「こう言う時は靴を脱ぐのが、作法だったかな」
かしゃんと、靴を脱いで金網を乗り越え。
降り立った先はビルの屋上のフチ。風が強く、髪をバサバサとはためかせる。
上を向けば快晴。自殺するにはあまりにも不向きな天候だと思っても、自殺に最適な天気なんかないだろう。
あと一歩踏み出せば、私の体は二十階ビルの下に叩きつけられ。吐瀉物みたいに内臓をぶちまけて、確実に死ぬはず。
しかもここは都会の喧騒を離れた田舎の廃ビル。
こうして、女一人昼間に廃ビルに侵入しても誰も何も咎める人は居なかった。
死んだらなおさら、私を見つけるのに更に時間が掛かるだろ。
はるか先の下を見ると、何か分からない廃材の山があり草木が生い茂っている。
「私もゴミの一部になるなんてお似合いすぎる。最後だからって、お気に入りのワンピースなんか着てくるんじゃなかった」
ここまで来るのに廃ビルの中を彷徨って来たので、紺色のワンピースはいつの間にか所々汚れていた。
本当にバカみたい。
ふっと失笑したつもりだったが、その笑いさえも風に流されてしまって。なんだか余計惨めな気分になった。
「まぁ、惨めな私にはお似合いかな……」
青空を見つめると、ここに来た理由が走馬灯のように記憶が駆け巡る。
私の二十三年間の人生の躓きは、単身赴任してきた職場の上司との出会いだった。
その人は凄く要領が良く。中堅広告代理店、勤めの私はそれがとてと羨ましいと思っていた。
この業界はやりがいも大きければ、残業も多く。忙しい日々。
その中で上司と意気投合していき。自然と距離が縮まり。お付き合いが始まり。
半年が過ぎたころ──上司は既婚者と言うことを知った。
私は何も知らなかった。
ある日、突然奥さんが家に来たのだった。
ドアを開けるなり、罵詈雑言を言われ。
慰謝料を請求されたのだった。
上司はまた出張で、全く何も話しが出来ないまま。一刻も早く慰謝料を支払わないと世間にバラすと脅され、パニックになった。
それは困ると思い。不倫してしまった負い目から、奥さんの言う通りにしてしまった。
気がつけば、なけなしの貯金は全て慰謝料に消えた。それでも足りない、職場にバラされたくなければもっと金を寄越せと言われ。
借金までしてお金を渡した。
「……今思えば、すぐに渡す必要なんか……」
もっと冷静になれば良かったと、失笑してしまう。
そんなことを思っても後の祭り。当時はお金で解決出来るなら、それでいいと思った。
でも──精神的に参ってしまい。
仕事を連日休んだ。
その間、自宅に奥さんが詰め寄り。ひたすら責められ、謝罪する日々。
ますます心身共に疲弊した。
挙句。上司に渡していた合鍵を使われてしまい。留守中に飼っていた黒柴の黒助まで『売れる』と言われて取り上げられた。
ポロリと涙が溢れる。
「黒助ごめんね、本当に守れなくてごめんなさい」
ペットの黒助を奪われてしまったのが、何よりも堪えてしまった。
警察に相談して取り戻そうとしても、厄介払いをされた。
弁護士に相談するのにも費用がいる。
そこでようやく、このままじゃダメだと思って。
なんとか黒助の為に、弁護士を立てる為にもお金を稼がなくてはならいと、社会復帰しようと失意のうちに職場に戻ると。
私が休んでいる間に、上司が出張から戻り。
私が上司を誘惑をしたと──上司に噂を流布され。
一方的に関係を断たれ。私の言葉に耳を傾ける人は居なかった。
そうして皆に白い目で見られ。嫌がらせも受けて居場所がなくなり、退職した。
やる事なすこと全て裏目に出ているようで、流石に生きるのに疲れてしまった。
せめて、黒助が売られた先の飼い主に大事にされていて欲しいと願うばかり。
もう明るく希望を持って、生きて行ける自信が何一つなかった。悲しい。苦しい。
上司を憎い気持ちはあるが、疲れてしまった。
もう涙も枯れ果てて泣くに泣けない。
風がまた強く吹き、かしゃんと金網を揺らした。
それはもう『逝け』と、言われているみたいで。分かっている。もう言われなくとも、死ぬから──と、足先に重心を傾けた瞬間。
「あー、こんな所におった。見つけるの苦労したわ」
「えっ」
後ろから突然の気だるい男性の声がした。
しかも流暢な関西弁に気を取られて、足を踏み留めて振り返ってしまった。
後ろを振り向くと、すらっとした黒の着物姿の男性がいた。
年は私と同じぐらい。髪は青く長く、ポニーテールをしていた。耳はピアスだらけ。
存在感抜群の漫画から出て来たかのような男性が、編み上げブーツをカツカツと響かせながら、こちらにやって来た。
近くで見ると、その男性はややキツネ顔の整った顔立ちの切長の瞳で。
鼻筋もよく、唇は薄い。
細面の優男。と言う言葉が、ピッタリだと思った。
その突然の闖入者に、唖然として。動けないでいると、男の人は気怠げに、金網越しに私に喋り掛けてきた。
「ねぇちゃん。死ぬところ邪魔して悪かった。えっーと、すぐに事情を説明する。それを聞いて貰ってから。死にたかったらその後で死んでくれへんかな?」
「えっ、いや」
意味が分からない。
何なんだこの人。よく見たら手首や鎖骨にタトゥーがチラリと顔を覗かせていた。
この辺でたむろしているヤンキーかヤクザと思ったけど、ソッチのヒトだとしても何だか異質過ぎる。
良く分からないまま、青髪の男性は喋り続けようとしたので体の重心を金網に傾けて、一応聞く体制を取ってしまった。
「僕は青蓮寺霞。見ての通り呪術師や。この廃ビル近くで、依頼があった藁人形を木に打ち付けて、仕事をしてたんや」
「……そ、そうなんですね」
見ての通りの呪術師──なんて。
誰が一目みて『この人は呪術師だ!』なんて、看破出来ると言うのだろうか。
そんな派手で、独特なスタイルは職業不明過ぎた。
あまりにも突飛過ぎて言葉が見つからない。
むしろ。この状況が把握出来なくて、なんたが普通に返事してしまった。
「仕事に励んでいたら、黒い犬コロが助けに行けって、キャンキャン喚くから来た」
「黒い、犬?」
「ん。心当たりないんか?」
「く、黒い犬ってまさか、芝犬の」
「あーそうそう。黒い芝犬やった。それがここに来いって、うるさくてな」
待ってと、金網にがしゃんと体を寄せる。
この男。なんで黒助の事を知っているの。
私は目の前の青蓮寺と名乗った人物と始めて出会った。ましてや、こんな派手な知り合いなんかいない。
心臓がバクバクする。気持ちが悪い。
それは自殺しようと思った気持ちより、遥かに強い不快感だった。
「あなた、私の事を知っているの?」
「僕はなんも知らんよ。ただ、死んだ犬コロの霊に呼ばれただけや」
「!」
死んだ犬コロ。
あまりの言葉に何も言えなかった。
混乱する頭で何とか考える。
この男の人の言葉通りなぞると、黒助は死んでしまっていて。私の自殺を止めに、この人をここに連れて来たと言うことになるじゃないかっ!
「嘘よ。そんなの嘘っ! 黒助は売られて幸せに暮らしているの。そうじゃないと、そうじゃないと。あんまりじゃないっ!」
金網にへばりつくように言葉を吐く。
自分で嘘だと言ってみても、全く根拠がなくて悲しくて仕方ない。
しかし。男の人は至って冷静に。冷た過ぎる視線を一瞥くれただけで。
「そんな事情知らん。どうでもいい」
キッパリとそう言った。
「……!」
「犬や動物霊は無下にすると面倒くさいからなぁ。これぐらいでええやろ。ねぇちゃんの自殺に待ったは掛けたからな。さてと、後は死にたかったらお好きにどうぞ。ほな、さいなら」
ひらひらと着物の裾を揺らしながら、もう興味がないと言わんばかりに立ち去ろうとする男を「待って!」と引き留め。掴んだ金網に力を込める。
「あ、あなたはその。幽霊が視えるのね?」
「そやけど」
男の人は面倒臭そうに首だけを振り返り、青い髪を揺らした。
「あなたは呪術師で……私の自殺を止めに来た。それは犬の幽霊によって、呼ばれて。ここに来たから、なのよね……?」
「そう、言うたやん」
二度も言わせるなと、男の人の顔にありありと現れていた。
その表情を見て。わざわざこの人がここに来て、私を引き留める理由が、親切とかではないのは一目瞭然だった。
理屈では説明出来ない何かを感じた。
この人は霊能力と言うものを備えていると、信じざるを得ない。
今言ったことが、全てなんだろうと察した。
──だったら、黒助はあの奥さんの元で。
もしくは売られた先で死んでいる。
そんなの許せない。
私から全てを奪って、黒助まで!
せめて、死ぬ前に黒助の仇を取ってやりたいっ!
ぐわっと怒りと悲しみが湧き起こった。
黒助の命まで奪われているのが、我慢ならなかった。それと同じぐらいに自分の不甲斐なさで心が、押し潰されるような気持ちだった。
わなわなと震えながら男の人、いや。青蓮寺さんを見つめる。
「お願い。私が死ぬ前に呪って欲しい人がいるの」
ぎちりと、強く握った金網が軋んだ。
「へぇ。えぇけど。僕は安くないで。内容にもよるけど、最低でも着手金、十万即金。依頼は最低二十万からニコニコ現金払い必須やけど?」
「さ、三十万……」
そんなお金もうない。
死のうと思って、借金返済の為に家も解約して。家財道具を全て売り払い。ほんの少しばかりあったブランド品や貴金属は全て売って、何とか借金返済に当てた。
だったら──風俗でもなんでもしてお金を稼いだらいい。
三十万なら決して稼げない額じゃない。
元より死のうとしていた体。最後に黒助の為に使うぐらい何でもない。
このまま黙って死んでたまるか。
私のことはもうどうでもいい。しかし、黒助は私が不甲斐ないせいで不幸にしてしまった。いや、死なせてしまったのだろう。
もしかして、と思ったことは何度もある。でも、最悪の結末は考えないようにしていた。
それは私の希望で、現実はいつだって残酷なのに見ぬ振りをしていた。
そう思うと今まで凍りつくように、冷え固まっていた心に熱が生まれた。
それは埋み火の如く。表面では分からなくて、中にジリジリとした熱が、表面に出てきたようだった。
決して熱い生への希望とかでは無く。どす黒く、重く、悲しいもの。上司への憎悪。その奥さんへの恨み。やるせなさ。自分の浅はかさ。
黒助の死を意識したことによって。心の奥底に眠っていた負の感情がやっと、表面に出てきたと思った。
一度生まれたしまった、黒い熱量は私の全身を一気に体を駆け巡り。
その思いのまま、喋る。
「どんな事をしてでも払うから。お願い。黒助を殺した奴を許せない。黒助を殺したやつを呪って欲しい。生きているより、辛い目に合わせて。その為だったら──私どんな事でもするからっ」
がしゃんと金網を揺らすと、青蓮寺さんはやっとこちらに向き直った。
「へぇ、さっきまで死んだ魚の目ぇ、してたのに。今はギラギラやん。そっちの方がええ。分かった。料金払ってくれるならいつでも呪うで。ご利用心よりお待ちしております。あ、名刺置いて行くわ。じゃ、」
青蓮寺さんは懐から名刺を取り出したかと、思うと。
ピタリと止まって。細い顎に手を掛けて何か考え始めた。
「いや、ちょっと待って。ねぇちゃんは、死のうとしてたんやな。だったら、そやな。うん。金は要らんから──死んだらその魂。僕にちょおだい」
「え?」
「どんな事でもするんやろ? そもそも、体なんか要らんと思って、死ぬつもりやったんやろ? だったら魂を僕に寄越せ。魂はいろんな使い方が出来るからな」
一歩、また一歩と青蓮寺さんが近づいて。
金網を掴んでいる私の手に、青蓮寺さんのしなやかな手が重なった。
その爪先も青く彩られ、どこか女性的な優美な指先に見えた。
しかし、着物の袖から見える手首にはタトゥーの模様があり。
男性特有の筋肉質な腕だとわかった。
そして──近くでみる青蓮寺さんの瞳は、黒水晶を思わせるような透明感でドキリとした。
側から見たら、私の自殺を必死に止める光景に見えたかもしれない。もしくは口説いているように見えるかもしれない。
しかし、私は手を握られ。悪魔に捕まったかのような心持ちだった。
悪魔でも悪霊でも何でもいい。
ポロリと、涙を一粒こぼしてから。
「分かった。私を好きにしたらいい。けれども、絶対に相手を呪って」
元より捨てようと思った命。
黒助の為に使い道があるなら、それが良いと思った。
「僕が呪いで失敗するとかあり得んから。交渉成立やな。おねぇちゃん。お名前は?」
「──|安良城《あらき》らら」
「えぇ名前や。ららちゃん。これからよろしゅうに」
青蓮寺さんがニヤリと笑った。
金網越しに私達は見つめ合っていたが、決してロマンチックなものじゃなかった。
それはまるで捕まった犯人と。面会に来た刑事とか。そんなひりついたもので。
どちらが犯人で、刑事かは私には判断が付かないものだった。
それから私はおっかなびっくり。金網をまた超えて、廃ビルの屋上へと帰還した。
私は青蓮寺さんに黒助の仇を取って貰う代わりに、魂を差し出すと言ってしまっている。
これからどうするんだろう。
一体どうやって差し出せば良いのだろうかと、思いながら一先ず靴を履いていると。
青蓮寺さんが喋り掛けてきた。
「さて。ららちゃんは、自殺しようとしていたわけで。女性がこんな山の中に来て自殺って。身辺整理をしている場合が多いんやけども。ららちゃんも家とか、ライフラインとか。その辺は全部片付けて来たクチやろ?」
青蓮寺さんの耳に付いているピアスがしゃらりと、揺れる。
それと同じように私の心も揺れる。
色々と聞きたいことはあるけど。
──ららちゃん。
ちゃん付けで呼ばれるとは意外だった。今更、訂正するのもアレかなと思い。ちゃん付けはそのままにしておこうと思った。
それよりも。
青蓮寺さんが言った『全部片付けて来たクチ』と言うのはその通りだった。
家は解約済みでここに来ていた。
スマホも全部解約した。
ポケットの中にある少々の現金と。運転免許証。電子マネーがチャージされたカードだけが私の全財産。
だから「そうです」と、短く返事をした。
実は家族や友人関係は奥さんによって、不倫を全て暴露されていて、絶縁されていた。
頼る人も居なかった。
「素直でよろしいな。ひとまずこの下に僕の車を停めているから、それに乗って。悪いようにはせぇへんから。今後のことについても道中説明するわ」
「分かりました。よろしくお願いします」
靴をしっかりと履くと。
青蓮寺さんが「じゃ、行くで」と飄々と廃ビルの中へと歩き出し。
その後ろを着いて行くのだった。