テラーノベル
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ヨコハマの夜は、あの日から何も変わっていないように見えた。
フョードルとの死闘が終結し、世界を揺るがした騒乱は過去の記録へと移り変わった。街には平和の皮を被った日常が戻り、ポートマフィアはその瓦礫の中で以前よりも強固な地盤を築き上げている。二十五歳になった中原中也は、組織の「重力使い」として、そして五大幹部の一人として、変わらず血と硝煙の匂いに塗れた日々を送っていた。
だが、決定的に欠けているものがあった。
太宰治。 あの忌々しくも、己の人生の半分を支配していた男が消えてから、かなりの月日が流れた。行方不明、あるいは戦死。確実な報せなど何もないまま、ただ彼だけがこの街からふっといなくなった。中也の隣にあったはずの、喧しいまでの皮肉と、底知れない闇が、そのまま空白となって凍りついている。
「……チッ、酒が不味いわけだ」
任務を終え、自身のセーフハウスへと向かう夜道。中也は独りごちた。 普段なら部下に車を出させるが、今夜は一人で歩きたかった。春の終わりを告げる湿った風が、黒い外套を揺らす。二十五歳になり、体躯こそ劇的な変化はないものの、その肩に乗る責任と孤独は、かつての少年時代とは比べものにならないほど重くなっていた。
その場所は、本来なら誰の目にも触れない、ゴミ溜めのような路地の外れだった。建物の影、湿ったアスファルトの上に、「それ」は転がっていた。
最初は、誰かが捨てた粗大ゴミかと思った。あるいは、始末し損ねた敵の死体か。 だが、中也の足が止まったのは、理屈ではなかった。心臓の奥が、ありもしない共鳴を鳴らしたのだ。
「……あ?」
低く掠れた声が漏れる。 中也は吸い寄せられるように、ゴミ箱の陰、泥にまみれたその場所へ踏み込んだ。
そこに横たわっていたのは、一人の少女だった。 推定では十二歳か、そこらだろうか。異常なまでに細い手足は骨が浮き出ており、肌は病的なまでに白い。そして何より、中也の呼吸を止めたのは、その顔立ちだった。
緩やかに波打つ、砂色の髪。 長く、憂いを帯びた睫毛。 まだ幼さは残っているが、その輪郭、鼻筋、唇の形にいたるまで、中也が嫌というほど見続けてきた「あの男」の面影が、残酷なほど正確に刻まれていた。
「太宰……?」
思わずその名を呼んだ。だが、返ってくるのは湿った風の音だけだ。 少女はボロボロの、薄い布切れのようなものを纏っているだけで、ひどく震えていた。中也が恐る恐るその肩に触れると、肌は驚くほど冷たい。人間というよりは、精巧に作られた無機質に近い冷たさだ。
少女の瞳が、ゆっくりと開かれた。 焦点の定まらない、深い赤褐色の瞳。それは太宰治がかつて持っていた、虚無そのものの色だった。
「……あ、……ぁ……」
少女の唇が微かに動く。だが、言葉にはならない。 中也は直感的に理解した。これが何であるのかを。裏社会で密かに流通しているという噂を耳にしたことがあった。「ドール」。遺伝子工学を悪用し、特定の人物の容姿を模して作られた生体標本。その主な用途は、歪んだ欲望をぶつけるための「道具」だ。
目の前の少女は、太宰治の遺伝子を用いて生成された、愛玩用のドールだった。
「ふぇ、っ……ぁ……」
中也が抱き寄せようとすると、少女は怯えたように身を竦め、掠れた声を漏らした。泣き出しそうな、それでいて感情の欠落した、雛鳥のような鳴き声。
中也の胸の内に、猛烈な怒りと、それ以上に抗いがたい「執着」が渦巻いた。 太宰治は死んだ。あるいは消えた。だが、神様が皮肉な奇跡を見せたのか、あるいは悪魔が中也を嘲笑っているのか。今、自分の腕の中には、かつての相棒の欠片を持った「モノ」がいる。
「……連れて帰るぞ。こんなとこに置いとけるかよ」
中也は自らの黒い外套を脱ぎ、細い少女の体を包み込んだ。重力の異能を使うまでもない、羽のように軽い体だった。
セーフハウスに戻った中也は、すぐさま組織の裏医者を呼びつけ、少女の検分をさせた。 結果は惨棖たるものだった。彼女には最低限の生命維持と、性的奉仕のための「知識」しか植え付けられていなかった。言葉は流暢に喋れず、前世の記憶などという高尚なものも存在しない。ただ、太宰治の形をしただけの肉の器。
「中也さん、これは……いわゆる、そういう目的のためのドールですよ。日常会話もままならないはずだ。心なんて、期待しちゃいけません」
医者の言葉に、中也は何も答えなかった。 ただ、ベッドの上で丸くなっている少女を見つめていた。彼女は中也から与えられた清潔なシャツの中で、自分の細い指先を不思議そうに眺めている。
翌朝、中也は首領の元へ向かった。 「一身上の都合で、まとまった休暇をいただく」 マフィアの幹部としては異例の申し出だったが、森鴎外はその賢明な瞳で中也を見据え、すべてを見透かしたように小さく笑った。 「よかろう。君には休養が必要だ、中也君。……その『贈り物』を大切にするといい」
それからの日々は、中也にとって未知の連続だった。 二十五歳、百戦錬磨の幹部が、十二歳ほどの外見をした少女の世話に明け暮れることになったのだ。
「ほら、食え。スープだ。熱くねえから」
中也が匙ですくい、少女の口元へ運ぶ。 少女は、おどおどとした瞳で中也を見上げ、おずおずと小さな口を開けた。
「……あ、……む……。……おい、しぃ……?」
たどたどしい、ひらがなを並べたような口調。彼女の語彙は極端に少なかった。教育というものを一切受けず、ただ「道具」として出荷される寸前だったのだから。
「ああ、美味い。たっぷり食え。お前、ガリガリすぎるんだよ」
中也の手が、少女の頬に触れる。 その瞬間、少女の体にびくりと緊張が走った。彼女は中也の手を握りしめ、そのまま自分の股の間へ導こうとした。教え込まれた唯一の、男への「接し方」をなぞるように。
「……わたし、……これ、……できる……よ?……なか、……だして……い、いよ……?」
その無垢で、あまりにも残酷な提案に、中也は奥歯を噛み締めた。 彼女の頭の中には、愛されることも、語らうことも存在しない。ただ、己の体を提供し、相手を満足させることだけが存在意義だと叩き込まれている。
「……しなくていい」
中也は彼女の手を優しく、だが断固として引き離した。
「……え、……?……どう、して……?……わたし、……だめ、……な、ドール……?」
少女の瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。 役に立てない。道具として機能できない。それは彼女にとって、自身の存在を否定されることと同義なのだろう。
「ふぇ、っ……う、あ……ふぇぇ……」
しゃくり上げるような、独特の泣き声。 中也はたまらず彼女を抱きしめた。太宰治の面影を持つ少女。その温もりは本物よりも微かだが、確かに中也の腕の中にあった。
「ダメじゃねえ。お前はただ、ここにいればいいんだ。飯食って、寝て、……笑ってりゃいい。そういうことは、しなくていいんだよ」
「……わか、らない……。……わからない、よ……」
少女は中也の胸に顔を埋め、幼い子供のように泣きじゃくった。 中也は彼女の髪を何度も撫でた。太宰の代わり。そう、自分は彼女を太宰の身代わりにしている。それは自分勝手で、酷く歪んだ愛情だということは分かっていた。
だが、もしあいつが、もし太宰が女として生まれ、こんな地獄のような場所で生み出されていたとしたら。自分はきっと、世界を滅ぼしてでも彼女を救い出していたはずだ。
「中也……さま……?」
「……中也でいい」
「……ちゅ、や……。……おなか、……すいた……。……ね、ね、……したい……」
「ああ、飯にしよう。そのあと一緒に寝てやる」
休暇中のセーフハウスは、かつてないほど穏やかで、そして狂気に満ちた静寂に包まれていた。 中也は少女のために、最高級の服を買い込み、栄養のある食事を作り、彼女が言葉を覚えるための絵本を読み聞かせた。
ドールとしての機能。 それを使えば、中也はかつての相棒と似た肉体を使って、長年の鬱屈を晴らすこともできるだろう。だが、中也はそれをしなかった。彼女を抱くことは、自分の魂が完全に壊れてしまうような、そんな気がしたからだ。
それよりも、彼女が「おいしい」と言って笑う瞬間や、「ちゅや」とたどたどしく名前を呼ぶ瞬間のほうが、中也の凍りついた心にじわりと熱を灯した。
ある日の午後。 中也はソファに座り、膝の上で眠る少女を眺めていた。 陽光に透ける砂色の髪は、拾った時よりも艶を取り戻している。少しずつ、頬にも肉が付き始めていた。
少女は寝言で、微かに呟いた。 彼女には前世の記憶はない。太宰治としての自意識もない。だが、中也にとっては、彼女の存在そのものが救いだった。
「……なあ、太宰」
届くはずのない名前を、中也は独り言のように零した。
「お前が死んで、俺はせいせいしたと思ってた。……でもよ、こんな偽物でも、そばに居ねえと呼吸の仕方も忘れちまいそうなんだ。笑えるだろ」
眠る少女の睫毛が、微かに震えた。 彼女はゆっくりと目を覚まし、中也の顔をじっと見つめた。そして、小さな、細い指を伸ばし、中也の眉間に刻まれた皺をそっとなぞった。
「……ちゅや……、かな、しい……?」
「……いや。お前が起きたから、今はマシだ」
少女は、ふにゃりと、幼い子供のように笑った。 その笑顔は、かつての太宰が決して見せなかった、光に満ちたものだった。
「……わたし、……ちゅや、……だい、すき……。……えへ、へ……」
中也は彼女の細い体を、壊さないように、だが強く抱きしめた。 これは、ヨコハマの暗がりに咲いた、あまりにも歪で美しい、徒花のような生活。 中也は確信していた。たとえこの休暇が終わっても、たとえ組織に戻っても、自分はこの少女を一生、光の届かない場所で、誰にも見せずに、大切に、大切に飼い殺していくのだと。
太宰治の亡霊を抱きしめながら、中也は閉ざされたカーテンの向こう、明るすぎる外の世界を思い、鼻で笑った。
この場所こそが、自分の選んだ新しい地獄であり、楽園だった。
「……ちゅや、……また、……あのおかし……たべたい……」
「分かったよ。明日、買ってきてやるから」
「……ほんと……?……約束、……だ、よ……?」
「ああ。約束だ。……俺は、お前を置いていったりしねえよ」
少女は満足げに、再び中也の胸で眠りについた。 その寝顔を見つめながら、中也は彼女の髪をいつまでも撫で続けた。
かつての相棒を失った喪失感。 それを埋めるための、代わりとしての少女。 中也の愛は、もはや純粋なものか、それとも狂気による執着なのか、自分でも分からなくなっていた。だが、一つだけ確かなことがあった。
今、この腕の中に、彼女がいる。 それだけで、中也の二十五歳の冬は、あの日以来初めて、少しだけ暖かくなったように感じられた。
外では冷たい雨が降り始めたが、セーフハウスの中には、二人だけの時間が静かに、どこまでも深く積もっていった。
コメント
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この話あの続きですよね!泣き方が「ふぇ、」なのが可愛すぎます!