テラーノベル
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「……癒やしてあげようか?」
耳元で囁かれたその声は、
どんな歌声よりも若井の鼓動を狂わせた。
肩に預けられた元貴さんの頭。
微かに香るシダーウッド。
そして、ビールで少し火照った体温が、
シャツ越しに伝わってくる。
「……元貴、さん……」
若井は、膝の上で拳を強く握りしめた。
相手は年上の、綺麗で、ミステリアスな隣人。
自分はただの、仕事に追われるしがない
サラリーマン。
(ダメだ、ここで踏み越えたら、
明日からどんな顔して隣に住めばいいんだ……)
頭ではそう分かっているのに、
吸い寄せられるように元貴さんの方へ体が傾く。
「……若井くん、耳まで赤いよ? ……可愛いね」
元貴さんが顔を上げ、悪戯っぽく、けれど慈しむような瞳で若井を見つめた。
その指先が、若井の熱くなった耳たぶにそっと触れる。
「っ……!」
その瞬間、若井の中で何かが弾けた。
気づいた時には、若井は元貴さんの細い肩を掴み、そのままソファに押し倒すような形で抱きしめていた。
「……っ、若井、くん……?」
「……うるさい、です。
……そんなこと、誰にでも言ってるんですか」
若井の声は、自分でも驚くほど低く、震えていた。
腕の中に収まった元貴さんは、一瞬驚いたように目を見開いたけれど、すぐにふっと力を抜いて、若井の背中に腕を回した。
「……バカだなぁ。
……誰にでも言うわけ、ないでしょ」
元貴さんの手が、若井の後頭部を優しく撫でる。
その温もりに触れた瞬間、若井の目から、溜め込んでいた涙が一粒だけ溢れた。
仕事の辛さも、孤独も、全部この人の腕の中で溶けていくような気がした。
「……今日は、もう帰さないよ?
……お隣さんなんだから、いいでしょ」
夜が深まるにつれ、雨音が強くなる。
二人はそれ以上、言葉を交わさなかった。
ただ、重なり合う鼓動と、時折漏れる吐息だけが、301号室の静寂を塗りつぶしていった。
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む光で、
若井は目を覚ました。
腕の中には、まだ心地よさそうに眠る元貴さんの姿。
(……やらかした。
……いや、やらかしてないけど、やらかした……!)
若井は心臓をバクバクさせながら、元貴さんを起こさないように、抜き足差し足で自分の部屋(302号室)へと「朝帰り」した。
ドアを閉めた瞬間、自分の部屋の「冷たさ」と、さっきまでの「熱」の差に、若井は顔を覆ってしゃがみ込んだ。
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