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この部屋は優雅な調度品に包まれ、1階のラウンジでは、楽団の演奏が続いている。
今宵は上弦の月で、窓からは幻想的な庭の光景を堪能することができる。
そんなお膳立てされた空間で、男女のどちらかが天蓋付きのベッドへと誘えば、最高の夜が始まるだろう。
けれど、ティアとグレンシスの間にはそういう雰囲気は皆無。
一方的な解釈をしたティアは、片手で顔を覆って思慮の樹海に入り込んでしまったグレンシスに問いかけた。
「ナフリエ姐さまですか?それともサラ姐さまですか?」
「は?」
「……違いますか。では、アリス姐さまですか?あっ、ユーナ姐さまでしょうか?」
「さっきから、お前は何を言っているんだ?」
覆っていた手を離して顔を上げたグレンシスは、胡乱げな表情をしていた。次第に、不機嫌さが増していく。
エリート騎士のグレンシスは、頭が良いし、察しも良い。けれどティアが何を言いたいのか、さっぱり理解できない。
一方ティアは、心の中で舌打ちした。
(なによもう!こういうことを皆まで言わせないでよ。まったく……!)
肩をすくめたティアは、やれやれと言いたげに口を開いた。
「騎士様は、私のような者に接待を受けるのがご不満なのでしょう?つまり、どなたか、既にお好みのお姐さまをお決めになっておられるのでは?」
「はぁ?」
「あいにく本日は満室御礼となっており、今、申した姐さま達はすでに接客中であります」
「いや、ちょっと待て」
グレンシスは組んでいた足を戻して、中途半端に立ち上がろうとした。
けれど、ティアはそれを遮るようにグレンシスの正面に立ちふさがり、丁寧に頭を下げた。
「ご期待に添うことができず申し訳ありません。ただ、文をしたためてください。私が責任を持ってお姐さまにお渡しします。後日、意中のお姐さまとの席を設けることができるようにします」
きっぱりと宣言したティアは、「便せんはどこだっけ?」と呟きながら、備え付けのチェストへと移動する。
良く見れば、引き出しを探るティアの手は小刻みに震えているし、唇をきつく噛んでいる。
ティアは自分で言ったはずなのに、とても動揺していた。そして、こんなことで狼狽えてしまう自分が馬鹿みたいだと、笑えてしまう。
グレンシスは、誰が己の傷を癒したかを覚えていないから、自分たちは、つい10日前に、裏庭でちょっと見かけただけの間柄でしかない。
それに、自分のことを好きになってほしいなんて望んでいない。彼が、どんな趣味趣向を持っていても、とやかく言う権利はない。
そうわかっているのに、なぜこんなに胸が痛いのだろう。
グレンシスに背を向けているティアは、そっと左胸を押さえた。
心の臓と、グレンシスから移した傷跡。そのどちらが痛んでいるのかわからない。
「……俺は、そんなつもりでここへ来たわけじゃない」
喉の奥から絞り出したようなグレンシスの言葉に、ティアは、ぱちりと瞬きをする。
無表情にしか見えないティアだけれど、今、とても驚いている。
欲しい言葉を貰えて、歓喜が全身を包み──とても現金だが、嘘みたいに胸の痛みが消えた。
けれど疑い深いティアは、まだ手放しに喜ぶことができなかった。
「あら……では、派遣型をご所望でしたか?でも、私にはそんな権限はありません。後ほど──」
「違う!!」
グレンシスは今度はティアの言葉を遮って、窓ガラスが震える程の大声を出した。
もう我慢の限界だった。意味も分からないまま、上司であるバザロフに強引にこんなところに連れ込まれて。そして年端もいかない小娘と二人っきりにさせられて。
しかもあろうことか、目の前の少女は、勝手に自分のことが気に入らないのだと判断して、【チェンジ(他の娼婦を宛がうこと)】をしようとしているのだ。
大変な屈辱であった。
グレンシスには、想い人がいる。
名前も歳もわからない。どこに住んでいるのかもわからない。手掛かりは、ほとんどないけれど、その女性に恋焦がれていた。
彼が恋に落ちたのは、3年前。それからずっとずっと、その人を探し続けている。
だからこそグレンシスは、余計にティアの言動に苛立った。
万が一、想い人に自分が娼館に通ったなんていう事実が伝わってしまったら、どう責任取ってくれるんだと。
小娘相手にムキになるなともう一人の自分に諫められても、怒りはどうにもこうにもおさまらない。
グレンシスは勢いよく立ち上がると、ティアに詰め寄った。
「何が派遣型だっ。ガキのくせに、そんな言葉を使うんじゃない!それに俺は何度も言っているが、仕事でここにきている。女漁りをするためなんかじゃない!!だいたい、こんなところ、誰が好き好んで足を向けるものか!」
グレンシスが青筋を立てながらそう叫んだ瞬間、ガチャリと扉が開いた。