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ユビスはメルコーの街の外れに聳える古い時代の監視塔の下までやって来る。その苔生した塔もまた今は使われていない数ある廃墟の一つだった。
石を積み上げた塔は古びているが欠けているところはない。欠けるほど複雑な構造でもない。壁が梯子状になっているだけで階段どころか内部というものがない。その頂きは人が四、五人寝転がれるだけの広さがある。他には風除けの低い壁と雨除けの屋根があるばかりだ。
レモニカは緑の草原を見渡し、風を全身に浴びて、想い馳せる。
湿地で鳴いている蛙たちも知らないくらい遠い昔には北に広がる草原の向こうからやってくる脅威に鋭い視線を投げ掛けて、必要な時には太鼓か鐘で危機を知らせていたのだろう。
そのような話をすると「惜しい」とベルニージュに言われた。「この塔が目を光らせていたのはあっち」
そう言って南に聳える西高地に穿たれた大隧道に目を向ける。確かに位置関係的に巨大な門扉さえなければ大隧道の中を覗きとおすことができる。
「ああ、そういえばシグニカは元々四つの王国が覇を競い合っていたのでしたわね」
塔の頂上で生み出したベルニージュの魔法は、ガミルトンの春の美しい草原に点在する遺跡の中から、迷いなく一つを指し示した。その廃墟は街から、そして街から続く道からも遠からず近からずの距離にある。
「あそこにユカリさまがいらっしゃるのですわね」とレモニカは決然と言う。
「まず間違いないね。見知らぬ他人が居ついてて、思い付きで革紐を馬に括り付けて逃がした、なんてことがなければ。でもあの馬が現れなくてもこの街にはやって来たし、廃墟の外に馬がいれば確実だったんだけど」とベルニージュは臆面もなく言う。
「わたくしたちの動向を把握できないのですから仕方ありません。ユカリさまは悪くありません」
「そうは言ってないけど」
ベルニージュの冗談に乗せられたレモニカは心の中でユカリに謝る。
「とにかく作戦を立てなくては。さすがにあの廃墟に堂々と近づくわけにはいきません。助けに行く前にシャリーの出入りを確認できると良いのですが、『至上の魔鏡』を使っているでしょうし」
「まずはこうして遠目に見張って様子を探るしかないね。早めに動きを見せてくれると良いんだけど。ワタシたちだってあんまりこんな所に長居していると街の人たちに気づかれてしまうし」
そうして監視をしていると、レモニカがふと呟く。
「一刻も早くユカリさまに会って慰めて差し上げたいですわ」
ベルニージュは探るように大男の横顔を見て、疑念を吐く。「そこまで堪えてるとも思えないけど。ドボルグに聞いた印象だとシャリーは無駄なことをしない性格だと思うし、下手に脅したり怖がらせたりしてないと思うよ」
レモニカは草原の中の廃墟を見つめたまま話す。「それはそうかもしれません。でも、攫われ、監禁されるというのは何とも惨めな気持ちになるものなのです。無力感とでも申しましょうか。それに助けが来ないという絶望もとても辛いものでしょうが、助けが来ると分かっていると、それはそれで申し訳ない気持ちになってしまって」
レモニカはクオルに連れ去られた時のことを思い出しながら吐露する。クオルによる種々の実験も辛いものだったが、思い出されるのはユカリやベルニージュを想う気持ちばかりだった。ユカリのいるだろうあの廃墟に寂しさを紛らわせてくれる鼠はいるだろうか。
「そういうものなんだね。じゃあユカリが辛そうにしていたら、その時はレモニカに任せるよ」
「ええ、お任せください。きっとわたくしにできることがあるはずですわ」
その夜も更け、メルコーの街の泥濘で蛙たちが騒がしく鳴き始めた頃、廃墟を見張っていたベルニージュにレモニカは揺り起こされた。
「どうかなさいました?」と言いつつ、廃墟の方に目をやると起こされた理由が分かる。「明かりが灯ってますわね。用心して火を使わないようにしている、わけではなかったのですね。これで誰かが潜んでいることは間違いありません」
「うん。というかさっき明かりがつく前に誰かが中から出てきて周囲を徘徊して廃墟に戻ったのを確認した。暗くて誰なのかはっきりとは分からなかったけど。ユカリってことはないだろうし、シャリーかな。今になって明かりがついた理由は分からないけど。どんな理由にせよ、火に意識が向かっているだろうし、好機だと思う」
「でも一番良い好機とも言えませんわね」レモニカは慎重に意見を述べる。「誰かがいるのが分かったならば、明日、シャリーが街に出かけるのを確認してからでも。ずっと籠っているわけではないでしょうし、何か買い物にでも出かける時があるかもしれません」
「ないかもしれない。もう買い物は済ませているかもしれない。何も食べずに過ごし続けるかもしれない。まさに明日、何かが実行されるかもしれない」
ベルニージュの言う通りだと思い、レモニカは意見を翻す。慎重に時を待ち、機を逸しては目も当てられない。
二人は素早く監視塔を降り、気配を隠せそうもないユビスを置いて、メルコーの街の端を回り込むように廃墟へ向かう。
明かりの灯る廃墟から最も近い別の廃墟の背後に一度身を隠す。廃墟からは相変わらず光が漏れている。どうやら火を焚いているようだと分かる。
「焚火、ではありませんわよね。暖炉でしょうか?」
「たぶんね。中の様子は分からないか。あの寂れ具合なら何かの隙間から中を覗き込めそう。近づいてみよう。レモニカは後ろからね。何に変身するか分からないから」
もちろん心得ている。
二人は身を屈めて廃墟から漏れる明かりの方へと忍び寄る。草は生い茂っているが身を隠せるほどではない。
おおよそ半分も距離を詰めた時、扉が開き、何者かが廃墟から姿を現した。他に隠れる場所もない原っぱの真ん中で、暗闇が身を隠してくれていることを神に祈りつつ、レモニカとベルニージュはゆっくりと身を屈め、動きを止める。
そのすぐ後にユカリが追うように現れた。縛られていないどころか、剣を持ってシャリーの背後へ近づく。二言三言言葉を交わすと、シャリーは剣を受け取り、その場から立ち去ろうとするのだった。ユカリもまたついていくらしい。
何が起きているのかレモニカにはまるで想像もつかなかったが、ユカリが自由を手に入れていることは間違いない、と確信する。
二人は意を決して立ち上がり、二人の元へ近づく。暗闇から近づいてくる者たちに先に気づいたのはシャリーだった。確かにドボルグの言っていた通りの見た目だ。
シャリーは歩みを止めて振り返り、目を凝らして目を見開く。そして「殿下?」と信じられないものを見た時のように言った。
レモニカはようやくシャリーの正体に気づく。銀髪に紺碧の瞳。片時も忘れたことはなかったが、彼女はいつも全身鎧に身を包み、兜の奥の素顔を見ることは滅多になかったので、レモニカは容姿を思い浮かべることがなかった。
「シャリューレ! 貴女だったのね!?」
そう言ってレモニカは駆け出し、困惑するシャリューレに飛びついて抱き締める。大男の姿は瞬く間に縮み、その姿は波打つ金の髪の見目麗しい娘になった。そのことにレモニカ自身も気づいた。
レモニカは困惑して、見慣れない己のか細い手指とシャリューレ、そしてユカリへと視線を向け、「これは、わたくしの本当の姿? ユカリさまは、魔法少女は触れていないのに。そこにいらっしゃるのに。いったいどうして?」と呟くレモニカの声は、ユカリとベルニージュの発した警告にかき消される。
「レモニカ! 離れて!」
途端にレモニカの体が優しくも力強い風に包まれ、シャリューレの両足を蛇の如き狡猾な炎が捉える。しかしシャリューレは二つの魔法をものともせずに、レモニカを脇に抱えると闇を振り切るが如く走り去る。
レモニカの目からも二人の友人の姿は闇の奥へ消え、「先に追う! ユビスを連れてきて!」というユカリの鋭い声だけが闇夜に聞こえた。