転がった。
警官の大きな声が遠くに響く。
「逃げろ!」
その声に押されるように、スンホは手と膝で地面を這って車から離れた。
背後で、男たちの怒鳴り声が混じり合っていた。
警官に肩を掴まれ、スンホは道路脇まで引き離された。
震える足でなんとか立ち上がると、後ろで怒鳴り声が響いていた。
車の中で揉み合う音。
警官の無線がせわしなく鳴り続ける。
「大丈夫か? 名前は?!」
警官が問いかけるが、スンホは答えられなかった。
喉が渇きすぎて、声が出ない。
「……逃げる……逃げないと……」
自分でも誰に向かって言っているのか分からなかった。
その瞬間だった。
けたたましいタイヤの音が、耳をつんざく。
男たちが車を乗り捨てて飛び出してきたのだ。
道路に立つ警官を押しのけて、
その中の一人がスンホを見つけた。
「おい!! そっち行くな!!」
警官の怒声が飛んだが、男は無視した。
スンホと目が合う。
あの暗い後部座席で、無理やり腕を掴んだあの男の目だった。
「テメェ、逃げんじゃねぇぞ!!」
追ってくる――
スンホの体が勝手に反応した。
逃げないと捕まる。
捕まったら終わる。
足が縺れそうになりながら、
スンホは走り出した。
すれ違いざま、もう一人の警官が男に飛びかかるが、
路肩に倒れて揉み合いになっただけだった。
スンホの耳に、怒鳴り声と無線の声がごちゃ混ぜに響く。
息が切れても振り返らない。
ひたすらに、
東京の灰色の街を、
逃げるしかなかった。