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半年後、休職期間が明けると共に私は地元の市立病院へ研修先を変更した。


そこは、一応産科はあるものの通常の分娩の対応が精一杯で、難しい患者は大学病院へ搬送するしかないようなところ。

珍しい症例にも出会わず、高度医療からもかけ離れたところだけれど、穏やかで一人一人の患者さんとじっくり向き合える病院。

私はここで残された1年半の研修を受けることにした。


この決断に迷いがなかったと言えば、嘘になる。

医者としてのスキルを考えるなら大学病院にいる方がいいとも思うし、一度決めたことを諦めたくもなかった。

でもこの先を考えたとき、仕事だけがすべてでないと思えた。

そう思わせてくれたの徹。

彼と生きるために、私は人生の優先順位を少しだけ変更した。


「乃恵先生、あがりですか?」

ちょうどデスクを片づけたところで、後輩研修医の和人君が声をかけてきた、


「うん、もう帰るよ」

この病院に来てから残業もほとんどないし、ほぼ毎日定時の生活。


「今からみんなで飲みに行くんですけれど、よかったら一緒に行きましょうよ」

「ええー」


見ると、和人君の後ろには数人のスタッフの姿がある。

どうやら今日は若手の飲み会ってところかしら。


「もしかして、旦那さんに怒られます?」

迷っている私を見て、年上の看護師美咲さんが心配してくれる。


「別に、怒られはしないし。それに今は出張中で留守なの」

だから、徹のことはいいんだけれど。


「何か、予定がありますか?」

「うん、友達と食事の約束が」


「友達って、あのすげー美人ですか?」

「うん」


「「ぜひ、ご一緒に」」

あーぁ、男性陣の声がそろっちゃった。


***


実はこの病院、鈴森商事の本社ビルからすごく近い。

それが研修先をここにした理由の一つでもある。

そして、1ヶ月ほど前からここでの勤務を始めた私を何度か尋ねて来ている麗子さん。

時間を見つけてランチをしたりお茶をするくらいなんだけれど、とにかく麗子さんの容姿は目立つから、みんなに『あの美人は誰ですか?』『一度飲み会をセッティングしてください』と言われ続けていた。


「お願いします、聞いてみてください」

手を合わせて私を見る男性陣。


「えー」


今夜の飲み会のメンバーは、30代男性医師2人と研修医の和人君、あとは中堅看護師の美咲さん。

麗子さんが加わっても困りはしないけれど・・・


「いいじゃないですか、私も噂の美人さんを見てみたいです」

美咲さんにそう言われてしまえば、


「じゃあ、聞くだけ聞いてみます」

あきらめて携帯を取り出すしかない。


きっと麗子さんなら、『いいわよー』と2つ返事なんだろうなと思いながら、私は麗子さんに連絡を取った。



***


「じゃあ、カンパーイ」


私の予想通り、麗子さんはOKの返事をくれた。

そしてやって来たのが、病院近くの居酒屋。


「こんなところじゃなくて、もっとおしゃれな店にしろよ」

和人君の店選びに、先輩ドクターが渋い顔をしている。


「いいじゃないですか、居酒屋の方が気兼ねなく飲めますから」


麗子さんがジョッキを空けながら言うと、美咲さんもウンウンと頷いている。


よかった、いい雰囲気。

麗子さんって綺麗だから連れて行けば男子は必ず喜ぶんだけれど、女子の反応の方が怖いんだよね。

でも、麗子さんと美咲さんとはとっても楽しそうに話しをしている。


「ところで、麗子さんは独身ですか?」

さすが、先輩ドクターの猛アピール。


「ええ結婚はしていませんが、結婚を約束した人がいます」


「へえー」

ちょっとだけ声のトーンが落ちたのがおかしくて、クスッと笑いそうになった。


いくらドクターでも、麗子さんは無理。

だって、孝太郎さんが手放すわけがないんだから。



***


「先生、諦めてください。麗子さんの彼は超お金持ちで、すっごい二枚目で、麗子さんを溺愛しているんですから横恋慕なんかすればこの世から抹殺されますよ」

これはあながち嘘でもない。


「へーそうなんだ」


「もう乃恵ちゃん、大袈裟ね。それを言うなら徹も一緒でしょ」

「まあ、そうですけれど」


兄弟みたいに育った2人は、独占欲も嫉妬心も同じくらい強くて時々暴走してくれる。



「今日は、孝太郎さん大丈夫なんですか?」


今までも何度か麗子さんとの食事中に乱入されたことがある。

さすがに、今日はまずいでしょうから。


「うん。今日は接待があって遅くなるはずだし、乃恵ちゃんと食事に行くって言ってきたしね」

問題ないと思うわよと、麗子さんは楽観的。


「ならいいですけれど」


「徹はアメリカ出張中よね?」

「ええ。あと2日は帰って来ません。そうじゃなかったら今日も来れなかったと思います」

ああ見えて厳しいので。


「せっかくのチャンスだから、羽を伸ばしましょうね」

すっでに2敗目のジョッキを空にした麗子さん。


「はい」


体のことを考えるとお酒は飲めないけれど、仲間と飲む雰囲気は楽しくて好き。

上司の愚痴や麗子さんとの会話で盛り上がるみんなを見ながら、私も浮かれていった。


***


「すみませーん、ラストオーダーです」


どうやら和人君が飲み放題のコースを注文していたらしく、2時間後に店員から声がかかった。


「じゃあ俺はハイボール」

「レモンチューハイ」

「私も」

「俺は、梅酒」

「俺はビール」

「ウーロン茶をお願いします」


最後までみんなよく飲んだ。

2時間なんてあっというまで、「もう一軒行こうよ」と和人君が誘ってくれたけれど、


「明日も仕事だし、帰りますよ」

美咲さんが止めてくれて、何とかお開きになった。


「ごちそうさまでした」


私も麗子さんもお財布を出したが、結局ドクター2人のおごり。

申し訳ないと思いながらも、素直にお礼を言った。




「麗子さん、タクシー呼びます?」


時刻は9時半。

私は飲んでいないから電車でも帰れるんだけれど、麗子さんはだいぶ飲んでいたから。


「大丈夫、自分で呼ぶから」

そう言ってカバンから携帯を取り出した麗子さん。


画面を見ながら動きが止まった。


***


「どうかしました?」

麗子さんの表情があまりに硬くて声をかけた。


「うん、ちょっと」


どうやら孝太郎さんからの着信だったみたい。


「大丈夫ですか?」

「うーん」

麗子さんが唸った時、


「麗子」

麗子さんを呼ぶ声が聞こえた。


当然その場にいたメンバーは声の方を振り返る。


そこに現れたのは、孝太郎さんだった。


「えぇっと」

美咲さんが、『この人は誰?』と私に視線を送っている。


「あの・・・」

どう説明するのがいいのかと迷っていると、


「鈴木孝太郎と申します。麗子がお世話になりました」


完璧な笑顔を見せる孝太郎さんにみんな言葉が続かない。

それにこの笑顔は怖い。


「電話がつながらないから心配したよ」

「うん、ごめん」


「ずいぶん賑やかな飲み会だったんだな」


うぇー、孝太郎さん怖すぎる。


「乃恵ちゃんも一緒だったのか」

今度は私の方を見てニコリ。


だから、怖いんですって。


「乃恵ちゃん、送るよ」

「いや、大丈夫で」

「徹、いないんだろ?」

「まあ、そうですけど」

「ほら、行くよ」


どうやら拒否はできないらしいです。


***


初めて乗った孝太郎さんの高級感漂う車。

徹のとはタイプが違うけれど、どちらも高そうな車だ。


「顔色悪いけれど、一体どれくらい飲んだんだよ」

ミラー越しに麗子さんを見る孝太郎さん。


「そんなに飲んでないわよ」

小声で答えて窓の外に視線を向ける麗子さん。


この状況の私はとても場違いで、なんだかすごく気まずい。

できれば一刻も早くここから出たいんだけれど・・・


「そう言えば乃恵ちゃん、携帯見た?」

「え、携帯?」


携帯は鞄の底にしまったまま。

病院ではマナーモードにしているし、今は徹も海外で時差がありあまりかけられないから。

って、待って、もしかして、


「孝太郎さん、まさか、徹に・・・」


「もちろん連絡したよ。君にも麗子にも連絡が取れないんだから、当たり前だろ?」

「そんなあぁ」


恐る恐る鞄から取り出し確認してみる。


うわぁー。

そこにはすごい数の着信。


これって、かなりマズイよね。


***


『麗子さんと食事に行っていて、着信に気づかなかったの。

今は、孝太郎さんに送ってもらって帰るところ。

心配させてごめんなさい。私は元気だから、安心してお仕事頑張って』

言い訳っぽいなと思いながら、私はメッセージを送った。


出張先のアメリカとは時差があり、この時間はまだ明け方で眠っているかもしれないけれど、とりあえず連絡を入れた。

もしかして電話が来るかなとドキドキしながら待っていると、


『無事で安心した。ちゃんと孝太郎に家まで送ってもらえよ。俺ももうすぐ帰るからな』


想像より優しい言葉で、ホッとした。

だって、


「なんで知り合いでもない男と飲んでるんだよ」

「男って、乃恵ちゃんの同僚でしょ」

「乃恵ちゃんの同僚でも、お前には関係ないじゃないか」

「そんなあ・・・」


さっきからこんな会話が続いている。


いつもすましてヤングエグゼクティブって感じの孝太郎さんからは想像もできないけれど、麗子さんの前では時々こんな顔を見せる。


孝太郎さんは、どこに行っても人目についてすぐに声をかけられる麗子さんが心配で仕方がないんだろうし、こんな風に嫉妬心を見せられることを麗子さん自身も本心で嫌っているわけではないと思う。


結局この二人はラブラブなんだ。


来年の秋、孝太郎さんの社長就任とともに2人は入籍する。

知り合って五年もの時間をかけて、やっと結ばれる。

結婚式は海外で二人っきりで上げるけれど、その後は鈴森商事の社長として大きな披露宴が予定されているらしい。

うらやましいけれど、大変そうだな。


「乃恵ちゃん、着いたよ」

「え、ああ」


考え事をしていたらマンションに到着していた。



「じゃあ、おやすみなさい」

車を降りマンションのエントランスに駆け込む私。


それを確認して車は動き出す。


2人を乗せた車は孝太郎さんのマンションに向けて走り去った。


***


翌日。


いつものように定時で仕事が終わり、自宅に向かう。

昨日は色々あって帰るとすぐに寝てしまったから、今日は洗濯をして少し勉強でもしよう。

いくら仕事に余裕ができたといってもまだ社会人2年目の駆け出しである以上、覚えることは山ほどある。

できる時にしなくちゃ。

そう思って職員通用口を出たところで、


「乃恵」

声がかかった。


「徹?」


先週からアメリカ出張に行っていた徹が、そこにいた。


確か帰りは明日の夜のはずだったけれど、

「ずいぶん早かったのね」

「ああ、頑張って仕事を前倒しして帰って来た」


ふーん。


「どうしよう。今日は徹がいないと思って、夕食は用意してないのよ」


1人なら総菜でも買って済ませるつもりだったし。

事前に知らせてくれれば何か用意したのに。


「いいよ。急に帰って来たんだから。どこかで食べて帰るか?」

「うん。でも、疲れているでしょ?待ってくれれば、何か作るよ」

「いや、たまには2人で食べに行こう」


そう言うと、徹は私の腕をとって歩き出した。


***


徹さんが連れてきてくれたのは隠れ家みたいな小さなお店。

大通りから一本入ったところにあって、看板も何もなく知っていなければ絶対に気づかないようなところ。



「さあ、どうぞ」

どうやら事前に予約がしてあったらしく、私たちは狭い廊下の先にある個室へと案内された。



「うわぁー」

部屋に入った瞬間、私は大声を上げてしまった。


個室自体は10畳ほどの程よいスペース。

大き目のテーブルがあり、座り心地のよさそうなソファーセットが置かれている。

落ちつた木目のインテリアで統一された室内は少し薄暗い照明で、テーブルに置かれたキャンドルが光を揺らす。

とにかく素敵で、女の子が好きそうなシチュエーション。

でも、私が驚いたのはそのことではなかった。


「すごーい」

凄すぎる。


今私たちの通された部屋の一面はガラス張りになっていて、そこから満開の桜が窓を覆っている。

本当に窓一面桜の花で、手を伸ばせば届きそうな距離にある。


「これって、どういう状況?」

思わず聞きたくなるくらい、非日常の世界だった。


***


桜っていうのは木になるわけで、当然お花見は見上げてするものだと思っていたけれど、今目の前にある桜は私の目の高さ。

まるで私たちが桜の中に飛び込んでしまったような錯覚さえ覚える。

それに、この店自体大通りを一本入った先にあったはずで、桜並木なんてなかったと思う。


「一体どうなっているの?」


ククク。

可笑しそうに笑う徹。


「笑ってないで、種明かし」


「はいはい」

そう言うと、徹は私の手を引きガラス戸を1枚開けた。


うわぁー。

本当に手が届きそうな桜の花。

春の夜風に乗って桜の匂いまで部屋に入ってくる。


「わかる?」

「何が?」


「桜の香りと一緒に線香の匂いもするだろ?」


ええ?


ああ、確かに。

そういわれれば、お香の香りが少し。


「この店の裏手には大きな寺院があってね、その敷地に桜の木があるんだ。たまたまこの家を相続したオーナーが店を始める時にどうしても桜を取り入れたくてこんな部屋を作ったってわけ。要は借景だな」

「借景?」

「ああ、桜がよく見えるように敷地ぎりぎりに店を立てて、床の高さも桜に合わせて少しだけ高くしてある」

「へえー」


だから、まるで桜の中にいるような気になったんだ。


***


「気に入った?」

私の表情を探る徹が、かわいい。


「うん、すごく素敵」

こんな綺麗な桜を二人締めなんて贅沢な気もするけれど、夢みたい。


「乃恵と初めての花見だからな」

「お花見?」

「ああ」


そういえば、『いつかお花見に行こう』って約束した気がする。

夢だったのか現実だったのか記憶は定かではないけれど、2人で行こうって確かに誘ってもらった。


「さあ、食べよう」


私たちが桜に見とれている間に並んだ和懐石。

どれも綺麗で食べるのがもったいないみたい。


「わざわざ用意してくれたの?」


仕事が忙しいはずなのに、いつの間に。


「まあな」

恥ずかしそうに、プイと視線をずらす徹。


「ありがとう」

すごくうれしい。


「なあ乃恵、今日が何の日か覚えているか?」


「えっと、」

今日は・・・何の日だっけ?


「1年前の今日、俺たちは初めて出会った」


ああ、そうだった。


***


そうか、あの時徹に出会わなければ今の私はいない。

こんな風に穏やかな気持ちで桜を愛でることもなかったと思う。


「あの時、偶然見かけた乃恵の後を追ったんだ。もしかして陣の妹かもとは思ったけれど、何の確信もなかった。それなのに、後をつけて、声をかけて、無理やりマンションに連れて帰った」

少し照れながら話す徹を私は見つめていた。


「一歩間違えば犯罪者ね」

「ああ、そうだな」


私はあの時、誰かにすがりたかった。

1人で立っていられないくらい、限界だった。


「乃恵が陣の妹だってわかって、陣が怒っているのも知って、一度は離れようと思ったんだ」

「うん、私もそう思った」


私は徹の重荷になるだけで、何の役にも立たないと知ってしまったから。

自分の存在意味すら見失いかけていた。


「でも、この思いは止められなかった」

「うん」


「たとえ世界中が敵に回っても、俺は乃恵がいてくれればいい。来年も、再来年もここで花見をしよう」

「うん」


どちらからともなく手を伸ばし、私たちは抱きしめあっていた。

唇が重なり、もどかしく絡まっていく。


私たちは夜桜の色香に惑わされた。

***


「なあ」

「ん?」


息のかかりそうな距離で呼ばれ、顔を上げる。


「今朝、麗子が電話してきた」

「麗子さんが?」

「ああ」


やっぱり麗子さんと徹は仲がいいのね。


「それで?」

無意識のうちに不機嫌が表情に出た。


「昨日は自分が飲み過ぎただけで乃恵は一口も飲んでないし、会社の同僚に誘われて断れなかっただけだから怒らないでくれって」

「へー」


麗子さんらしいな。

嫉妬心を出してしまった自分が恥ずかしい。


ククク。

なぜが突然徹が笑い出した。


「何よ」

不機嫌になった私を子供みたいだって笑う気かしら。


「麗子の奴すげえ声が枯れててさ、ひどいんだ」

「えっ」

それって・・・


「そんな状態なのに、朝っぱらから俺に電話してきたんだぞ」

「・・・」


きっと、それは、昨日の夜、

それ以上は想像しないでおこう。


「今夜は俺たちも、な?」

「う、うん」


その夜、私たちはいつも以上に仲良くなった。




* Fin *

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