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煙突の内部が見える硝子の壁。『浄滅の劫火』そのものは見えないが、煙突基部の炉から差す激しい明かりに照らされた天上。歪な黒檀の机と椅子。他には何もないさっぱりとした部屋。
「ここは変わらないね」と女は呟く。
「貴女が骸積まれた荒野を離れて戻っていらっしゃるとは。予想外でしたよ、臈長ける眼宛てさん。前線は身動き取れないものかと」と言ったのは山羊の鉄仮面、第二局長官にして最年少首席焚書官のサイスだった。
セラセレアと呼ばれた女は炎の角持つ鹿の鉄仮面をかぶっている。その鉄仮面は第五局の首席焚書官に与えられるものだ。かそやかな立ち居振る舞いは僧侶でも戦士のそれでもなく、社交の蝶の如き淑女の姿だ。
「わたくしめの覚え違いでなければですが。山羊頭はチェスタのはずでは?」セラセレアはサイスではなく、犀の仮面の焚書官の方を向いて言った。
鼻先の角燃える犀の鉄仮面をかぶる大男は名をグラタード、第三局の首席だ。
「うむ。チェスタは魔法少女に魔導書を奪われるという大きな失態を犯してしまってな。破門になったのだ。前線には伝達されていなかったのかね? もう半年以上前のことだが」
「へえ、あの現役最年少の首席焚書官の天才君が。なかなか良い男だったのに。魔導書を奪われたくらいでね」
セラセレアはそう言って椅子の一つに座り、背凭れに体を預ける。椅子を引いたサイスに一瞥も向けることなく。
「ですが僕自身は何度か貴女にお会いしたことがあります。首席になる前の話ですが」とサイスはセラセレアの隣に座って言う。
「勘弁してくださいよ、小さな山羊頭君」セラセレアは机の分厚い天板に頬杖をついてため息をつく。「わたくしめの知る限りですが、焚書官ってのはみんな鉄仮面をつけているものです。個人の性質など二の次で、その役職、役割を把握していれば十分なのですよ」
サイスは怯まず言葉を返す。「ですが貴女はチェスタさんのことをよく覚えておいでのようでした。天才で、良い男、でしたか? ちなみに今の現役首席の最年少は僕ですけどね」
セラセレアはあからさまに舌打する。「口の減らないがきですね。わたくしめが覚えるだけの価値が君にないと思ってくれて構いませんよ」
焔を冠する牛の鉄仮面の老人が深くため息をつく。
「相変わらずの子供嫌いか。セラセレア。好きにすればよいが、貴様の言う通り個々人の好悪など脇において、役目に殉じることを努々忘れるな」
空気の漏れるようなしわがれた声で喋るその男は耐え忍ぶ時節だ。
第一局の首席焚書官であり、長官、そして焚書機関の総長を兼ね、聖風防の位にある高僧だ。長い年月を経た青銅像の如く錆びついた声に反して、背も腰もぴんと伸び、些細な所作も繊細で正確で、品がある。
「僕は子供じゃありません」とサイスは長老ケイヴェルノに抗議する。
「子供嫌いなわけじゃありませんよ」セラセレアも牛頭のケイヴェルノに言い返す。「わたくしめが嫌いなのは弱い奴です」
「弱くもありません」とサイスは鹿の鉄仮面の女セラセレアに抗議する。
「というか」セラセレアは何もないのにまごついているアンソルーペに目を向ける。「あんたの自慢の孫娘は鉄仮面をかぶってないように見えますが」
「ご、ごめんなさい。でも、その、あの」
豊かな栗色の髪を両肩に流したアンソルーペはセラセレアから逃れるように目をそらし、ケイヴェルノに引いてもらった椅子に、他者と向かい合うのを避けるように斜めに座る。そして脇に抱えていた燃える巻き角の羊の鉄仮面をそろりと机の上に置いた。
「アンちゃんは別にいいのだ」と言ってケイヴェルノも席に着いた。「ところで先のチェスタの件だが。猊下の下で働いているという情報を得た。いや、噂だな、あれは。何か知る者はいないか?」
サイスが身を乗り出す。「本当ですか!? それはつまり破門が無効になったということですか?」
「それが知りたいって牛頭は言ってるんですよ、少年」とセラセレアにちくりと刺され、サイスは鉄仮面越しに睨み返す。
「元々猊下の覚えめでたき敬虔にして優秀な男だ」と大男グラタードは部屋全体を見回すようにして言った。「以前から密命を預かっているという噂もあったくらいだからな。在家の身として猊下に雇われている形かもしれん。いずれにせよ、天地がひっくり返っても焚書機関に戻ることはなかろうな」
焚書機関の長ケイヴェルノは暫しのあいだ黙考し、他に発言がないのを待って口を開く。「もう一つ。鏡に続いて靴が盗まれた。御心広い猊下はともかく、総督院はあいかわらず責任のなすりつけ合いに終始し、聖議院はここぞとばかりに総督院を糾弾しておる」
牛頭のケイヴェルノを除く全員が呆れた様子で感嘆する。
セラセレアは馬鹿にするように言う。「わたくしめはどちらも初耳ですね。というかチェスタ以上の失態では?」
グラタードが厚い胸板を張って首席焚書官たちを眺め、ケイヴェルノに代わって説明する。「典礼監督室も恩寵審査会も我々の調査を拒んでいるが、賊の目星もついておらんそうだ。どころか、奴ら同士も協力体制を築いておらん。未だに同じ賊の仕業かどうかも分からん始末だ」
「これは旧王国の国宝が狙われていると思った方が良さそうですね」とサイスが推測する。「つまり次は扇か杖」
「杖はともかく、扇が盗まれたら面白いことになりそうですね」とセラセレアは軽口を言う。
「口を慎め。セラセレア」とケイヴェルノが威圧的な響きで言う。「魔導書が奪われることなどあってはならんことだ。あれほど破壊方法を模索せよと忠告してきたにもかかわらず、善用などとぬかし、あげくこの体たらく。度し難し」
「それで我々はどのように動くのですかな?」とグラタード。
「いや、しばらくは静観だ。我々が我々の使命を実行する先にその賊が現れんでもしない限りはな。賊が魔法少女であれば話は別だが」とケイヴェルノが言うと沈黙が降りる。
その帳を破ったのはアンソルーペだ。「それ、それで思い出しました。あの、その――」
「何?」とセラセレア。
「黙って聞け」とケイヴェルノ。
アンソルーペはサイスにちらちらと視線を向ける。「ク、クオルのまじゅ魔術。心臓を射抜くはずの。弓矢の。全然ぜん、力を発揮しませんでしゅた」
ケイヴェルノは慈愛の笑みを孫娘に向け、労わるように言う。「怪我はないかね? アンちゃん」
「怪我だらだらけです」とアンソルーペは縮こまってうつむいて言う。
ケイヴェルノは骨ばった手で机を叩いて怒鳴る。「どういうことだ!? サイス!」
「どういうことも何も」少しも怯まずにサイスは説く。「恩寵審査会に回す前に使ってみようと仰ったのは貴方ですよ、ケイヴェルノさん」
「どうだったかな」ケイヴェルノは目をそらして言う。「魔法少女のことだ。忌々しくも何かの魔導書を使って防いだのだろう。奴が現れて以来、大陸は大混乱だ。つい最近も奴はマシチナで――」
「マシチナ?」とサイスは遮って言う。「前にいたのがサンヴィアで今はここシグニカですよ? いくら何でも早すぎる」
「どちらかは偽物というだけのことだ」とグラタードが断言する。「それだけ奴の名が大きくなったということだな。少なくともはったりに使われる程度には」
「それに、魔法少女に呼応するように、名だたるならず者が各地で活発化している」とケイヴェルノが苛立たし気に言う。「淵仕え騎士団。迷宮派。群れ咲く庭園。ベスメル復興軍。屍使いの生き残り。クヴラフワ遺民。どいつもこいつも魔法少女の魔導書を狙っておるに違いない」
まんまと話をそらしつつ熱の籠っていくケイヴェルノに冷たい視線が注がれる。
「というか早く本題に入ってもらえません?」とセラセレア。
「そうだ。本題に入らねばならん」首席たちの責めるような目を無視してケイヴェルノは続ける。「サイスによるメヴュラツィエ討伐、グラタードによる星の下大焚書、アンちゃんによる征伐派の壊滅及び一〇一白紙文書の発見、セラセレアによる蟹の道島奪還、等の功績に加え、皆の弛まぬ献身によって予算枠と権限の拡大を得た。そして同時に以前より打診していた第六局設立の許可をも得ることと相成った。したがって人員の拡充を行う訳だが、各局からの異動も行っていく」
「第五局は無理ですね」とセラセレアは断じる。「人手不足は以前から伝えてありますよね? というか最も人が減ってるのはどこか分かってます?」
「恥ずかしながら第三局だ」とグラタードは正直に言った。「以前に予想以上の被害を出してしまってな」
セラセレアは食い下がる。「いや、だとしても危険度でいえば――」
突然に大きな音を立てて机の上に両足を投げ出したのはアンソルーペだった。いつの間にか羊の鉄仮面をかぶっている。
「終わったら起こしてくれ」
「行儀が悪いのでやめなさい」と言ってケイヴェルノが羊の鉄仮面を取り上げると、アンソルーペは再びしおらしくなって縮こまった。
そうして焚書機関の長たちによる会議は紛糾し、その間、レモニカとエーミはずっと壁と天井の間に挟まって、見つからないことを祈り続けていた。
ようやく彼らの罵り合いが終わり、彼らが出て行くのを見守って、しばらく時間をあけて二人は部屋から出る。
「まさか首席たちが集まってるなんて知らなかったよ」とエーミがあくびをして言う。「それに第五局の首席焚書官まで総本山に呼び戻すなんてね。それほど重要な会議とは思えなかったけど、第六局を作って何をする気なんだろう?」
「あのセラセレアという女性。どこかで会った気がしますわ」とレモニカは呟く。
「へえ。ケブシュテラはライゼンの出なの?」
レモニカは驚いて頷く。「そうですが、どうしてですか?」
「セラセレア、というか第五局は、ありていに言えばライゼン大王国の魔導書を奪うために工作している部局なんだよ。だからどこかで会ったのだとすればライゼンかライゼンと国境を接する国々のどちらかだね」
そうなのだろうか、とレモニカは疑問に思う。大王国にいた頃の人生のほとんどは城の中だ。ましてや焚書機関との縁などなかった。
二人の侵入者はそれ以後さしたる難所を越えることもなく、聖ラムゼリカ焚書寺院の中心、煙突の塔の最下層にたどりつく。そこは分厚い鋼鉄の扉があり、複雑な機構と幾重もの魔術によって堅く閉ざされている。
「着いたよ。ここが焚書炉」エーミが鋼鉄の扉を見上げて言う。「『深遠の霊杖』が保管されている場所」
「この向こうで『浄滅の劫火』が燃えているということですか?」
「ううん。正確には焚書炉のある部屋だね。結局劫火で破壊できなかった物品は最有力候補の、実質的な魔導書として炉の外で保管されるんだよ。心配しなくても劫火の中に飛びこんだりしないからね」
レモニカは冗談めかしたため息をついて言う。「それは安心しましたが、この扉は開くのですか?」
「任せて。とっても得意だから」そう言ってエーミは鋼鉄の扉を抑えるように、両手で触れる。
辺りを不思議な風が渦巻く。布で触れるような、力強いわけではないのに存在感がある。すぐそばで誰かが身を翻す踊りをおどっているかのようだ。その風が止むと同時に扉の向こうで金属の機構が動く重々しい音が聞こえる。
エーミが扉を押すのをレモニカも手伝う。部屋は焚書炉が空間のほとんどを占めていた。焚書炉を取り囲む空間は通路のような狭さな上に魔導書に溢れている。外の魔導書候補と違ってぞんざいに扱われている訳ではないようだが、大量に並べられていると一つ一つの価値を軽く見積もってしまいかねない。
「魔導書一つで一国を滅ぼすと語られているのに……」と呻くようにレモニカは言う。
「候補だってば。ここにあるのはただ破壊されなかっただけの品々だよ。たいした力のない物がほとんど。だからといって手放すこともできなくて溜まる一方なんだ」エーミの声が楽しそうに跳ねる。「そうそう。昔、ただ破壊されないことに重点を置いた魔法道具擬き、贋作魔導書を大量に作って焚書機関を翻弄した目白って魔法使いがいたんだ。この中にはリドムの作も沢山混じってるだろうね」
「その方はどうなったのですか? きっと焚書機関に追い回されたことでしょう?」
「まだ捕まってないってことしか知らない。たしか最たる教敵には認定されていないはず。管轄は焚書機関だったと思うけど。今もどこかで贋作を作ってるのかもね。こっちだよ」
エーミは焚書炉の周りの通路を進む。目的の品がどこにあるのか分かっているかのように。そして実際にその通りだった。
焚書炉の外周を半周程周ったところに飾られていた真っ黒な杖の前でエーミは立ち止まる。それこそが旧ガミルトン王国は浄火の礼拝堂に所蔵されていてた秘宝、『深遠の霊杖』だ。多くの神秘を宇宙からもたらした隕鉄で作られ、大人の男の背丈と変わらない長さだが、杖として頼むにはあまりにも重い。
「これは、持って行くことはできないでしょうか?」とレモニカは尋ねる。
再びユカリと共にここまで潜るというのも難しいことだ、との懸念からそう言った。
エーミは目を丸くして答える。「色んな意味でお勧めできないよ。重さ。魔術の罠。距離。時間。ここで使うのが一番だよ」
レモニカは諦めて頷く。「分かりました。それでどうやって使うものですの?」
「松明のように火をつけて、ただ握るだけだよ。ちょっと待ってね」
エーミは処刑人が異端者に差し向ける呪文の一端を唱え、杖の先端を指で弾く。すると鮮やかな火花が散り、赤く渦巻く火が灯る。
エーミに促され、レモニカは杖の前に跪いて柄を握った。頭の中にジンテラ市から脱出する方法を思い浮かべながら。
しかし何も誰も応えてはくれない。頭の中に声が聞こえたり、像が思い浮かんだりすることを想像していたが、異変も不思議も何もない。頭の中で乞うように強く想うが、思いはどこにも届かない。
レモニカは助けを求めるようにエーミを見上げるが、エーミもまた首を傾げ、杖の柄につかまる。しかしやはり何も起こらない。
「やはり護女エーミ、貴女でしたか。そしてもう一人は……へえ、これは面白い」
何者かの声に二人は飛び上がる。向こうからやってくるのは山羊の鉄仮面の焚書官サイスだった。