テラーノベル
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送迎車がアパートの前へ滑り込んできたのは、十六時を少し過ぎた頃だった。
「おかえりなさい、母さん」
柊吾が手を差し出すと、真理子はにこりと笑って、その腕へ自分の手を重ねた。いつものように、今日あったことを聞きながら、二人でゆっくり外階段へ向かう。
真理子は、まだ六十歳になったばかりだ。今は階段の途中でふらつくこともなく、柊吾の腕を借りるのも、足元を確かめるためというより、ただ並んで歩きたいからに見える。
それでも、錆の浮いた手すりを伝いながら一段ずつ上る背中を見ていると、ふいに胸の奥がざわついた。
もしも、階段を上れなくなったら。
これから症状が進んで、歩くことさえできなくなったら。
そんな考えが頭をよぎり、柊吾は慌てて打ち消した。まだ大丈夫だ。母はまだ六十歳になったばかりで、今だって自分の足で歩いている。
けれど、この建物にエレベーターはない。オートロックのある立派なエントランスもなく、外から直接上がる階段と、雨風にさらされた共用廊下があるだけだ。
本当は、バリアフリーの部屋を選んだ方がよかったのかもしれない。先のことを考えるなら、エレベーターのある建物を探すべきだった。
それでも、あの頃の柊吾は人の目から逃げたかった。朝倉奏だった頃の自分を知る人間に会いたくなくて、古くて、少し不便で、その分ひっそりとしたこのアパートを選んだ。
でも今は……、今の生活パターンを変えたくないし、何より瑞樹の隣人でいたい。
この部屋を離れれば、瑞樹の隣にいられなくなる。そう思うだけで、胸の奥に浮かんだ不安へ、見ないふりをしたくなった。
柊吾は考えを振り切るように視線を上げ、一階の集合ポストへ目を向けた。
自分の部屋番号の投入口から、白いものが覗いている。
「……あれ?」
真理子の手をいったん離し、柊吾はポストの蓋を開けた。中から取り出したのは、宛名も差出人も書かれていない、簡素な角封筒だった。
広告の類かと思ったものの、妙に厚みがある。しかも、表面には何も記されていないのに、指先へまとわりつくような嫌な気配があった。
「どうしたの?」
「ううん、何でもない。行こう、母さん」
真理子を促して部屋へ戻り、封筒はテーブルの端へ置いた。
キッチンであわただしく準備していると、近くに置いてあったスマートフォンが震えた。
表示された名前を見ただけで、柊吾の口元が自然に緩む。
休憩に入った瑞樹からの、短いメッセージだった。
『今、休憩です』
たったそれだけの報告なのに、胸の奥がくすぐったくなる。柊吾が「お疲れさまです」と返すと、ほどなくして既読がついた。
続けて届いたのは、仕事の忙しさなどよりも、ずっと瑞樹らしい言葉だった。
『柊吾さんから連絡が来たので、もう少し頑張れそうです』
「……仕事中なのに」
呆れたように呟きながらも、頬はつい緩んでしまう。昨夜の腕の熱や、出勤前に交わした口づけの感触まで蘇り、柊吾は誰もいない周囲を慌てて見回した。
#婚約破棄
霞花怜
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コメント
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かんなさん、第79話拝読しました。 真理子さんと階段を上がるシーン、すごく胸にきました。「まだ六十歳になったばかり」と繰り返す柊吾さんの、現実を見たくない気持ちと母への愛情がひしひしと伝わってきて…。それでいて瑞樹さんからのメッセージでほっと緩む感じ、もう、こっちまで頬が緩みました。 そしてあの無記名の封筒。嫌な予感がするのに、日常の温かさが続くから余計に不安が募ります。このバランスが絶妙で、次が気になって仕方ないです。