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【現実世界・警視庁協力病院/特別病棟】
消毒液の匂いが、鼻の奥に刺さる。
白い壁。白い天井。白いシーツ。
――白が多すぎて、逆に落ち着かない。
ハレルは、病室の外の椅子に座っていた。
背中が痛い。まぶたも重い。
それでも目を閉じたら、
あの“白い廊下”がすぐに来る気がして、閉じられなかった。
隣にいる木崎が、缶コーヒーを指で転がす。
「……聖環はダメだ」
低い声。いつもより、さらに短い。
「分かってる」
ハレルも短く返す。
聖環医療研究センター。
一見、立派で、最新で、安心できそうな“顔”をしている。
でも中身は違う。クロスゲート社の息がかかっている。
“守る場所”に見えて、“見張る場所”でもある。
だから木崎は、城ヶ峰に頭を下げて、ここを押さえた。
警察関係者が使う協力病院。
外からは見えない場所。
入口は二重の扉。廊下には私服の警備が立ち、カメラも増設されている。
「……起きると思う?」
ハレルが言うと、木崎は肩をすくめた。
「起きなきゃ困る」
それだけ言って、木崎は病室の扉を見た。
扉の向こう。
日下部奏一――“器”に戻った男が眠っている。
器。
言い方は冷たい。けど、今はそれが一番、正確だった。
あの身体は、いったん“別の何か”に使われかけた。
取り返したのは、時間との競走だった。
ハレルの胸元で、主観測鍵が熱い。
ずっと熱い。
まるで「まだ終わっていない」と言っているみたいに。
木崎が立ち上がった。
「……行くぞ」
看護師が合図して、扉が開く。
◆ ◆ ◆
【現実世界・同/特別病室】
心電図の電子音が、一定のリズムで鳴っている。
薄暗い部屋。
カーテンは閉められ、窓の外の街明かりだけが、細く漏れていた。
ベッドの上に、日下部がいる。
顔色はまだ悪い。頬はこけている。
それでも――胸が動いている。呼吸している。
“生きてる”という当たり前が、今は奇跡に見えた。
ハレルは、息を止めたままベッドに近づいた。
近づきすぎるな。
触れたら“確定”する。
頭のどこかが、まだそう言っている。
日下部の左腕には点滴。右手の指には酸素のセンサー。
そして、鎖骨の下に小さな痣。
そこに“何か”をはめ込まれた痕みたいな、不自然な色。
(……戻ったんだよな)
(コアは、ちゃんと――)
ハレルのバッグの中には、空になったコアカプセルが入っている。
従来どおり薄緑だったはずの光は、今はほとんどない。
ただ、底のほうに黒い粒が少し混ざって、
脈の残り火みたいに、途切れ途切れで揺れている。
「……まだ、残ってる」
ハレルが呟くと、木崎が眉をしかめた。
「残ってるっていうか、汚れてるっていうか……気分悪いな、それ」
その瞬間だった。
日下部のまぶたが、ぴくりと動いた。
ハレルの心臓が、跳ねる。
息が喉に引っかかって、うまく吸えない。
もう一度、まぶたが動く。
ゆっくり。重そうに。
そして――目が開いた。
焦点が合わない。
天井を見て、次に壁を見て、最後にハレルの顔へ。
そこで、止まった。
日下部の唇が、かすかに動く。
「……しろ……」
声になりきらない音。
「日下部さん」
ハレルは、自分の声が震えているのが分かった。
「聞こえる? 分かる?」
日下部は、喉を鳴らす。痛そうに。
「……白い……廊下……」
目が揺れる。
まるで、まだそこにいるみたいに。
ハレルの背筋が冷えた。
(戻ってきたのに、まだ……)
日下部が、ゆっくり首を動かす。
木崎のほうを見る。
次に、ハレルの胸元の鍵を見る。
「……雲賀……?」
その一言で、ハレルは固まった。
「……雲賀……」
目が揺れて、焦点が合い直す。
「……雲賀……記者の……息子、か……」
ハレルの喉が詰まった。
「……会社に……取材で……来てた……」
「……親しくは……ない……でも……見た……背中……」
木崎が、小さく舌打ちした。
「雑談はあとだ。今は、体のほう。おい、無理すんな」
日下部は、ベッドの柵を握ろうとして、指が震えて止まる。
自分の手なのに、自分の手じゃないみたいに。
「……俺……」
日下部の眉が寄る。
「……中……に……誰か……いた……」
ハレルの胃が、ぎゅっと縮む。
“別のコアを入れる”。カシウスの実験。
その途中まで、行っていた。
「でも、今は違う」
ハレルは言った。できるだけ、分かりやすく。
「日下部さんは日下部さんだ。……戻した」
日下部は、目を閉じて、長く息を吐いた。
泣いてはいない。
でも、泣くより重い表情だった。
「……ありがとう……」
かすれた声。
「……まだ……黒い……粒……が……」
ハレルは、バッグから空のカプセルを少しだけ見せた。
「残りかすみたいなのが……ここに」
日下部の目がそれを見て、ほんの少しだけ恐怖に揺れる。
そのとき、病室の扉がノックされた。
◆ ◆ ◆
【現実世界・同/特別病室】
入ってきたのは城ヶ峰だった。
スーツに、疲れた目。けど姿勢は崩れていない。仕事の人間の立ち方。
「起きたか」
短い言葉。感情を押し込めた声。
木崎が頷く。
「協力、助かった」
木崎が言うと、城ヶ峰は「礼はいらない」と首を振った。
「……この件、もう警察だけじゃ抱えられない。そう判断しただけだ」
城ヶ峰は日下部を見て、次にハレルを見る。
「雲賀……だな」
ハレルが頷くと、城ヶ峰はそれ以上深追いしなかった。
代わりに、メモを開く。
「佐伯蓮と村瀬七海。二人の今の状態を伝える」
名前が出て、ハレルの肩が少しだけ軽くなる。
生きている。助かっている。
――その確認は、何度でも必要だった。
「佐伯は、落ち着いてる。元が冷静なタイプだ。会話もできる」
城ヶ峰は淡々と言う。
「ただ、時々“白い廊下”の話を挟む。夢じゃない、と言い張る」
「村瀬は?」
ハレルが聞くと、城ヶ峰は少しだけ言葉を選んだ。
「村瀬は……明るく振る舞おうとしてる。けど、体は正直だ」
「寝る直前、手が震えることがある。目が覚めたとき、呼吸が乱れる」
「――それでも、二人とも生きてる。戻ってきてる」
木崎が、息を吐いた。
「……よかったな」
その声は、いつもより少しだけ柔らかい。
城ヶ峰はスマホを取り出し、ニュース映像を無音で再生した。
画面には、海外の街。人混み。
そして、道路の上に一瞬だけ映る“石畳みたいな影”。
次の映像では、空に細い光の粒が降っている。雨じゃない。雪でもない。
城ヶ峰が言う。
「異世界の兆候が、世界中で増えてる。隠せないレベルになり始めた」
「各国が“原因不明の空間異常”として発表してる。……が、現場は混乱してる」
ハレルは、画面から目が離せなかった。
自分たちだけの話じゃない。
世界が、同じ“ズレ”に触れ始めている。
城ヶ峰は、最後に別の映像を見せた。
防犯カメラの白黒。
人の流れの端に、黒い影が映っている。
フード。ローブ。顔が見えない。
でも――立ち方が、普通じゃない。空間に馴染んでいない。
「……不審者が、同じ夜に複数地点で映った」
城ヶ峰の指が止まる。
「移動の仕方が妙だ。車でも徒歩でも説明がつかない。
……映る場所が“つながってる”みたいに見える」
木崎が、笑ってない笑いを漏らす。
「つまり、また始まるってことだな」
城ヶ峰は答えない。
代わりに、日下部を見る。
「日下部奏一。……守る。だが、完全に安全だとは言えない」
「しばらくはここで匿う。外に出すのは危険だ」
日下部は、ゆっくり頷いた。
その目はまだ弱い。けど、“理解”だけは逃げていなかった。
ハレルは、胸元の鍵を握る。
熱が、少しだけ落ち着いた気がした。
――終わったわけじゃない。
でも、ひとつは取り戻した。確かに。
◆ ◆ ◆
【現実世界・郊外/夜明け前】
街灯の届かない道。
冷たい空気。地面の霜。遠くで犬が吠える。
黒いローブの影が、フェンスのそばに立っていた。
向こう側には、広い敷地。
低い建物の影と、揺れない木々。
まだ眠っている“日常”の匂い。
影は、手の中の小さな杭を落とす。
金属でも石でもない、黒い“何か”。
それが地面に触れた瞬間、赤黒い線が一瞬だけ走った。
まるで、地面の下の地図に、印を付けるみたいに。
ローブの奥で、口元だけが動く。
声は出ない。
けれど空気が、薄く笑ったように揺れた。
次の瞬間、線は消える。
何事もなかったように、世界は静かになる。
――ただ一度だけ。
遠くの空が、白く瞬いた。
雷じゃない。
“境界”が、まばたきした光。
◆ ◆ ◆
ハレルは知らない。
木崎も、城ヶ峰も、日下部も知らない。
けれど世界は、もう動き始めている。
日常のほうが、戦場へ寄ってくる。
朝が来る。
その前に――座標が、もう一度ずれる。
第六章 奪われた座標――了