ノックもなしに部屋に足を踏み入れたのは、バザロフとマダムローズだった。
話が終わり、グレンシスを迎えに来たのだろう。でも、少しくらいは自分と過ごす時間を取ってもらえると嬉しいなと、ティアの胸が期待で膨らむ。
けれども、すぐ隣にいるマダムローズの顔を見た途端、それは難しいかもしれないと思った。
(あ、恐ろしいほど……タイミングが悪かった)
メゾン・プレザンの主であるマダムローズは、とても静かに怒っていた。
多分……いや、間違いなく、グレンシスの罵声を聞いてしまったからなのだろう。
「こんなところ?誰が好き好んで?……ずいぶんなことを言ってくれるねぇ、坊や」
マダムローズの声は、心の芯まで凍る冷ややかな響きだった。
メゾン・プレザンの主、マダムローズは、地方の商人の娘として生まれ、不幸な少女時代を送った。
その後、娼婦となってからは、その身分にそぐわぬ気品ある美貌と、知性と教養ある女性として、たちまち花形に上り詰めた女帝だ。
艶やかな亜麻色の髪とブラウンの瞳から、最盛期にはウィリスタリア国の琥珀と呼ばれ、多くの上流階級の男性達を虜にした。
そんな海千山千の女主は、エリート騎士であっても容赦はしない。
「はっ、ケツの青いガキが、舐め腐ったこと言ってんじゃないよ」
現役を引退したとはいえ、男を従わせる絶対的な何かを秘めたマダムローズの視線に、グレンシスはあっという間に牙を捥がれてしまった。
若造をやり込めたマダムローズは、ふんっ!と鼻で笑うと、ティアに視線を向け、とんでもないことを口にした。
「ティア、仕事だよ。あんた今日からグレンシスさまの元へ行きな」
言っている意味がわからず、ティアはものの見事に硬直した。
しかしすぐ隣で同じ言葉を聞いたグレンシスは、今の今に受けた出来事を忘れ、怒りで赤く顔を染めながら声を荒げた。
「ふざけないで頂きたいっ」
そう叫ぶグレンシスの勢いは止まらない。
「何故、私がこんな小娘を屋敷に迎え入れなければならないのですか!?冗談じゃないっ。私の屋敷は保育所でもなければ養護院でもないっ」
小娘呼ばわりされたティアは、ここは怒るべきところだが、自分に振りかかろうとしている厄災にそれどころではない。
「そうですよっ。なんで、こんないけ好かない男の屋敷に私が行かないといけないんですかっ」
地団太を踏みながら、必死にティアもマダムローズに訴える内容は、奇しくもグレンシスと同じもの。
傍から見たら、子供の癇癪にも見えてしまうこの光景、普段あまり表情を動かさないティアにしては随分珍しく、マダムローズとバザロフは同時に目を丸くした。
「おやまあ、息がピッタリだこと。これなら、問題なさそうだね」
「ああ。そのようだな」
短い会話で、この二人の関係がとても深いものであることが用意に想像できるが、今はどうでもいい。
「問題多アリだ!勝手に話を進めないでいただきたいっ」
このままだと、纏まってしまいそうな流れを感じてグレンシスは異議あり!と青筋立てる。
そんなグレンシスに応えたのは、バザロフだった。
「そう怒るな、グレン。これは命令だ」
「どこのどいつですか。そんなけったいな命を出したのは!」
吐き捨てるようにそう言ったグレンシスに、バザロフは苦笑を浮かべる。
「バージル国王陛下だ」
「は?」
「年明けにお前が仕えている第四王女がオルドレイ国に嫁ぐことになっているが、輿入れの時期が早まった」
「……いつ……ですか?」
「10日後だ」
「は?はぁぁぁぁー?!俺は!何も聞いてませんよ!?何も!」
「そりゃあ、そうだろう。お前に言ったところで反対するに決まっているからな。王女だって、無駄にお前から説教を受けたくはないだろう」
「……っ」
「ま、儂もそれは如何なものかと思ったが、あの王女が決めたことだ。最後のワガママだと思って聞いてやれ。それに陛下を始め、宰相も皆、この件については同意している。もはや他の手立てはない。諦めろ」
な!と丸めこむように。バザロフはグレンシスの肩を叩いた。
まるで幼子を慰めているようにも見える、とてもほのぼのとした光景だったが、グレンシスにとっては、なんの慰めにもならない。
「……恐れながら、最後に一つ、質問をしても?」
「ああ、かまわん」
「なぜ、こいつを私の屋敷に?」
グレンシスは、こいつと言いながらティアを指さした。
(あら、ずいぶんと…お行儀のいいことですねぇ)
心の中で毒づくティアは、その長く節ばった指を引っ叩いて差し上げようかと思った。
けれどその前に、バザロフが説明を始めてしまった。
「ティアは、王女の侍女に適任だと思ってな。儂が推薦してみた。色々協議はしたが、最終的に宰相の判断でティアを供にすることになったんだ」
「は?」
グレンシスは間の抜けた声を出すことしかできないが、ティアはマダムローズが、わざわざ自分に仕事だと言った理由を理解した。
バザロフが自分を王女の侍女にしたのは、”移し身の術”を使う必要があるかもしれないからだ。
娼館育ちのティアだけれど、多少はこの国の情勢については知っている。
王女の嫁ぎ先であるオルドレイ国は、かつてこのウィリスタリア国と領地をめぐって戦争をした。
結果的にウィリスタリア国の勝利となったが、互いに多くの犠牲者を産んだ悲惨なものだった。
つまり此度の婚礼は、和睦のようなもので、この婚姻を良く思わない者も多くいるのだろう。そのため、王女がオルドレイに向かうまでの旅路は、とても危険なものになる。
王女に万が一の事があれば婚姻は帳消しになり、最悪、それをきっかけに再び、戦端の火蓋が切られるかもしれない。
王女に傷一つ付けることなく、嫁ぎ先へ送り届けるためには、ティアの存在が不可欠なのだ。
そのことを確認するためにティアが、そぉっとマダムローズに目で問いかければ、その通りだと言いたげに、にぃっと口の端を持ち上げた。
これでティアは納得したけれど、隣にいるグレンシスはまだまだ納得していない。上官に向かって、どうよ?と思うような表情を向けている。
「王女はああ見えて、大の小動物好きだ。ティアならきっと王女も気に入るだろう。旅路も大人しくなるに違いない。……と、いってもまぁ……娼館から出立するのは、これまたいかがなものかと思ってな。だから、グレン、お前が屋敷で面倒みている遠縁の娘という体で出立までティアを屋敷に住まわせてやってくれ」
重ねられた説明でバザロスは、グレンシスに”移し身の術”を使えることを伝える気はないと、ティアは理解する。
この提案は、事情を全て把握している者には、手を打ちたくなるほどの名案だ。
けれど、事情を知らないグレンシスにとったら、理解不能な悪夢を見ているだけ。
「……最悪だ」
呻くようにそう言ったグレンシスの表情は、崖っぷちに追い込まれたような絶望と、それでも何とか活路を見いだそうとするものだった。
反対にティアは、怒ることも悪あがきをすることもなく、どこか達観した様子で、大きなため息を一つ吐いた。
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