薄暗い廃墟の中を歩きながら思う。
さっきまで死のうと思っていたのに、こうやってまだ生きていて。
今は黒助のことで頭がいっぱいで、なんだか情けなくて。泣きそうだった。
黒助は本当に死んでしまったのかと、あのふわふわの柔らかい毛並みを思い出し、鼻の奥がツンと痛くなってどうしようもない。泣きたい。
ても、ここで泣いてもどうしようもない。黒助が自殺を止めに来てくれたと言っていた。ならば私の心の拠り所はそれだけだ。
そう思い、涙をこらえてキッと前を向く。
仄暗い廃ビルの中をスタスタと歩く青蓮寺さんに、置いて行かれないように着いて行く。
廃ビルは女の私でも屋上に上がって来れるほどの具合で、重装備じゃなくてもギリギリ歩けるものだった。
それでも床には色んな物が散乱していて、歩きにくい。
私もここを通って来たけど、その時は死ぬ事で頭がいっぱいで。廃墟の中のことなんか気にも止めなかった。
ただ、闇雲に上を目指していた。
今こうして少し冷静になって、ビルの中を歩くと。
剥き出しのコンクリートにフロアの案内板があって、部屋の番号が廊下に張り出されていたのに気が付いた。
内装はほぼ既に剥がれ落ちていて。長い廊下に壊れたドアが目立ち、代わり映えしない光景。
ここはどうやら、ホテルの営業を進めていたのに。何らかの理由で、工事が中途半端になってしまった建物かと思われた。
薄暗いと言うこともあり、方向感覚が狂いそうなのに。青蓮寺さんは知ってたる我が家のように、こちらを一切振り向きもせず前方を歩き続けた。
何回か階段を下って、空気感が変わったころ。前を歩く青蓮寺さんがふと呟いた。
「そうそう。ららちゃん。さっき、言い忘れていたけど。これからは僕の家に住んで貰うから」
「!」
声を出してびっくりそうになったけど、何とか驚きを飲み込み「はい」と、返事をしたのだった。
一瞬。そんな急にと、思ったけれども。
今の私の状況なら正直、その方が有り難いと判断したからだった。
死のうと思った日にこんな出会いがあるなんて、縁というより。因縁染みてるとか思ってしまった。
「性的な目的はないから安心して。僕の好みはワガママで、面倒臭くて賢い女やから」
中々好みが難しい人だと思った。それには「はぁ」と、生返事をした。
「魂を貰うだけやったら、|呪《しゅ》で絡めるとる。縛る。だけで何とでもなるんやけど。僕が欲しいのは、僕の言うことを聞く魂。まぁ、簡易的な式神みたいな感じに仕立て上げたいんや。ちょっと、実験も兼ねてるんやけど」
言ってることの大半は良く分からなかった。知っても仕方ないと思い。そこはさらりと流して。気になった言葉を繰り返した。
「実験ですか……」
「ほら、流石に魂を好きにしてええよ。なんて言う人はおらんからさ。ちょっと色々と試してみたくなるやん。ららちゃんはそう意味では、有り難い存在やね」
そこで、薄暗い中でくすりと笑う声がして、カツンとブーツの音も大きくこだました。
「だから、生きているうちから僕に魂を馴染ませておきたい。それには一緒に住むのが一番馴染みがええ。そんな訳で勝手に死なんといてな。こっちの準備が終わったら、死んでくれてええから」
本当に私のことに興味がない口振りで、いっそ安心出来ると思った。
「はい……分かりました。でも。黒助の仇をちゃんと取れて、確認してからじゃないと、死ぬつもりはありません」
そこでふと、疑問が湧いた。
「私がもし、生きたいって言ったらどうするんですか?」
あっさりと青蓮寺さんに、呪い殺されてしまう可能性もあるのかもと、思っていると。
「生きたらええやん。生きたいと言う人間を殺すと、魂が僕に反発するに決まっている。僕の代で実験が無理やったら、次に引き継ぐだけ。人間何事も焦ったらアカン。魂なんてデリケートなモンを扱うんやったら尚更やな」
さらっとした返事に、嘘を付いてる様子はなく。
それよりも完璧に私のことを、単なる道具としか見てないのが如実に分かった。
呪術師だからこんな思考なのか。はたまた生来のものかは分からない。
今回の不倫騒ぎで会社の同僚。友人、家族まで『私が悪い』と剥き出しの感情をぶつけてきた。
私自身、知らなかったとは言え不倫行為を働いてしまったのは事実。
それに反論しても仕方ないと思い、皆の言葉や感情を受け止めるのに必死だった。泣きながら謝ったこともある。
それと比べると、私に向けられた青蓮寺さんの何の感情も込められてない。
だから、そこに憐れみも同情も不快さもない。
それがサッパリとしていて、心の負担にならなかった。
それだけでも、ありがたいと思ってしまった。
「そうですか。今は生きたいと言うよりかは……黒助を殺した奴に仕返しがしたいと言う、気持ちでいっぱいです。それが終わったら……死ぬようにします。もう、私には何も残ってませんから。何もしたいことも思い浮かばないし」
なんとも陰気な言葉。
しかし青蓮寺さんは「そうか。生死の選択が残ってるのは贅沢モンだと思うけど、まぁ。人それぞれやしな」と。
足元のガラクタをバキッと踏み越えて、廃ビルの入り口へとズンズンと進むのだった。
それから特に会話する事なく。
陰鬱な廃墟の雰囲気や歩き方にも慣れ。足も少し疲れて来たころ、やっと下に戻ってきた。
埃っぽい廃ビルを抜け出し。
荒れた地上でも、明るくて風通しが良い場所に戻って来れたのはホッとした。
そして、青蓮寺さんはこの裏手に車を停めているから、着いて来いと言うので引続き、後ろを着いて砂利道を少し歩くと。
ビルの元駐車場と思われる場所に着いた。
アスファルトはひび割れ。所々、雑草が芽吹いているが車を停めるには何も問題ない場所だった。
そこに目立ち過ぎる、車体の低い。赤い立派なスポーツカーが停まって居た。
こんな高級車、テレビのCMや雑誌とかでしか見た事がなくて固まっていると。
青蓮寺さんは懐からスマートキーを取り出して、車の運転手側のドアをさっと開いた。
「僕の車、霊柩車とか思った?」
ニヤリと笑う青蓮寺さん。
何と言って良いか分からず、首を横にブンブンと振る。
「それなりの稼ぎはある。僕の家は実はあばら屋でした。とか言うオチはないから、はよ助手席乗って」
どうやら、着いて行く事にまだ躊躇いがあったと勘違いされたようで、まさか高級車にびっくりしていましたとは言い難く。
とにかくさっと車に乗り込んだ。
バタンと扉を閉めて。ワタワタとシートベルトを付けると車は低いエンジンが唸り声をあげて、スルスルと走り出した。
車は荒れた駐車場を後にして、山の中の車線を走り出す。
車中は洗練された内装で、こんな高級車乗ったことがないと。背中を優しく包むシートにみじろぐばかり。
肩に力が入っていたところに、青蓮寺さんに声を掛けられた。
「こっから一時間ぐらいで家に着く。それまでに呪って欲しい人って誰や。どんな呪いが良いか、ってまずは話しを聞かせて貰おうかな」
呪って欲しい相手は黒助を死に追いやった人物。
奥さんや上司が怪しいけれども。
現状、誰だかわからない。
「話すのは構わないんですが、その黒い犬ってもう見えないんですか? それに、青蓮寺さんは犬と喋れるんでしょうか。犬は何か言ってませんか?」
疑問に思っていたことをぶつける。
「もう見えへんな。動物の言葉は何となく読める。雰囲気とか。個体による。あの犬はららちゃんに付いていた思念と言うか、想いというか。残滓。それも、もう消えてしまった。本体も死んでいるからもう僕を呼びに来るようなこととか、人前に現れることは無いと思う」
「黒助の想いが私に……」
また、泣いてしまいそうになるのをグッと拳に力を込めて。今は泣いている場合じゃないと。不倫のことも含めて全て話をした。
その間、青蓮寺さんは山道をドライブしているかのようなハンドル捌きで、私の声をBGM代わりにしているんじゃないかなと、思うほどリラックスした様子だった。
話し終えると、周囲は濃い緑の景色から。鮮やかな木々が目立ち。
ちらほらと山肌に住宅が見え出して、山を降りて街へと戻る道を走っているのが分かった。
高速入り口への看板を見つつ、以上ですと。言うと。
「不倫ねぇ。で、その上司と奥さんの名前は?」
「|犬養《いぬかい》|国司《こうじ》と犬養|粧子《しょうこ》。黒助は奥さんに奪われて。誰に売られたか。それが本当かどうかも、分かりません」
「犬養ね。ふーん。なんか嫌な符牒やな」
「え。それはどう言う……」
「いや。気にせんといて。それより、犬を殺した奴じゃなくて。その二人を呪った方が、ららちゃん的に良くない?」
心の隅で思っていたことを、いきなり暴かれてしまいどきっとした。
二人を呪いたい気持ちもあるけど。
「それは、そうですね……二人には良く無い感情を抱いてます。特に国司さん……いえ。犬養国司には色々と言ってやりたいことが沢山あります。でも、私にも落ち度があったと思うから」
思い返せば、犬養国司は周囲に頑なに交際を内緒にしていたこと。それを私にも強要していた。
会うのは週末の夜だけ。私の家やホテルに行く事が多かった。
スマホは肌身離さず。単身赴任だと言うのに、身の回りがキッチリしていたとこと。
それとなくの予兆はあったのだ。
私はまさかねと、思い。それらに目を瞑ってしまっていた。ふぅっと、深呼吸してから。
「奥さんの……犬養粧子さんには酷く罵られ、お金を請求され、私の生活がめちゃくちゃになりました。でも、私が奥さんの立場だったら。知らなかったって、言われても許せないだろうなって……そう、思ったから」
誹りを受けるしかないかと思った。
けど、大事な犬まで取り上げられたのは許せない。やり過ぎだと思ってしまう。
しかし……不倫をしてしまった私に原因があると言われたら返す言葉がない。
気持ちがまだ上手く、整理が付かない。
ただ悲しい。辛い。苦しい。
二人を呪うよりかは、もう縁を断ち切りたい。
無かったことにしたいと言う気持ちが強い。
だからこそ、黒助の死は別。
私が不倫をしたから、黒助が死んでも良い理由にはならない。
ため息にならないように息を長く吐き切ってから、視線を窓の外に向けると。
緑は少なくなってきて、住宅街が増えてきたところだった。
「律儀な性格やな。靴を揃えて、死のうとしていたぐらいやもんな。僕的には呪いが二つに分かれるより、一点集中の方がやりやすいから助かるけど。でも、今の話しやったら誰が犬を殺したかは分からんな」
「そうですね、すみません」
最悪、環境が変わって黒助が突然死と言うこともある。
「依頼を受けたからには、その辺りの調査もする。誰が犬を殺したか。それが分かってから、呪いにかけると言うことでええか?」
「はい、もちろんです。ありがとうございます。私に出来ることがあれば何でもします」
黒助の仇を取りたい。死の真相を知りたい。
運転する青蓮寺さんをしっかりと見つめると、青蓮寺さんは、ちらっとこちらに視線を寄越した。
「ららちゃん。その言葉ちゃんと覚えておきな。一度言った言葉は戻されへん。だから迷いは禁止。時間が経ってから人を呪うなんて、とか。気弱にも迷ってしまうぐらいなら、最初からやらん方がいい。筋は通しや」
「──はい」
「でもな、呪いはな。信じるか信じないかは人それぞれでええと思ってる。どうしようもない恨み辛みを抱いて泣きながら生きるより、ぱっと恨みがましい気持ちを晴らして、前を向けるならそれで結構やろ。人を憎まず、妬まず生きて行くなんて無理やからな」
「……ありがとうございます」
「なんてな。舌先三寸かも知れんで。もう、騙されんようにしぃや」
クスクスと笑う青蓮寺さんを見て、自然と微かに私の口角が少し上がり。
ふっと唇から笑い声と言うには、ささやか過ぎる声が漏れた。
それでも、久しぶりに私も笑うことが出来たと思ったのだった。
高速を走り、途中休憩を挟み。
私が着の身着のままの状態で何も、私物がない事を知った青蓮寺さんは高速を降りてから。
街中の商業施設に寄り。ポンとクレジットカードを私に渡して買い物をして来いと、身の回りを揃えさせてくれた。
それはこれからのことを思うと、助かる。
少し気は引けたけども、素直に買い物をさせて貰った。
新生活を始めるような感じじゃなくて。
長期間の旅行に行くような感じで、シンプルなものを揃えさせて貰った。
それでも少し大きな荷物になってしまったけれども、ちっとも嫌な顔をしない青蓮寺さんにホッとしつつ。
カードを返して辿り着いた場所は、市内でも目立つ白く高い建物。高級タワーマンションだった。
車から降りて、マンション内へと案内されている間。建物のラグジュアリーさに黙ってしまうぐらい。まるでホテルに迷い込んだ気持ちになった。
呪術師なんて言うから、頭では勝手に家は古い日本家とか思っていたので、余計に面食らった。
「どうぞ、狭いところですが」と、開かれた青蓮寺さんの部屋の扉の向こう側は、黒とグレーで統一され、有名シティホテルかくやという内装だった。
「いや、あの。凄く綺麗な家で驚いてます」
「それはどうも」
おずおずと、広すぎる玄関に入る。
ここから見える玄関とリビングに続くであろう広々とした廊下はかつて、私が住んでいたワンルームマンションぐらいの広さはあるんじゃないかと思った。
青蓮寺さんはブーツの紐を解き、靴を脱ぐと横に備えられたシューズクロークに靴を置く。
ちらりと見えたクローク内にはブーツや革靴、スニーカー、下駄などがずらりと綺麗に並んでおり。どれもこれも高級品に見えた。
「早よ中に入りや。こんなご時世やからね。そこそこ繁盛させて貰ってる。でも、ここは僕のメインの仕事場じゃないから」
スリッパを進められて、お礼を言ってから家にお邪魔する。
「ここ意外にも家が? 凄いですね」
「今はwebでやり取りがほとんどやけども、直接会うクライアントも居る。そんな時はこんなタワマンより。こことは別に、古い日本家屋の方がハクが付くからそこで話しを聞くこともある。それに、呪術師がおいそれと本宅をひけらかすなんて、呪い返しはここにして下さいって、言うてるようなもんやしな」
スリッパに履き替えると、青蓮寺さんが荷物を持って行き。
「こっち」と廊下を歩き出すので、それにまた着いていく。
「確かに、日本家屋の方が雰囲気ありますね」
「そっちの家にヤバめの呪具とか呪物とかゴロゴロしているけど、この家にない訳じゃないから」
「!」
「あと、ここは一家心中があった事故物件。ええ子にしとかんと、何か障りがあるかもしれんから、気ぃつけや」
「は、はいっ」
こくこくと力強く頷く。嘘か本当かは分からないけど下手な真似はしたくないと思った。
それこそ、変な真似をしたら呪われそうだと思ってしまったのだった。
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