テラーノベル
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ひまりが「お医者さんになりたい」と宣言した授業参観から数日。
黒龍組の事務所には、どこか柔らかく、浮足立ったような空気が流れていた。
若衆の和幸にいたっては、ひまりに頼まれるがまま「包帯の巻き方の練習台」に成り果て
頭からつま先まで白布でぐるぐる巻きにされたミイラ男のような姿で、デレデレと鼻の下を伸ばしている始末だ。
だが、その平和な空気を切り裂くように、黒電話のベルが鋭く鳴り響いた。
「……ワシや」
受話器を取る。
相手の声を聞いた瞬間、俺の眼光は深淵のような険しさを増した。
電話の主は、近隣を縄張りとする新興組織「蛇頭会」の幹部だった。
『ククク……黒龍の兄貴ィ。近頃えらい骨抜きになっとるらしいやないですか。ガキのママゴトに付き合うて、極道の看板が泣いとりますよ』
粘りつくような不快な声が耳を打つ。
「……用件だけ言え。ゴミの鳴き声を聞き続けるほど、ワシの耳は安うないわ」
『まあええですよ。例の再開発地区の件、大人しく手を引いてもらわんと。……あんたの足元、今えらいガラ空きですよ?』
一方的に切れた電話のツーツーという無機質な音が、嵐の前触れのように響く。
俺は受話器を叩きつけるように置くと、傍らで画用紙に塗り絵をしていたひまりに、努めて穏やかな声をかけた。
「ひまり、今日は和幸と事務所の奥におれ。何があっても、一歩も外に出るなよ」
「え……?でも、おじさん、今日は一緒にスーパーの特売行くって約束したのに……」
「……急ぎの仕事が入った。ええな、約束やぞ。絶対に、ここから動くな」
俺はひまりの柔らかな頭を一度だけ撫で、和幸に鋭い目配せを送った。
和幸は一瞬で腑抜けた表情を引き締め、ひまりを促して奥の部屋へと消えた。
◆◇◆◇
その数時間後
白昼の静寂を切り裂き、事務所の正面入り口に猛スピードのバイクが数台突っ込んできた。
ヘルメットで顔を隠した男たちが、バットや鉄パイプを振り回し、怒号と共に事務所の窓ガラスを粉々に砕いていく。
「おらぁッ!黒龍!今すぐ出てこねぇと中ぶっ壊すぞゴラァ!!」
凄まじい衝撃音とガラスが飛び散る音。
奥の部屋から、ひまりの「……っ!」という短い悲鳴が聞こえた気がして、俺の胸の奥で何かがブチリと切れた。
割れたガラスの破片を、高価な革靴で無造作に踏みつけながら、俺はゆっくりと玄関に姿を現した。
その手には、かつてひまりを恐怖させた、あの冷たく、冴え渡る光を放つ短刀が握られている。
「……ガキが昼寝しとんねん。静かにせぇ言うたのが聞こえんかったか」
#シリアス
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俺の声は、もはや人間のそれではなく、地を這う獣の殺気を孕んでいた。
サングラスの奥の瞳は、ひまりに見せる「優しいおじさん」の残滓すら消え失せ
裏社会を震え上がらせてきた「狂刃」そのものへと回帰していた。
「ひまりには……この音だけは、聞かせたくなかったんやがな」
俺は一歩、踏み出す。
一瞬の交錯だった。
バットを振り下ろす間も与えず、バイクの男たちを次々と地面に沈めていく。
最後の一人、リーダー格の胸ぐらを鷲掴みにし、割れたガラスの壁へと叩きつけた。
「蛇頭会のカスどもに伝えとけ。ワシの敷居を跨ぐんは勝手やが……ワシの『宝もん』に指一本でも触れてみぃ。…組織ごと、この世から一粒の塵も残さず消したるわ」
圧倒的な死の予感に、男たちは失禁せんばかりの顔で這いつくばり、逃げ去っていった。
嵐が去った後の、静まり返った事務所。
俺は短刀を懐にしまい、散乱したガラスを無言で片付け始めた。血の昂ぶりを抑え込むように。
そこへ、震える足取りでひまりがやってくる。
「…おじさん、大丈夫?……」
ひまりは足元に広がる、かつての日常が無残に割れた光景を見て、顔を真っ赤から一転して真っ青にする。
俺は咄嗟に自分の右手を背後に隠した。
素手でガラスを払った際、掌を深く切っていたからだ。
「なんでもあらへん、心配すな。ただの、近所のガキのたちの悪い悪戯や。すぐ片付く」
だが、ひまりは騙されなかった。
彼女は黙って俺の側へ寄り添うと、強引に背後の手を取った。
そこには、俺の罪を象徴するかのような、赤く滲む鮮血。
「……嘘つき」
ひまりは涙をいっぱいに溜めながら、ワンピースのポケットから、予備の絆創膏を震える指で取り出した。
「心配だよ…おじさん」
俺は何も言えず、ひまりが不器用な手つきで、震えながらも懸命に傷口を塞いでくれるのを、じっと見つめていた。
平穏な日常という名の薄氷に、決定的な亀裂が入り始めていた。
敵は、俺の最大の「弱点」が、この小さな少女であることを確信してしまったのだ。
そして俺もまた、ひまりが何よりも大切な存在であるということを、この痛みと共に痛感していた。
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