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「ああ、どれほど今日の日を待ち望んだことか。神よ、あなたの愛する娘が帰ってこられました」
いくつもの皺が刻まれた目元を細め、気味が悪いほど穏やかな笑みを浮かべた中年の男は、私に向かって両手を大きく広げた。
「お待ちしておりました、聖女フレイア様!」
「……あなたは相変わらず声が大きいのね」
腕を組んでその姿を見つめていた私は、呆れ混じりのため息をつきながら告げた。
大司祭オルフェウス。
背後に神父やシスターたちを従える彼は、この神殿で最も高い地位に就く男だった。
「申し訳ありません。ですが、どうかお許しください。フレイア様が神殿にお越しくださる今日という日を、私も、皆も、そして神も、待ち望み続けていたのですから」
「まったく、大袈裟だわ」
「そんなことはありません。なにせ、フレイア様は年に一度しか神殿にお越しになられないではありませんか」
「あら、聖祭にさえ参加すればいいと言ったのは、他の誰でもないあなたじゃなかったかしら?」
「……当然です。神から寵愛を受けた存在である聖女様の願いを叶えることも、私の役目でございますから」
私がどれほど嫌味を言おうと、彼は決して笑みを崩さない。
それほど聖女という存在に忠誠を誓っているのか。それとも、内に秘めた本心を隠すのが上手いだけなのか。おそらく、その両方なのだろう。
「フレイア様」
そのとき、大司祭の低い声とは似ても似つかぬ美声が響いた。
振り返ると、そこには女性用の祭服を身にまとった少女が立っていた。
シスターたちが着ている修道着とは違い、彼女の衣装は特別に仕立てられたもの。この世で彼女と私だけが身にまとうことを許された、聖女の祭服だ。
「お目にかかることができて光栄です」
胸の前で手を合わせ、にこりと爽やかに笑う少女。
聖女レティシア。
後ろに何人ものシスターを従える彼女は、誰も文句のつけようがない完璧な聖女だった。私のような劣化品とは違って。
「レティシア、相変わらず元気そうで何よりだわ」
「フレイア様こそ、お元気そうで安心しました。なにせ、待ちに待った聖祭です。私たち聖女が、神と帝国民に光を授けることができる日。こんなに嬉しいことって、他にありません」
「そう……」
ニコニコと笑顔を向けながら話すレティシアを見つめ、私は先ほどから感じていた違和感を悟られないよう、笑みを保ったまま頷いた。
この子、こんなに私に好意的だったかしら?
レティシアは平民の出身。
ある日、光魔法を発現させたことで実家を離れ、神殿入りを果たした。
誰に対しても笑顔を絶やさず、慈愛に満ちた聖女。そんな評判を、これまで何度も耳にしてきた。
けれど、それは私を除いての話だった。
レティシアはいつも、明確に私を避けていた。皇太子エリックと共にいることの多い彼女は、私と顔を合わせるたびに彼の背に隠れ、肩を丸めて怯えるように震えていたのだ。
これまでの聖祭でも、交わした言葉は社交辞令としての挨拶程度。
てっきり、レティシアは私を嫌っているものだと思っていた。
彼女には、私を嫌悪するだけの理由があるから。
帝国にいる聖女は、私とレティシアの二人だけ。
神殿側も、ロズレイン公爵家の娘であり、現アルスハイン公爵夫人でもある私に、光魔法の使用を強制することはできない。
その点、何の後ろ盾もないレティシアが、神殿でどれほど酷使されているかは容易に想像がついた。
彼女が望むなら、私から神殿に圧力をかけることも考えていた。
けれど、いつ見てもレティシアは苦しそうな素振りひとつ見せず、楽しげに働いていた。
私が異常なだけで、聖女とは本来そういうものなのだろう。そう思っていたのだけれど……。
「フレイア様、どうかされたのですか? もしや、体調が優れないのですか?」
「……いいえ。ごめんなさい、昨晩よく眠れなくて、少しぼうっとしてしまっていたみたい」
「それは大変。宴会が始まるまでの間、控室で休まれた方がいいですよ」
「ありがとう。そうさせてもらうわ」
レティシア、あなたは気づいているのでしょう?
私の右腕に宿った黒魔法に。
私でさえ感じ取れるほどの禍々しさを彼女が感じ取れないはずがない。
それなのに、どうして平然と笑っていられるの?
「聖女フレイア様、どうぞこちらへ。わたくしがご案内いたします」
レティシアの後ろに控えていた一人のシスターが、すかさず私の元へ歩み寄り、深々と頭を下げた。
とにかく、今日のレティシアが普段と違うことは確かだ。
その理由が何であれ、できる限り関わらないのが一番だろう。
「お願い」
短く返事をすると、私はシスターに続いて歩き始めた。
「祭服には控室でお着替えになられますでしょうか? それでしたら、もう何名かのシスターを呼んで参ります」
「私が祭服に着替えるのは明日だけよ。あんなにダサいものを着るのは一日だけで十分でしょう? どうせ夜には宴会に参加するために、また着替えないといけないのだから」
「ダサい、ですか……」
「お優しい神様は、衣服如きで文句をつけたりしないってことよ」
にっこりと笑みを浮かべながら言うと、シスターは困ったように眉を下げた。
「確かに、身支度を整えるだけで数時間とかかるでしょうから、致し方ないでしょう。その点、レティシア様のように平民上がりですと、そのような手間が省けて良いのですが……いえ、お二人を比べるなど、あまりに失礼でしたね」
慈愛に満ちた神の使いとは、本当に笑わせてくれる。
私は彼女の言葉に返事をすることなく、ただ黙って大神殿の廊下を歩いていた。
いくつもの大理石の柱がそびえる、白銀に包まれた空間。
そこに鮮やかな色をまとった女が一人、不意に現れた。
『私のフレイア』
白銀の大神殿では、母の幻想がいつもより鮮明に現れる。
これが神に愛されている証明とでもいうのだろうか? まったく皮肉なことだった。
腰まで伸びた淡いピンク色の髪。熟れた薔薇のように濃いローズピンクの瞳。
母はいつものように恨めしそうな眼差しで私を見つめていた。
私はその視線を、ただ受け止めることしかできない。
昔……本当に昔のこと。
母が死んだばかりの頃、たとえ幻想だとしても目の前に現れてくれたことが嬉しくて、私は何度も母に抱きつこうとした。
けれど、まるで湯気のようにふわりと現れた母は、私が手を伸ばした瞬間には消えてしまった。
抱きとめてもらうことも、昔のように抱きしめ返してもらうことも、頭を撫でてもらうことも、額にキスをしてもらうことも叶わなかった。
ただ、そこに立って私を見つめるだけ。
それでも、母の姿を見られることが嬉しかった頃もあった。今ではもう、そんな気持ちもとっくの間に消え去ってしまったけれど……。
『ダメよ。絶対にダメ……』
『光魔法を……ダメ……』
わかっています、お母様。
「宴会が始まるまでの間、どうぞこちらでお待ちください」
大廊下を進み、扉の前で足を止めたシスターが私に微笑みかける。
胸の前で腕を組んだ私は、返事をすることなく扉を開け、部屋の中へと入った。
・ ୨୧ ┈┈┈ ⋯ ┈┈┈ ୨୧ ・
――カタンッ。
「あっ、起こしてしまいましたか?」
「ん……レティシア……? あなた、どうしてここに……」
小さな物音に、はっと目を開くと、目の前に明るい茶髪が見えた。
腰まで伸びた、ウェーブがかった茶髪。こんな髪を持つ少女を私は一人しか知らない。
控室に通されたあと、なぜか猛烈な眠気に襲われた私は、部屋の隅に置かれたソファに腰かけたまま、らしくもなくすっかり寝入ってしまっていた。
不思議なこともあるものだ。毎晩のように見ていた母の夢が、こんなときに限って現れず、久しぶりに快適なほど深く眠ってしまったのだから。
そして目を覚ましてみれば、少し動いただけでぶつかってしまいそうなほど近くに、レティシアの顔があった。
この状況で驚くなという方が無理な話だろう。
「その、フレイア様があまりに気持ちよさそうに眠られていたものですから……」
そう言って柔らかく微笑むレティシアの手には、群青色のブランケットが握られていた。
こんなところで眠っている私を気遣い、掛けてくれようとしていたのだろう。心優しい彼女らしい振る舞いだった。
「必要ないわ。あなたが来ていたことにも気づかず、情けない姿を見せてしまったわね。ごめんなさい」
慌てて背筋を伸ばし、髪が乱れていないか確かめるように何度も手で撫でる。
「さすがはロズレイン家のご令嬢であり、アルスハイン公爵夫人ですね。それでも、私たちはこの国にただ二人しかいない聖女同士なんですから、そんなに気を遣う必要はありませんよ」
「……だったら、あなたがこれを黙っていてくれるのも、それが理由なのかしら」
「はい?」
「私に気を遣って黙っていてくれたのなら、素直にお礼を言うわ」
そう言って、私は自分の右腕に手を添え、自嘲的な笑みを浮かべてレティシアを見つめた。
彼女は愛らしい目を丸くした後、すぐにふっと笑みをこぼすと、私に向かって一歩近づいてきた。
「貴族には貴族なりの事情があります。ですから、フレイア様にも何かしらの事情があったんですよね」
あの日の出来事は、ルシアンによって何ひとつ公表されていない。
子爵家にも徹底的に口止めをし、内密に済ませた。
彼は、たかが山賊ごときのために聖祭前の大事な時期に妙な噂を立てたくないと言っていたけれど、本当の理由は何なのだろう。
たかが山賊が黒魔法を使えるはずがない。それなら、彼やアルセインが追いかけた先には何があったの?
問いただしたくてたまらないのに、それが叶わないのだから歯がゆい。
「私……本当に羨ましいのです。フレイア様のことが」
どう説明するべきかと視線を逸らした、そのときだった。
唐突にそう告げたレティシアが、私の手を取って柔らかく微笑んだ。
許可もなく誰かに触れられ、思わず肩に力が入る。
それでも相手が相手だったため、私はどうにか笑顔を保った。
「それはまた、突然ね。あなたみたいに誰からも愛される人が、私を羨むところがあるとは到底思えないけれど」
「だってフレイア様は、何でも持っていらっしゃるじゃないですか。私なんて、どれだけ頑張ったところで……」
そう話すレティシアの瞳に、一瞬だけ影が差したように見えた。
「みんなはこの国に聖女は二人だけだと言うけれど、私はそうは思わないわ」
いつも私を避け、怯えた様子で逃げ回っていた彼女が、今は親しげに話しかけてくれる。そのことが嬉しかったのか、気づけば私は素直な気持ちを口にしていた。
「それは、どういう……」
「聖女はこの世に一人で十分だということよ」
そう。レティシア、あなた一人だけ。
私は聖女という存在が憎くてたまらない。だから、あなたを素直に好きになれる日は永遠にこないだろう。
それでも、私は誰よりも分かっている。
あなたこそが真の聖女だということを。
「なんて、変なことを言ってしまったわね、ごめんなさい。そろそろ時間だわ。今日の主役が二人揃って抜けていたら、また大司祭がうるさく吠えてくるでしょうから、早く戻り――」
「待ってください」
部屋を出ようと扉に向かっていた私は、レティシアの声に呼び止められ、振り返った。
彼女は真っ直ぐに私を見つめていた。先ほどまでの柔らかな笑顔は消え、どこか冷ややかな眼差しが向けられている。
「フレイア様に……プレゼントがあるんです」
レティシアはそう言うと、懐から小さな箱を取り出した。
蓋を開け、その中から淡い水色の石でできたブレスレットを取り出す。
「フレイア様にプレゼントを用意しました。光魔法は込めていません。ただ……私の気持ちを宿しました。フレイア様の無事を願って」
そのブレスレットは、爽やかな輝きを放っていた。
聖女が宝石に光魔法を込めて造る魔石は、一部で高額で取引されているという。それでも、目の前のそれには光魔法が込められていない。
私が光魔法を拒んでいることを分かっているから。
「ありがとう、レティシア」
私はブレスレットを受け取ると、素直な感謝とともに左手首へと身につけた。
光魔法も何も込められていない、ただの祈りが何かしらの効果をもたらすとは思えない。それでも、彼女の好意は素直に嬉しかった。
私と顔を合わせるたびに全身を震わせ、怯えていた少女。
そんな彼女が今、柔らかな微笑みを浮かべて私の無事を願ってくれている。
こんな日が来るなんて、思ってもいなかった。
「いえ……それより、話が逸れてしまいましたね。フレイア様にどんなご事情があるのかは分かりません。ですが、私が許可なくフレイア様のことを他言することはありません。神に誓って、お約束します」