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唐突に火が入った鎖鋸が、甲高い声で鳴きながら、忙(せわ)しく稼働を開始した。
これに巻き落とされた小烏丸が、地面を激しく打つ間際、刀身に手のひらを当てた女性は、そこを支点に身を浮かせ、靭(しな)やかな脚部を目一杯に伸長させて、葛葉の顔面を蹴りつけた。
にわかに足元を損ないはしたが、こちらもただでは倒れない。
お返しとばかりに左脚を振るい、あまりにも無防備な肩口を遠慮なく狙った。
「がぅ……っ!?」
そもそもからして、膂力(りょりょく)の桁(けた)が違いすぎる。
地を割るような一撃をまともに被(こうむ)った彼女の身柄は、土砂を激しく巻き上げながら、数間(すうけん)の距離をただちに転がった。
その間(かん)に小烏丸が緋々色に燃えて、朝焼けの袂(たもと)にわだかまる淀(よど)んだ空気を、己の刃部に悉(ことごと)く結集させた。
「っ食らえおらぁぁぁぁッ!!!」
雷鳴のような蛮声と共に、激烈な踏み込みが競技場全体をわずかに持ち上げた。
時を移さず、一刀の周縁から奔放に散じた気流の渦が、幾重にも折り重なる竜巻と化して、手広いグラウンド全面を滅多矢鱈にかき乱した。
「ふぅ……!」
真横にひた走る竜巻とは恐れ入ったが、こちらもトチの狂った修羅場には、それなりに覚えがある。
おおっぴらに曝した肌身に意識を集中させ、気圧の変化、水蒸気の働きをもとに、蛇がのた打つような効力帯の進行方向を予測する。
間もなく、素足に突っ掛けた雪駄(せった)の底が火焔を焚いて、その身柄を矢のように疾走させた。
「ちぃ……っ!」
「御免なさいよっ!?」
瞬く間に死地をかい潜(くぐ)った彼女は、次いで女豹のように葛葉の身に纏わりついた。
豊満な肢体を活用し、華奢な手足を雁字搦めに捕獲する。
「お悪戯(いた)はもう──っ」
言いかけた矢先、肩口の産毛がピリピリと逆立つ感覚を知った。
考える間(ま)を置かず、速やかに五体を投げ出した後先に、俄(にわ)かな落雷が偶発し、緋袴の裾をわずかに焼いた。
「ちくしょう……」
頭に血がのぼるのを感じたが、努めて素知らぬ風(ふう)を装い、代わりに歯牙を咬み砕かんばかりに軋ませる。
即座に襲いかかってくるかと思いきや、一刀を片手に下げた彼女は、こちらに背を向けたまま棒立ちを決め込んでいる。
充電でもしているのか、それならまたと無いチャンスだが、後ろから襲うのはさすがに気が引ける。
また、こちらもこちらで当面の酷使が祟(たた)り、ちょうど穴の空いた風船のように、体の節々から霊威が漏れ出している気配が引きを切らない。
「ち……っ」
それにしても、あの刀。
『あれをどうにかすりゃ、割りと何とかなるかも知んないよ?』
かの思(おぼ)し召しは、半分アタリで半分ハズレといったところか。
あれをどうにか出来たとしても、本人があの通りの馬鹿力では何とも。
接近すれば拳の餌食に、離れれば不可思議な通力が嵐のように襲いかかってくる。
こんなもん、一筋縄で行くはずがない。
分かり切ってはいた事だが、まさかここまでとは。
いずれにせよ、あれは彼女のようなカミに持たせておくには、あまりにも危険すぎる代物だ。
その点だけは、疑いようも無い。
「お姉さん、なんや良からぬこと考えたはるんと違う?」
「あ………?」
気がつくと、眼前に美しい姫君の姿があった。
こちらの目線と合わせるように身を屈(かが)め、愛らしい仕草で頬杖をついている。
艶やかな垂れ髪には、数多の鈿(かんざし)や飾り物が無作為にあしらわれており、一種の混沌とした様相を呈していた。
小首を傾げるのに伴って、それらがカラリと涼やかな音を立てた。
「あたいは構へんよ? 弟くんとはそんないうほど仲良うないし」
ニコニコと楽しげではあるのだが、細く笑み曲がった瞳の奥にある何か、言い知れないものが、女性の身をただちに硬直させた。
「けど主(あるじ)さんはそら怒るやろなぁ? お姉さん食べられるかも知らんで? ぺちゃぺちゃぁ、ぺちゃぺちゃぁぁて」
悲惨な物事の直視を長らく続けた場合、その人物がどのような変化を遂げるか。 大まかに言って、そこには二通りのパターンがある。
ひとつは心を病む場合。 もうひとつは耐性を得る場合だ。
「お姉さん美味しそうやもんなぁ? せや、ちょい齧(かじ)らせてよ? だいじょぶやて、痛くぁせぇへんよ? むしろ気持ちえぇんちゃうかなぁ? あたいよう切れるさけな?」
この少女の“歪み”は、どちらのパターンにも当てはまらないように思えた。
そもそも、世の中のいったい何を見続ければ、このような眼を獲得できるのか。
それが不思議でたまらない。
「どこがえぇかなぁ? どこがえぇと思う?」
「ひ……?」
白魚のような指が、ひょろひょろと伸びてきた。
思わず情けない声を漏らしたのは、一生の不覚だ。
しかし、こちらにも意地がある。
「この……っ」
「この?」
「くっそガキが、舐めんなぁ!!!」
烈(はげ)しい火焔と共に、大型の機具に変貌を遂げた鎖鋸が、重々しい稼働音を引き鳴らした。
これを振りかざし、絶後の気合いを掛けて立ち向かう。
「あ……っ!?」
ところが姫君の姿は幻のように失せ、その向こうに呆気をさらす葛葉の容貌が現れた。
力の限り制動を試みるも、もはや止める手立てはない。
凶悪な重機は、勢い込んだまま彼女の肩口を目指して降り掛かった。
嫌な音が鳴った。
湿り気のある貝殻を踏み砕くような。 硬質な物品を、ジャリジャリと噛み砕くような。
あわせて、紅霞(こうか)を思わせる鮮やかな血煙が上がった。
もはや直視ができず、ただ表情に苦渋をあしらい、惨烈な光景を想像する。
そんな女性の眼に、緋々色をたくわえた破片がしきりに舞うのが見えた。
彼女が上げたものらしい悲鳴とも怒号ともつかない声が、鼓膜を震わせた。
──なんて声出してんだい?
うちは道具なんだから。 刀なんだから。
消耗品である以上、いつかこうなるのは、最初(はな)っから分かってたはずじゃねぇか。
刃の毀損は持ち主を守った証っつって、好事家の間じゃそりゃ喜ばれるって聞いたことがあったっけ?
けど、この場合はどうなんだろ?
それより、あのヤロウ……。
気ぃつけろよ姐御。
うちの姉貴は、知っての通りイカれてる。
信用するのはいいが、なるべく背中を向けないほうがいい。
枕刀に用いるなんてもっての他だ。
それもまぁ、ヤロウが辿ってきた道々を思えば、納得はできねぇが、ほんのちょっとだけ同情の余地はあるのかも知んねぇ。
海の底も暗かったが、土ん中も似たようなもんだろう。
そういや、前にもこんな事があったっけ?
あん時は刃毀れで済んだが、今回はさすがに。
あぁクソ……。 しょうもねぇ事しか思い浮かばん。
姐御、なぁ姐御?
姐御は負けたりしねぇよな?
うちが腰に無くたって、負けたりしねぇよな?
姐御は気ぃ荒いけど、そっち側じゃねぇんだから。
手前(てめえ)ん中の化け物に、負けたりしねぇよな?
刀身のほとんどを欠いた差料を手に、悄然(しょうぜん)とへたり込む葛葉の肩口から、とくとくと赤いものが溢れていた。
刃部の断面にのぞく心金は、灼鉄が冷えて赤味を損なうように、あるいは最後に残った体温が、徐々に失われていくように、緋々色の光明をだんだんと萎(しぼ)めつつあった。
「違う、そんなつもりじゃ……」
一方で、目に見えて狼狽(ろうばい)した女性は、ともかく先方の手当てをと思い立った。
反面、目論(もくろ)みの通り、あの一刀を彼女の手から奪うことには成功したと、脳内が煩(わずら)わしくも事務的に駛走した。
その矢先のことである。
「“やどり”」
蚊の鳴くような葛葉の声を受け、土中からスルスルと生(は)え出(い)でた一刀が、ここぞばかりに緋々色のあかりを撒き散らした。
──あぁ、ここまでやっても気ぃ付かへん。
ちと冷静に考えたら、違和感に気ぃつくはずやのに。
平和ボケ、ちょい違うな。
単に純粋すぎるんやろか、うちの主さんは。
けどまぁ、言うたらんとこ。
どんなルールか知らんけど、そもそもそんなモンがあるんかどうかも分からんけど、爪弾きにされたらかなわんし。
それにまぁ、こっちが半分ほどけしかけたようなもんやけど、うちの可愛い弟くんワヤにしてくれたこのお姉さん、まずはイテもうたらなアカンしなぁ?