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そあふぃー
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「……一体なん」
ぽつりと漏れた呟きは、誰に届くこともなく静かな廊下に消えていった。
借りを作ってしまった後味の悪さと、胃の奥に残るあたたかい満足感。そのふたつの相反する感情が胸の中でぐるぐると渦を巻く。手元に残されたのは、自分のものに戻った二つの空のタッパーと、瑞樹が残していった強烈な存在感だけだった。
「作りすぎた、なんて……絶対に嘘だろ」
一人暮らしの男が、わざわざ手間暇のかかる煮物を大きなタッパー二箱分も作るわけがない。あからさまに自分たち二人分の夕食として計算し尽くされた量だった。
(……なんで、そこまでして僕たちに関わろうとするんだ?)
介護士としての職業病なのか。それとも、単なる親切な隣人を演じているだけなのか。
それとも――あの日、自分がバイブを壁に叩きつけたあの滑稽な姿を面白がって、弄んでいるだけなのか。
(……思い出すな。思い出すな思い出すな思い出すな……!)
頭を激しく振り、脳裏をよぎりかけた最悪のフラッシュバックを無理やり振り払う。
自室に戻ると、居間では母が満腹そうにお腹をさすりながら、テレビの画面をぼんやりと眺めていた。
「ねえ柊吾、劇団のお兄さん、お料理上手ねぇ。また来てくれないかしら」
「……母さん、あの人は劇団の人じゃないって。隣の黒瀬さん」
「あら、そうなの? てっきり男役の人だと思ったわ」
無邪気に笑う母の顔を見て、柊吾は小さく息を吐いた。
最近の真理子は、数分前のことも忘れてしまうようになっていた。いつもどこかうつろな目をしている母の顔に、久しぶりに明るい表情が戻っている。
それもこれも、あの男が持ってきた料理のおかげだろうか。それとも、単純に、見知らぬ人間が来たことで気分が変わっただけなのか。
――少なくとも自分には、ここ最近、母のこんな笑顔を引き出せたことなんてなかった。
必死に介護を続けてきた自分ではなく、急に現れたあの男にあっさりと母の笑顔を奪われたのだと思うと、胸の奥からなんとも言えない敗北感が押し寄せてくる。
「……はぁ。もう寝よう、母さん」
母を布団へ誘導し、電気を消す。
暗闇の中、隣の部屋――303号室とを隔てる薄い壁を見つめながら、柊吾は布団に潜り込んだ。
壁の向こうからは、何の音も聞こえてこない。
けれど、すぐ隣に「黒瀬瑞樹」という得体の知れない男が潜んでいるのだと思うと、肌が粟立つような緊張感が消えなかった。
『また作りすぎたら、持ってきますね』
耳奥でリフレインする瑞樹の柔らかい声。
逃げることも拒むことも許さないような、あの眼鏡の奥の眼差し。
(……勘弁してくれよ……)
柊吾は枕に顔をうずめ、深く、深くため息をついた。
警戒心をどれだけ張り巡らせても、瑞樹はそれをするりと交わして懐に入り込んでくる。まるで、最初から柊吾の逃げ道をすべて知っているかのように。
自分がじわじわと、あの男のペースに飲み込まれていく予感に身震いしながら、柊吾は長くて居心地の悪い夜を明かすことしかできなかった。
コメント
1件
柊吾の心境がすごく丁寧に描かれていて、切なくなりました。母が笑顔になるのは嬉しいのに、自分にはできなかったことを隣人にあっさりやられてしまう敗北感。タッパーの料理に込められた「気遣い」と「得体の知れなさ」の両方を感じて、勘弁してくれよ……と呟く柊吾に思わず感情移入してしまいました。次回、2人の距離がどう変わるのか気になります。