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黒星
21
#シリアス
7年前 ────【2019年 5月】
狂気は、夜風に混じる微かな甘い香水の匂いから始まった。
「コウくんは私の希望だったのに、コウくんも私のことが好きなんだって思ってたのにっ!!もう死んでやるから……っ!」
悲鳴のような絶叫が、都会の喧騒にかき消されていく。
ビルの最上階
地上数十メートルに位置するその展望デッキは、遮るもののない冷たい夜風が吹き荒れていた。
コンクリートの縁にローファーの踵をかけ
危ういバランスで立っている彼女の背中を見つめながら、俺の心臓はドラムのように早鐘を打っていた。
彼女の肩は激しく上下し、今にもその小さな体が重力に引かれて夜の闇へ吸い込まれそうだった。
「ま、待てって…ここビルの最上階なんだぞ…っ?そ、そんなとこ立って死んだらどうすんだよ……!」
引き止める俺の声は情けないほどに震えていた。
必死に手を伸ばそうとするが
彼女が少しでも動けばそのまま終わりだという恐怖が、俺の足を地面に縫い付けた。
彼女がゆっくりと首を巡らせる。
街灯の光を反射したその瞳には
涙に濡れた絶望と、それを塗りつぶすほどの昏い執着が宿っていた。
「何、言ってるの? コウくん、ホストやめるって嘘なんだよね。私以外に本営10人も掛けてるんだよね」
「なっ、なんでそれを……」
心臓が跳ね上がった。
なんでバレた?完璧に演じ分けていたはずだったのに…
本気で恋をさせて店に通わせる『本気営業』、通称・本営。
色恋を売り物にするホストにとって最大の武器であり、同時に劇薬。
それを俺は、同時に10人以上の客に仕掛けていた。
「掲示板で本カノだって騒ぐ奴らがうじゃうじゃいて、さすがに嘘でしょって、コウくんのこと信じてたけど…もう限界……っ!!!」
彼女の金切り声が鼓膜を刺す。
ネットの掲示板、愚痴垢、マウントの取り合い。
ホスト狂いたちの情念が渦巻く地獄の底から、俺の嘘は白日の下に晒されていたのだ。
「……ッ」
言葉が詰まる。
夜風が容赦なく肌を叩き、背筋が凍るような感覚が全身を支配する。
言い訳を探そうにも、頭の中は真っ白だった。
「私のこと金としてしか見てないんでしょっ?!! だったら…!私の生きてる意味ないじゃんかよ!!!」
彼女の叫びは、魂を削り取るような痛みに満ちていた。
貢いだ金額の分だけ愛されていると信じ込み、その幻想が崩壊した瞬間の絶望。
「ま、待ってって、考え直して……!死ぬとかだめだって…俺が悪かったから!な?!」
必死に両手を差し出し、宥めるように一歩、足を踏み出す。
俺の、ホストとしての浅薄な謝罪の言葉。
彼女は、そんな俺をじっと見つめ、不気味なほど静かに微笑んだ。
「……もう、いいよ」
その一言とともに、彼女はコンクリートの縁から足を下ろした。
飛び降りるのを辞めたのだ。
俺の方へ、ゆらゆらと、まるで魂の抜けた人形のような足取りで歩いてくる。
極限の緊張から解放され、俺は思わず安堵のため息を漏らした。
「よかった……考え直してく───」
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