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金曜日の朝が来た。
五月下旬の金曜日。
一週間のいちばん最後の朝は、教室にとっていちばん油断している朝だ。
俺はいつも通り、いちばん後ろのエアコンの真下、廊下側の席に座った。
机の上に、教科書、ペンケース、ノート、そして淡い水色のハンカチを、0.2センチ、引っ込めた位置に置いた。
凛はいつも通り、自分の席で頬杖をついていた。
俺と目が合うと、彼女は唇だけで「ふ・つ・う・に」と四文字、伝えてきた。
そして、ひかりが教室に入ってきた。
「おはよ〜! みんな、今日も生きてる?」
ワントーン高い声。
八十パーセントの笑顔。
半歩、広い歩幅。
——ふつうだった。
昨日の九十五パーセントの無理のある明るさは、もうどこにもなかった。
木曜日の間に、彼女は家で、ちゃんと自分の「八十パーセント」を、ぴったり調整し直してきた。
宣言通りの、ふつうの八十パーセントの七瀬ひかりだった。
「ねぇひかり、昨日結局、彼氏からの連絡だったの?」
「だ、だから、彼氏、いないってば!」
「えー、ほんとにー?」
「ほんとだってば!」
教室の女子たちが笑った。
ひかりも、笑った。
それはもう、ちゃんと教室のふつうの金曜日の朝の、ふつうの笑い声だった。
木曜日の休み時間に、教室の対角線が、パチン、と切れたことなんて、教室の誰も覚えていなかった。
覚えていたのは、たぶん三人だけだった。
一時間目が終わった。
休み時間にひかりがふと、自分の席を立った。
立って、教室の後ろのほうへ、ゆっくり歩いてきた。
——また、ゴミ箱にインク替芯を捨てに来るのか。
俺は心の中で、ほんの少しだけ身構えた。
水曜日のひかりは、空っぽのボールペンを、共犯者にして教室の後ろを歩いた。
ところが、金曜日のひかりは手にボールペンを持っていなかった。
持っていなかった、代わりに——、彼女は、まっすぐ、俺の机のすぐ横まで歩いてきて、立ち止まった。
教室のいちばん明るい場所の住人が、いちばん暗い席の住人の机の横で立ち止まる。
それは、教室の中でほんの少しだけ、ちぐはぐな光景だった。
ただ、金曜日のひかりは、もうそれを隠そうとはしなかった。
「藤宮くん」
「……ん」
「これ」
ひかりは、自分のブレザーの内ポケットから、白いレースのハンカチを取り出した。
きれいにたたまれた、洗いたての白いハンカチ。
月曜日からずっと、彼女が家で洗って、内ポケットに忍ばせてきた、あのハンカチだった。
「返します」
「……え」
「『貸し』、返します」
「……いつ、返すかは『いちばん、忘れた頃に』、じゃ、なかったのか」
「……」
「もう忘れた頃、なのか」
「……ううん」
ひかりはほんの少しだけ、首を横に振った。
「忘れた頃には、ぜんぜんなってないです」
「……じゃあ、なんで」
「忘れた頃に返したら、たぶん、わたし、それまでずっと、このハンカチのこと考えちゃうから」
「……」
「考えちゃうと、たぶん、わたし、教室でふつうの、できなくなるから」
「……」
「だから、忘れる前に返します」
それは、ひかりのいちばん誠実な撤退だった。
「貸し」というセリフを、ずっと抱えていたら、彼女は、教室でふつうでいられなくなる。
ふつうでいられなくなったら、いちばん損をするのは、たぶん彼女自身だ。
そして、彼女がふつうでいられなくなったら、教室の対角線の糸は、もう保たない。
だから彼女は、自分の手で、その「貸し」を忘れる前に清算しに来た。
俺は、その白いハンカチを、受け取った。
受け取りながら、こう言った。
「……七瀬」
「はい」
「これ受け取ったら、もう貸しは、なしか」
「……はい」
「貸しがなくなったら、俺たち、もうなんの接点もなくなるのか」
「……」
ひかりはしばらく、なにも言わなかった。
言わなかったあと、彼女は、ふっ、と目を伏せて、ほんの少しだけ笑った。
「……接点、なくなりますね」
「……」
「図書委員も、来月で、当番終わりだし」
「……」
「もうわたしたち、教室で話す理由なくなっちゃうかもしれないですね」
それはたぶん、ひかりがわざと言った言葉だった。
「接点が、なくなる」と、自分から口に出すことで——、こちらがそれに対して、どう答えるか。
それを、彼女は確かめに来ていた。
「正解には触れない」「断定はしない」という、彼女のルールのなかで。
彼女が、こちらに聞ける、いちばんギリギリの質問だった。
「藤宮くんは、接点がなくなったら、困りますか?」とは、聞かない。
「藤宮くんは、わたしと話す理由、ほしいですか?」とも、聞かない。
ただ「接点、なくなっちゃいますね」と、言う。
言って、こちらの答えを、待つ。
俺は、机の上の白いハンカチを、軽く手のひらで撫でた。
撫でて、それから自分のペンケースの隣の、淡い水色のハンカチを、もう一枚手に取った。
凛から押し付けられた、業務支給品。
0.2センチ引っ込めて置いていた、あのハンカチだった。
俺は、その淡い水色のハンカチを、ひかりのほうへ差し出した。
「……これ、貸す」
「……え」
「貸し出し処理。図書委員じゃなくて、俺の個人的なやつ」
「……」
「これ返しに来るまでが、接点。それでいいだろ」
「……」
「いつ、返すかは」
「……」
「『いちばん、忘れた頃に』でいい」
ひかりは、その淡い水色のハンカチを見ていた。
見て、それからゆっくり、両手で受け取った。
受け取った瞬間、ひかりの八十パーセントの笑顔が、ぐらり、とズレた。
ズレて——、今度は、立て直さなかった。
立て直さないままの、ひかりの笑顔は、八十パーセントでも、夜のひかりでも、図書室の薄い笑顔でもなく——、たぶん教室の、いちばん明るい場所で、はじめて彼女が、自分の「ふつうじゃない」を、半分だけ出した笑顔だった。
「藤宮くん」
「……ん」
「これ、貸し、ですよね」
「……うん」
「ぜったい返しに、来ますからね」
「……うん」
「『いちばん、忘れた頃』、ぜったい来ますから」
「……うん。待ってる」
「……っ」
ひかりは、淡い水色のハンカチを、ぎゅっと両手で握って、それを自分のブレザーの内ポケットにしまった。
白いハンカチが入っていた、あの場所に。
今度は、淡い水色のハンカチが入った。
そして、彼女は軽く頭を下げて、自分の席のほうへ戻っていった。
戻っていく背中の低い位置の、ゆるいひとつ結びのうなじが、五月下旬の金曜日の午前の光に、ほんの少しだけ白く見えた。
そのやりとりを、教室のいちばん中央の席で頬杖をついて、見ていた人間が、ひとり、いた。
凛だった。
凛は、なにも言わなかった。
言わなかった、けれど。
彼女は、自分の手元のノートのいちばん右下の、自分にしか見えない位置にシャープペンの先を置いていた。
そしてそこに、ごく小さくひらがなを書いた。
————
ふ
————
彼女が書こうとして、書かなかった、ひらがな、一文字。
その「ふ」のあとに——、金曜日の教室のいちばん中央で、彼女は、ほんの少しだけ、ためらってから、もう一文字書き足した。
————
ふじ
————
「ふじ」。
「ふじみや」とは、書かなかった。
「ふじみや」と書いた瞬間、それが「藤宮」というクラスメイトの名字ではなく、「藤宮陽人」という、ひとりの男の子の名前として、自分の中に書かれてしまうことを——、凛は、もうわかっていた。
わかっていて。
彼女は、「ふじ」までで、シャープペンの先を止めた。
止めて、その「ふじ」の二文字を、シャープペンの後ろの、消しゴムで、消そうとして——、
消さなかった。
水曜日までの凛なら、たぶん消していた。
木曜日までの凛なら、たぶん迷っていた。
金曜日の凛は——、消さなかった。
「ふじ」の二文字を消さずに、ノートのいちばん右下に残したまま。
彼女は、自分の短いボーイッシュな黒髪の毛先を、片手で軽く耳の後ろにかけた。
そして、自分の口の中で、誰にも聞こえないくらいの小さな声で、こうつぶやいた。
「……普通、でいられる間は、ふつう、でいる」
それは、いつもの彼女の決意の言葉だった。
ただ、金曜日のそれは——、いつもよりほんの少しだけ、語尾がふやけていた。
「いられる間は」。
その「あいだ」が、いつまで続くのか。
それを、凛は、もう自分でも長くはないことを、知っていた。
知っていて、今日のところは、それを、ちゃんと名前にしないことにした。
「ふじ」までで、止めて。
仕切り紙の向こう側に、その続きを、もうしばらく、置いておく。
それが、金曜日の黒澤凛のいちばん小さな、けれど、いちばん本気の決意だった。
ペンケースの、いちばん奥の折れた芯は、まだ寝ていた。
寝ていた、けれど。
その芯のいちばん端っこのところが——、金曜日の朝、ほんの少しだけ、目を覚ましかけていた。
凛は、それを見ないことにして、ノートのいちばん右下の「ふじ」の二文字の上に、自分の手のひらを、そっと重ねた。
重ねた手のひらは、しばらく、そこから動かなかった。
放課後、俺と凛は、いつもの屋上手前の踊り場にいた。
凛は、自販機で買ったコーヒー牛乳のパックを、両手で軽く潰しながら、こう切り出した。
「藤宮」
「……ん」
「今週、いろいろ、あったな」
「……あったな」
「月曜のハンカチから、金曜のハンカチまで」
「……ハンカチで始まって、ハンカチで終わった、一週間だったな」
「ハンカチの貸し借り、まだ続いてるけどな」
「……うん。続いてる」
凛は、コーヒー牛乳の最後の一口を、ずず、と飲み干して、潰したパックをゴミ箱に放り投げた。
パックは、きれいにゴミ箱の口の中に入った。
「藤宮」
「……ん」
「彼女、最後まで、『ヨル先生ですか』って、聞かなかったな」
「……聞かなかった」
「教室のいちばん危ないとこでも、聞かなかった」
「……うん」
「あれ、お前、どう思った?」
「……」
俺は、踊り場の窓の外を、しばらく見ていた。
五月下旬の金曜日の、夕方の光がいつもより、ほんの少しだけ、長く踊り場の床に伸びていた。
「……あれは、たぶん」
「うん」
「彼女のいちばん強い、好きのカタチ、だったと思う」
「……好きの、カタチ?」
「うん」
「聞かないのが?」
「うん」
「『ヨルさんが、自分から言わない限り、聞かない』。それは、たぶん、彼女が、俺の——いや、ヨルのいちばん大事な前提を、守ろうとしてくれてるっていうこと、だから」
「……」
「自分のいちばん知りたいことを、自分で聞かないでいる。それはたぶん、いちばんしんどい、好きのカタチだ」
「……」
「俺はそれに、ちゃんと応えたい、と思った」
「……どうやって」
「彼女が、自分から聞かないでいてくれるなら」
「うん」
「俺も、彼女が自分から、その答えをほしくなる日まで、ちゃんと待つ」
「……待つ?」
「うん」
「いつまで」
「……彼女が『藤宮くん、ヨル先生ですよね』って、自分から聞いても、なにも壊れないって思える日まで」
「……それ、いつだよ」
「……わからない」
「わからないのに、待つのか」
「……うん。待つ」
凛は、しばらく、なにも言わなかった。
言わなかったあと、彼女は、ふっ、と自分の口の端で笑った。
「……お前、変わったな」
「……そうか?」
「先週まで、『別に、誰にも知られなくていい』って、言ってた男が」
「……」
「今週は『彼女が自分から、聞いてもなにも壊れないって、思える日まで待つ』だってさ」
「……」
「だっせ」
「……うるさい」
凛は笑った。
口の端だけじゃなくて、ほんの少しだけ声を出して、笑った。
声を出して笑う凛は、家族と俺の前でしか見せない凛だった。
笑ったあと、彼女はふと、踊り場の窓の外の夕方の空を見た。
五月下旬の金曜日の夕方の空は、ほんの少しだけ夏に近づいた色をしていた。
凛は、その空を見ながら、自分の短いボーイッシュな黒髪の毛先を、片手で軽く耳の後ろにかけた。
そして、誰にも聞こえないくらいの小さな声で、こうつぶやいた。
「……普通、で、いられる間は、ふつう、でいる」
それは、いつもの決意の言葉だった。
ただ、その言葉のいちばん最後の音節が——、夕方の踊り場の空気の中に、いつもよりほんの少しだけ、ふやけて溶けていった。
俺は、それに気づいた。
気づいた、けれど。
凛が、今ノートの右下に「ふじ」までしか、書いていないことも。その「ふじ」を、消さずに残したことも。
俺は、まだ知らなかった。
知らないまま、踊り場の窓の外の夕方の空を、凛と並んで、しばらく見ていた。
その空のいちばん端のほうに——、来週の月曜日の朝が、たぶん、もう、ほんの少しだけ見え始めていた。
来週の月曜日も、ひかりは、たぶん、ふつうの八十パーセントで教室に来る。
来て「おはよ〜! みんな、今日も生きてる?」と、ワントーン高い声で言う。
そして、教室のいちばん明るい場所といちばん暗い席の間の、対角線のいちばん細い場所には——、淡い水色のハンカチの「貸し」が一枚、まだ繋がっている。
その「貸し」が、繋がっている間は。
ふたりの接点は、まだなくならない。
「いちばん、忘れた頃」が、来るまでは。
たぶん、ずっと、来ないままの「いちばん、忘れた頃」が来るまでは。
教室の対角線は、木曜日に一度、パチンと、切れた。
切れた、けれど。
金曜日に、もう一度、淡い水色の糸で結び直された。
結び直された糸は、先週より、少しだけ短くて、少しだけ太くて——、そして、誰にも断定されないまま、ちゃんと繋がっていた。
五月下旬の金曜日の夕方の踊り場に、夏に近づいた色の光が、ほんの少しだけふやけた色で、差し込んでいた。
第二章「通知音は、世界を壊す」、これにて、完。
コメント
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「ふつうの八十パーセント」でいるために、自分から「貸し」を清算しに来たひかりちゃんが、陽人くんの「これ貸す」で一瞬で揺れるシーン、胸が苦しくて温かかったです。あの水色のハンカチ、接点を切らないための繋ぎとして、二人だけの合図になってて。そして凛ちゃんの「ふじ」の二文字を消さなかった決意、彼女の中でちゃんと陽人くんが特別になり始めてるのが伝わってきて…。三人の距離感が繊細で、第二章の締めくくりにふさわしい美しい回でした🕊️🤍