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あれから次の土曜日になった。マイホームの打ち合わせの日だ。
新藤さんに会えるから朝からテンション高めな私。きっと今日も音楽の話で盛り上がるのだろう。それに加え、リアル眼鏡&スーツのイケメンを拝めるなんて。眼福とは正にこのこと。
新藤さんに会えて嬉しいと思うのは決してやましい気持ちからくるものではなく、あくまでも『リアル眼鏡&スーツのイケメン』を拝見できること! これ、大事よね。浮気じゃない。言うなれば推しアイドルに会えるので嬉しい、という感じかな。
印鑑を忘れずに確認して大栄建設に向かった。午前十時の待ち合わせで五分前到着にも関わらず、新藤さんは煉瓦の建物の外で待っていた。そして私たちの姿を見つけるとこちらへ歩み寄り、
「この度は弊社でのご契約、誠に有難うございます」
と、深々と頭を下げられた。
三月も終わりでもまだ肌寒い時期に、わざわざ建物の外で私たちの到着を待っているなんて。
営業って本当に大変な仕事だ。
「寒い中、お待ちいただきありがとうございます。こちらこそお世話になります、よろしくお願いします」
同じように深々と頭を下げて建物内に入った。応接室へ案内してもらい、早速契約書にサインと印鑑を押した。
「これで契約になるのかぁ」
ドキドキすると光貴が言った。仮契約をした時、同時に住宅ローン申請の手配も済ませたのでその結果を聞いた。大きな問題は無く、頭金を収める前提でフルローンが組めると聞いた。無事に審査が通って良かったと胸をなでおろす。
黒革の分厚いファイルに書類一式が挟まれていて、指定箇所にたくさんのサインを書かされ、押印を求められた。さすがの光貴も今日ばかりは私に押し付けずに最後まで自分がサインや押印をしてくれたが、名前を書く欄が多すぎて腱鞘炎になりそうや、とぼやいていた。
書く→押印→説明を聞く、という流れを二時間くらいループして本契約がようやく終了。契約できて嬉しいというより、説明やサイン書きが非常に多くて疲れた、という印象だった。マイホームの契約ってこんなもの?
嬉しいというより面倒という感想を持つ私は、世間一般の考えとはズレているような気がした。
契約も無事遂行されたので、おかわりのお茶と美味しいクッキーををご馳走になって、新藤さんと音楽話で談笑した。話に夢中になっているとあっという間に昼前に。今日は新藤さんだけでなく他の営業マンの方にも見送られ、相当な重量の書類一式のお土産と共に大栄建設を後にした。
愛車を発進させ、ハンドルを切る光貴に聞いてみた。「今日はもう用事ないよね?」
「うん。打ち合わせが長引いてもいいように、休みにしておいたから。夜はヘルプでスタジオ入りを頼まれるかも」
ギターの腕がいい光貴は交流のあるバンドに呼ばれて、ピンチヒッターを請け負うことがあるが夜なら問題はない。
「だったら、景気づけに湊川神社行こうよ。安産祈願しない?」
「えっ。気ぃ早いな」最初は驚いたが、光貴は嬉しそうに笑った。「ええよ。行こう」
光貴は私の望み通り、湊川神社を目指してくれた。
大栄建設から湊川神社は、目と鼻の先でとても近い。本当は妊娠してから行くようだけれど、お守りだけでも買っておきたかった。
この湊川神社は、別名楠公(なんこう)さんとも呼ばれている。湊川の戦で足利軍に敗れた、楠木正成公らを祭る神社。歴史を読むと楠木氏が立派な人柄だったことがよくわかる。
鎌倉軍を退陣に追いやり、鎌倉幕府を終結させたのは楠木氏で、戦国時代の歴史に大きく貢献した人物である。
鎌倉幕府が滅亡したことによって、京都に還御された後醍醐天皇らの新しい体制で国を治めようとした「建武の中興(けんむのちゅうこう)」に不満を持った足利尊氏の謀反によって再び戦乱が起きてしまう。
新たな歴史の波には抗えず、楠木氏がどれほど素晴らしい策士でも、多勢に無勢では手の打ちようがなかった。大郡を引き連れた足利軍には勝てず、兵庫の地(この湊川)で殉節された。
”七度生まれ変わっても朝敵を我が手で滅ぼさん”――後世「七生滅賊」と呼ばれる契りを交わし、自刃。そのお言葉は、今でも語り継がれている。
そんな正成公の母君は、子宝に恵まれなかったと文献にある。信貴山の毘沙門天に百日詣をされ、夢のお告げでようやく正成公を授かる事ができたのだ。昔の時代を生きる彼らにとって継承者問題は、とても重要なこと。
夢のお告げって、ロマンチック。
そんな経緯があるからこの湊川神社は、安産祈願や結婚式、夫婦に関する方面に強い神社となっている。訪れるた際、ちょうど結婚式を進行中だったので、安産祈願はせずにお参りだけにして、社務所でお守りを買って帰った。
どうか光貴との子供が無事に授かり、辛い情事が無くなりますように――我ながら最低なお願いだったと思う。しかし願わざるを得なかった。
私が子作りに乗り気だと勘違いしてしまった光貴が頑張ってくれたため、連日彼を受け入れることになった私にとって辛い夜となってしまった。
あと何回、これが続くのだろう。それを想うと辛くなる。
神様、どうか早く『夢のお告げ』が実現しますように――