「美味しかったです。
ごちそうさまでした。
今日の分は、ツケでお願いします」
ファミレスを出てあばら屋まで送ってもらったのどかは貴弘にそう言い、
「夫婦でどっちがおごるとかいうのもおかしいだろ」
と言われてしまった。
……そういえば、離婚届出す話はどうなったんですかね、となんとなく思ったとき、
「成瀬のどかっ」
と声がした。
一瞬、誰のことかと思ったが、よく考えたら、自分のことだった。
近所の木立の陰から綾太が現れる。
「お前、親からもらった名前を簡単に捨てるとかなにごとだっ」
と言う綾太は酔っているようだった。
「ああ……弱いのに呑むから」
とのどかは呟く。
「お前、親からもらった立派な名前があるのに。
……なにが成瀬のどかだっ!」
と今までそう名乗ったこともないのどかの新しい名前を何故か連呼する。
いや、結婚って、そういうものじゃないですかね……、と思うのどかの前で、あばら屋敷を見上げた綾太は、
「なんだ、この今にも倒壊しそうな家はっ。
警察に通報するぞっ」
と言い出した。
なんの罪でだ……。
「困りましたね、この酔っ払い。
中原さんに迎えに来てもらいましょうか」
と言ったとき、綾太が玄関のレトロな牛乳入れの横にある板を見た。
簡易の表札として、薄い板に胡桃沢と書いたものを貼り付けていたのだ。
よく考えたら、成瀬だったのだが……。
「此処がお前に与えられた家かっ。
うちのシンデレラを粗末にするな、成瀬っ」
「えーと、中原さんの番号は……。
あの人、また呪いで運ばれてきてくれないですかね」
と呟きながら、のどかはスマホを見る。
「此処はうちの社員寮兼カフェ兼社食だ」
と貴弘が言うと、綾太は、
「なにっ?
此処がかっ。
社員が逃げてくぞっ、成瀬っ」
と叫ぶ。
……酔っ払いのわりにごもっともですよ、と思いながら、中原にかけてみたのだが。
「成瀬社長っ。
着信拒否されていますっ」
「なにしたんだ、お前……。
っていうか、なんで中原の番号を知ってるんだ」
「そうだ。
なんで中原の番号を知ってるんだっ」
と綾太まで尻馬に乗って言ってくる。
「いや、会社の呑み会のとき、中原さんが遅れてきたことがあって。
二次会に移動してても場所教えられるように、聞いといたんですよ」
「なんだとっ?
お前、自分から男に電話番号訊くとかなにごとだっ」
と言う綾太に、
「中原さんの方から教えてくれたのっ」
と言い返すと、
「中原からか。
今からクビにしよう」
と言って、綾太は本当に中原にかけ始めたが、ちょうどいいので、黙っていた。
「ああ、中原か?
今すぐ変なあばら屋の前まで来い」
「行きません」
と中原は即行、言ったようだった。
……変なあばら屋で、話通じて欲しくなかったな、とのどかは思っていた。
もう少ししたら、此処、素敵な古民家カフェになるはずなんですよ、ええ、と思うのどかの側で、綾太が叫ぶ。
「なんだと?
何故、来ないっ」
「……仕事時間外だからよ」
「今すぐ来ないと、うちの社食も此処にするぞっ」
どんな脅しだ、と思ったが、中原は来ることにしたようだ。
「あいつ、なんで、此処知ってんだ?」
と住所も聞かずに電話を切った中原に、綾太が呟く。
だいぶん正気に返ってきたようだ。
「まさか、中原もお前が好きで、こうして、此処まで後をつけてきたとかっ?」
と叫ぶ綾太に、
いや、まだ酔っていたようだ……とのどかは思った。
あの中原さんが私を好きになるはずもない。
「ところで、今、此処は社員寮だと聞こえた気がするんだが」
と言う綾太に、
「いや、これからなるんだよ、社員寮に」
手入れして……と思いながらのどかが言うと、
「でもお前も此処に住んでるんだろうっ?
男と一緒に住むというのか。
誰と住むんだっ」
と訊いてくる。
「今のとこ、成瀬社長と隣の刑事さんかな」
「……なんで社員寮に社長が住んでいる」
「夫だからですかね……?」
と自分でも状況が把握できておらず、あやふやなせいか、何故か敬語になりながら呟くのどかに、綾太はさらに畳みかけるように言ってくる。
「なんで社員寮に刑事が住んでいる」
「先住の方だからですかね?」
八神さんが住んでるところに我々が間借りする感じだからだ。
「何処が社員寮なんだっ。
社員居ないじゃないかっ」
ええ、それは私も気になっていたところです。
「中原まで住むとか言い出したら、どうするんだっ」
「いや、ああいう美意識の高そうな人は住まないんじゃないですかね?」
とのどかが、おのれの住むあばら屋敷を見上げて言うと、貴弘が後ろから、
「……じゃあ、俺の美意識は高くないと言うのか。
そうだな。
お前を嫁にするくらいだからな」
と後ろからめんどくさいことを言ってくる。
そして、前では、
「中原はまだかっ」
であえいっ、であえいっ、と言い出しそうな感じに、綾太が叫んでいる。
……周りの民家から少し距離があってよかった、とのどかは思っていた。
「なんだっ。
猫が居るじゃないかっ」
そのとき、様子を見に、ミヌエットと化した泰親がとてとて、やってくるのを見て綾太が叫ぶ。
「猫が居るじゃないかっ」
とあまり意味のない言葉を繰り返し、綾太は泰親を抱き上げた。
可愛がり始める。
男に可愛がられて、泰親はちょっと迷惑そうだったが、されるがままになっていた。
「猫好きか」
と貴弘がそれを見て呟く。
「はあ。
旅に出ても、猫を見るたび、シャッター切るような男ですからね」
溝、覗き込んでまで撮ってましたよ、と言うと、
「一緒に旅行したことがあるのか」
と貴弘が無表情に訊いてくる。
何故か、今、また宇宙の深淵に向かい、旅立ったようだ、とその顔を見て思いながら、のどかは言う。
「みんなでですよ。
卒業旅行とか、修学旅行とか。
小学校の修学旅行のときとか、デジカメもスマホも禁止で。
使い捨てカメラ一個しか持ってっちゃいけなかったんですけど。
初日で全部、猫撮って終わりにした男ですよ」
「使い捨てカメラ、今でも売ってんのか……」
と貴弘が言ったとき、ついに、綾太は泰親に逃げられていた。
ぴょん、と綾太の腕から飛び出して、一目散に駆けていく泰親を見ながら、のどかは呟く。
「ちょっと愛情がしつこいんで、猫には嫌われがちですけどね」
泰親は雑草の中に逃げ込んだが、カエルかなにかが居たらしく、ひっ、と驚いて飛び出すと、明かりのついていない八神の家の方に向かい、駆けていった。
その必死な感じが、中身が泰親だとわかっていても愛らしく、笑ってしまう。
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