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何時間経ったかもわからない。教室を出てから、誰とも目を合わせていない。
下校のチャイムの音も、もう思い出せない。
校門をくぐるとき、遥はすでに、歩いているつもりで歩いていなかった。
足の感覚が鈍く、左右がうまく揃わない。
鞄も持っていないことに、家の玄関の前でようやく気づいた。
靴の中が濡れていた。
自分の汗か、血か、わからない。
ドアを開ける音が、異常に大きく響いた気がした。
「……帰りました」
その一言を、誰も聞いていないように。
いや、聞こえないふりをしている。
それがこの家の「いつも通り」だった。
階段を上がるとき、壁に手をついた。
震えが止まらず、つまずきそうになった。
部屋に入る。
鍵はない。施錠は許されていない。
布団の上に身体を投げ出す。
うつ伏せになった瞬間、背中が軋んだ。
「ッ……くそ……」
声が漏れると、すぐに咳き込んだ。
喉の奥がひりついていた。
──やられてる間、「日下部」の名前が出た。
誰かが笑いながら言った。
「こいつ、アイツのペットかよ」
「いいなー、飼われてるって安心じゃん?」
冗談のはずだった。
でも、遥には冗談に聞こえなかった。
“飼われてる”なんて感覚はない。
むしろ、どこまでが敵で、どこまでが知られていて、どこから壊されるのか、境界が崩れていく感覚だけが残っていた。
そして、わかっている。
──ここにも、逃げ場なんてない。
「……遥、いるか?」
重い声がした。
父親の、それだ。
身体が反射的にこわばる。
起き上がれない。足が、動かない。
「返事は」
「……っ、います」
ドアが開く音。
晃司の姿が見えた。
「学校、サボってたんだってな」
晃司の言葉に、遥の心臓が跳ねた。
「……いや、ちが、休んで……ない」
「嘘、つくなよ。昨日の夜、オレが言ったよな?」
“休むな”と。
“逃げるな”と。
晃司はゆっくり部屋に入ってくる。
その手に持っているのは、いつもの金属の棒──学習机の脚だったものを、加工した“道具”。
「罰は、重ねて効かせないと、わかんねぇんだよな」
にやり、と笑う。
「泣くなよ? 泣いたら、父さんにバトンタッチだから」
遥は口を開こうとしたが、言葉にならなかった。
「“どこにも逃げられない”って、ちゃんと刻んどけ。おまえは“ここ”が、最後の場所なんだから」
晃司の言葉に、遥の視界が、暗く揺れた。
自分の部屋。
自分の布団。
ただそこに寝ているだけなのに──どこにも、居場所はなかった。
父の足音が、廊下の奥から聞こえてくる。
遥は、息を殺した。
──地獄が、また始まる。