朝の空気に、箒を持つ手が冷たくなって、葵は自分の両手を口元にかざしてはーっと息を吐きかけた。
昨夜はつい遅くなってしまった。
男は、葵が庭で手裏剣術の鍛錬している間も、終わったあとも、ずっと縁側に座っていた。結局、葵のほうが先に家の中へ戻ったので、彼がいつ自分の家へ入ったのかわからなない。
まさか、一晩中ずっと起きていたのだろうか。
考えただけで眠くなって、葵は一つ、大きなあくびをする。
「眠そうねえ」
声をかけてきたのは、長屋から出てきた三津だった。齢五十近くになる小柄な彼女はいつも穏やかな笑みを浮かべて、この長屋生活をのんびりと満喫している。
「ちょっと寝るの遅くなっちゃって」
「あら、そうなの? それならもう少しゆっくり寝ててもよかったのに」
「いつもこのくらいには起きてるから、目が覚めちゃって」
「だからといって無理に起きてこなくてもよかったのよ? それに、そういうときはね」
三津は葵の手から箒を取ると、男が寝泊まりしている家の戸を開けた。するとそこに、二人の様子をうかがっていた彼が立っていた。
「何もしてない人に任せればいいの」
三津が男に箒を差し出した。
彼は腕を組んだままで受け取ろうとせず、三津を見下ろす。
「なんで気づいた」
「こんなに大きな人が立ってたら誰だって気づくでしょ? じゃあお願いね」
にこにこしながら箒を彼に押しつけると、三津は自分の家へと戻っていく。
その姿を目線だけで追いながら、彼がたずねた。
「何者なんだ、あの人は」
「三津さんだよ。この長屋の主の」
「本当のことを言え」
「ほんとだって。ほんとに今はただの町人だよ」
「今は?」
「あ」
口に手を当てた葵に、彼が呆れた顔をする。
「なんでそう馬鹿正直なんだ」
「つい、ね。ほら私、忍者とかじゃなくて普通の人だし」
「普通とか普通じゃないとかの問題じゃない」
そうかな、と軽く頭をかきながら、葵が言う。
「でもほんとに、今はただの長屋の大家さんだよ」
男は軽く眉をひそめたが、それ以上は聞かずに庭を掃き始めた。
「いいよ、掃除なら私やるから」
「暇だからいい」
葵に箒を返すことなく、男は庭を掃き続ける。
やることがなくなって、葵はしかたなく自分の家の縁側に座った。そして掃除をしている彼を見ながら、また一つあくびをする。
「寝るなら家の中で寝ろ」
「平気平気。そんなに眠いわけじゃないから」
「目の下に隈ができてるぞ」
葵は目を丸くして、それからふふっと笑った。
「何がおかしいんだ」
「ごめんごめん、優しいなって思っただけ」
褒めたはずだったのに、男は心外だとばかりに顔をしかめた。
「暇ならさ。あとで私と一緒に出かけようよ」
相変わらず彼からの返事はなかった。
ざっざっと土の上を掃く音だけが、庭に響いていた。
滅多に人の通らない山道を登った先に、村がある。
武田領との境目にほど近い位置にある、北条領のその村に、葵は男とともにやってきた。
建つ家は十件にも満たないほどの小さな村だ。しかし。
「人はいないのか」
村へたどりついたと同時に、男が言った。
物音一つなく静かなその村に、人の気配はなかった。
「もう十年以上前からね。この辺りで戦が起きて、住んでた人はみんな逃げたんだって。それからずっと、誰も住まないままになったの」
今となっては、山に囲まれたこの村に立ち入る者はいない。
存在すら忘れ去られている。。
「で、ここは今、三津さんと私が管理してる」
廃村となったこの村の家々は、今も住民がいた当時のような状態を保っている。
葵と三津が、たびたびここを訪れては、一軒一軒手入れしているからだ。
「知られたら大変なことになるんじゃないのか」
「大丈夫。無断でやってるわけじゃないし」
「ならどういう経緯だ」
「それは三津さんに聞いて。勝手に話すと怒られちゃいそうだから」
すると男が嫌そうに顔をしかめる。どうやら彼は、あまり三津と関わりたくないらしい。
「……それはいい」
「そう? 聞いてみればいいのに」
「それより、いいのか。隠れ住んでいる場所を、俺のような見ず知らずの人間なんかに教えて」
「いいのいいの。三津さんにも許可取ったから」
「許可するような人には見えなかったが」
「そんなことないよ。もう好きにしていいって言ってたし」
「諦められただけじゃないのか、それ」
実際の三津の表情を見たわけではないのでわからないが、言葉だけを受け取るとずいぶんと投げやりに感じられる。
おそらく葵のしつこさに根負けしたとか、そんなところだろう。
「そうかな。でもいいって言ったんだから、いいんじゃない?」
「俺が他の人間にばらしたりしたら、お前だって困るんじゃないのか」
「そりゃ困るけど、あなたはそんなことしないでしょ?」
「なぜ言い切れる」
「だって言いふらしたって別にいいことなんかないだろうし、そもそもそんなことする人は自分から言わないしね」
そう言って笑いかけた葵に、男は何も言い返さなかった。
まず彼とともに向かったのは、村の奥にある一番大きな家だった。
「この家は、私と三津さんがよく寝泊まりするとこなんだ」
入ると、中は殺風景だった。
壁に立てかけられた農具と、火鉢。そしてかまどの上に鍋が一つ置かれているだけだ。
「ここなら気にせず眠れるでしょ? 火鉢もあるし、ゆっくりしててね」
そう言うと、葵は鋤を持って外へ出た。そして家のそばにある小さな畑に立って、空を見上げる。
遠くの空に、灰色の雲が見える。あれが押し寄せてくる前に、畑の土を起こしてしまいたい。
葵は鋤を振り上げて、土の上へと思いきり振り下ろした。畑仕事は慣れたものだ。しかし何度も作業を繰り返していると、真冬の寒い中なのに汗が滲んでくる。
一度手を止め、袖で額の汗をぬぐっていると、ふと背後に気配を感じた。
振り返ると、いつの間にか外へ出てきていた男が立っていた。
「わっ、ちょ、気配消して忍び寄らないでよ」
思わずのけぞった葵に、彼が手を差し出してくる。
「代わる」
「え、あ、これ?」
葵は持っている鋤を軽く持ち上げた。
「他に何があるんだ」
「やめたほうがいいよ。脇腹の傷、開いちゃうよ?」
「そのくらいで開くか」
「開くでしょ。けっこう重労働だよ? しっかり力入れて振り下ろさないと」
「いいから貸せ」
半ば奪い取るように鋤を受け取ると、彼はそのまま土を起こし始めた。
「……手伝わせるために一緒に来たわけじゃないんだけどな」
畑作業をする彼に、ぽつりとそう言ってみる。忍者の彼の耳にはおそらく届いているはずだが、彼は何も言わない。交代する気はないということなのだろう。
葵は近くにしゃがみ込んで、黙々と作業をする彼を見ていた。
小さな畑の土が全て掘り起こされるまでに、それほど時間はかからなかった。
数回、鋤を振り下ろしただけで汗が滲んだ葵と違い、彼は汗一つかかずに涼しい顔をしている。
「汗かかないってすごいね」
「この程度でかくわけがないだろ」
ずいっと、男が押し付けるように鋤を返してくる。
「ありがと。助かったよ」
受け取って、葵は彼とともに先ほどの家へ戻った。
「いつもこんな風に過ごしているのか」
元のとおり家の壁に鋤を立てかけていると、後ろから彼がたずねてきた。
「大体ね。洗濯は三津さんと交代でやってて、あとは市に行ったり、散歩したりしてるかな」
「そうか」
そう一言、返事をしただけだった。
ずっとここにいてもいいよ、と、そう喉元まで出かかった言葉を、葵は飲み込んだ。
帰る場所はないと、彼は言っていた。
それならあの長屋に住んでくれれば、きっと賑やかになる。きっと、今まで以上に楽しくなるのに。
だけど、大切な人はいつだって、先にいなくなる。
もうそんな思いはしたくないという気持ちが、葵の心に歯止めをかけていた。
☆☆☆
どこまででも逃げられる足は、常に持ち続けなければならない。
軽い身のこなしで屋根の上を飛び回り、近くの林へ入れば縫うように木々の間を駆け抜ける。そして長屋の庭へ戻ってきた忍び装束姿の葵は、覆面の口元をぐいっと下げた。
白い息が、口から漏れる。
厚い雲に覆われた暗い夜だった。今にも雪が落ちてきそうな空だったが、まだ白いものは見当たらない。
裏口から家の中へ戻ろうとしたところで、葵は隣の家の縁側に座っている彼に気づいた。
「わっ、びっくりしたぁ」
つい大声を上げた葵を、男は立てた片膝に頬杖をついてじっと見ていた。
「鍛錬をしろと言ったのは父親だと言っていたな」
「ああ、うん」
「ならその足の速さも、父親に鍛えられたのか?」
「え、もしかしてついてきてた?」
「つけてはない。けどここを出て行ったときと、戻ってきたときの動きを見ればわかる」
どうやら葵が家を出るときから彼は見ていたらしいが、全く気が付かなかった。
「教えてくれたのは父上だよ。体術も刀術も、他も全部」
「その父親、何者だ」
葵がふふっと笑う。
「それは教えられないなあ」
「なんでも話すというわけじゃないんだな」
「そりゃ私にだって、言えないことの一つや二つはあるってこと……っくしゅ!」
立ち話をしていたら、汗が冷えてきた。
「寒くなってきちゃった。ちょっと着替えてくるね」
葵は一度家に入って汗を拭き、小袖に着替えて戻ってきた。
彼は変わらず隣の家の縁側に座っていたので、葵も自分の家の縁側に腰を下ろす。
「お前、よくあの夕飯を食べたな」
「え、なんか失敗だった? 普通においしかったけど」
「そうじゃない。よく俺が作ったものを食べたなと言う意味だ」
「ああ、そういうことね」
今日の夕飯も葵が作るつもりだったが、彼はいらないと断った。実際、彼は葵が作った朝飯を何一つ口にしなかった。
だから彼に言ったのだ。
あなたが作ったら、と。
「毒が入っていたら、とか考えなかったのか」
「全然。だってあなたも同じ鍋からよそって食べてたし」
「目を盗んで、お前の器だけに入れる可能性だってあるだろ」
「そんなめんどくさいことしないでしょ」
まるで疑う様子のない葵に、男が呆れた顔をする。
「お前、もう少し人を疑ったほうがいいんじゃないのか」
「でも大丈夫だったし」
「結果的にそうだっただけだろ」
「私だって疑うときはちゃんと疑うよ。でもあなたは大丈夫だって思ったの。その通りだったでしょ?」
葵の言葉に、男が大きく目を見張った。
そして、ぽつりと呟いた。
「……あの人と同じようなことを」
「え?」
「なんでもない」
男がふいと顔をそらした。
「あの人ってだれ?」
「聞こえているじゃないか」
「うん、聞こえた。で、私が誰と同じだって?」
「さあな」
「えぇ、教えてよ。気になるなぁ」
「お前も教えてくれなかっただろ」
「う、それは、そうだけど……」
むう、と子供っぽく顔をしかめた葵に、男は小さく笑みをこぼした。
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