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210
撮影の休憩時間だった。紫陽花は一人、ファッションビルの中を歩いていた。
モデルになった以上、服の知識も必要だ。
そう思って雑誌を読み漁り、流行も調べた。
けれど実際に店へ来ると何を選べばいいのか分からない。
ラックに並ぶ服を見つめる。
可愛いと思う。
けれど。
何かが違う。
試着室の鏡の前で首を傾げた。
「うーん……」
その時だった。
「あーっ!」
突然、大きな声が響いた。
紫陽花が驚いて振り返る。
そこに立っていたのは玲奈だった。
玲奈も固まっていた。
数秒の沈黙。
そして玲奈は慌てて口元を押さえる。
「あ……」
しまった。
完全に反射だった。
紫陽花の姿を見た瞬間、思わず声が出てしまったのだ。
「ご、ごめんなさい!」
玲奈は慌てて頭を下げた。
「その服も可愛いんだけど!」
「はい?」
「違う、そうじゃなくて……」
玲奈は頭を抱えた。
周囲の客がちらちらとこちらを見ている。
恥ずかしい。
非常に恥ずかしい。
「微妙に方向性が違うというか……」
紫陽花はきょとんとした顔で聞いている。
玲奈は観念した。
「紫陽花ならもっと首元を見せる服の方が似合う」
「首元?」
「うん」
玲奈は真剣な顔になった。
「目だけじゃないんだよ」
そう言いながら紫陽花を見る。
首元の黒いチョーカー。
白い肌。
細い首筋。
自然と視線を集める魅力がある。
「紫陽花の良さはそこにもあるから」
紫陽花は少し照れたように目を逸らした。
そんなふうに言われたことはなかった。
玲奈ははっと我に返る。
――私は何を熱弁しているんだ。
「ごめんなさい!」
再び頭を下げる。
「休日なのに!」
「プライベートの時間だったのに!」
紫陽花は思わず笑ってしまった。
「いいえ」
玲奈が顔を上げる。
「私も何か違うと思ってたんです」
「え?」
「頑張って選んでるのにしっくり来なくて」
少し困ったように笑う。
その顔を見て玲奈の肩から力が抜けた。
気づけば二人は近くのカフェに入っていた。
窓際の席。
運ばれてきた紅茶から湯気が立ち上る。
しばらく他愛ない話をしていたが、不意に沈黙が訪れる。
紫陽花はカップを置いた。
そして無意識に首元へ手を伸ばす。
黒いチョーカー。
玲奈はその仕草を見ていた。
緊張した時。
考え事をしている時。
紫陽花は必ずそこに触れる。
まるで本当のお守りみたいに。
「玲奈さん」
「ん?」
紫陽花はチョーカーを指先でなぞりながら言った。
「私、もっと上手く撮れるようになりますか?」
玲奈はすぐに答えられなかった。
なる。
そんなことは分かっている。
けれどその前に聞きたいことがあった。
「紫陽花は」
玲奈は静かに尋ねる。
「どうしてモデルになったの?」
紫陽花は窓の外を見た。
少し考える。
そして小さく笑った。
「どうだろう」
遠くを見るような声だった。
「最初はスカウトされたからっていうのもあります」
玲奈は黙って聞く。
「でも私、昔から表情がないって言われてたんです」
苦笑する。
「何を考えてるか分からないって」
「……」
「だから何か夢中になれるものができたら変われるかなって」
玲奈は何も言わない。
紫陽花は続けた。
「軽い気持ちだったんです」
そう言ってから首元に触れる。
「でも」
表情が柔らかくなる。
「あの日」
玲奈を見る。
「初めて撮ってもらった写真を見た時」
その瞳が少し揺れた。
「私ってこんな顔してたんだって思ったんです」
玲奈の胸が熱くなる。
紫陽花は静かに笑った。
「鏡で見る私と違ったんです」
「……」
「知らない私がそこにいて」
少し照れながら言う。
「嬉しかった」
玲奈は息を飲んだ。
「だからかな」
紫陽花は続ける。
「もっと頑張りたいって思ったんです」
「もっと綺麗に」
「もっと上手く」
「もっと——」
その言葉を聞いた瞬間。
玲奈の中で何かが弾けた。
「じゃあ!」
思わず立ち上がる。
紫陽花が目を丸くする。
玲奈は勢いのまま言った。
「今度から私に指名させて!」
店内が静まり返る。
玲奈は途中で我に返った。
遅かった。
完全に遅かった。
「そ、その……」
顔が熱い。
「私なら」
声が少し震える。
「もっと輝かせてあげられるから」
言ってしまった。
完全に勢いだった。
一カメラマンが言う言葉じゃない。
沈黙。
紫陽花が驚いた顔でこちらを見ている。
長い沈黙。
玲奈の背中に嫌な汗が流れる。
――やばい。
――距離感を間違えた。
――事務所に怒られるかもしれない。
――嫌われたかもしれない。
頭の中を最悪の想像が駆け巡る。
すると紫陽花がゆっくり口を開いた。
「それなら」
玲奈は固まった。
「仕事以外で」
紫陽花は少しだけ微笑む。
「私を撮ってくれませんか?」
玲奈の思考が停止した。
「え?」
「もっと色んな私を知りたいんです」
紫陽花は真っ直ぐに玲奈を見る。
「玲奈さんの写真で」
玲奈は数秒固まったまま動かなかった。
そして。
「はい」
と答える。
一拍置いて。
「はい!?」
自分で言ったくせに声が裏返った。
紫陽花は思わず吹き出す。
その笑顔を見て。
玲奈は思った。
ああ。
今の顔も撮りたい。
誰よりも先に。
そう思ってしまった。
コメント
1件
えもう第4話でこのエモさ!!!😭💕 紫陽花が「知らない私」を写真で見つけたって言葉、すごく響いたよ。自分を変えたくて始めたモデルなのに、カメラ越しの玲奈に見せてもらってるんだね…。最後の「私を撮ってくれませんか?」で完全に持ってかれた~~〜!玲奈の慌てぶりも可愛すぎてニヤニヤ止まらん🥺✨ 2人の距離がまた一歩縮まった感じ、最高です!続き待ってます🌸