Side翔太
人前じゃ、俺たちはただのクラスメイト。
たまに話す程度の、よくある“知り合い”。
だけど、本当は──俺の恋人は、生徒会副会長の涼太だ。
「……今日も、終わらないか」
手元のスマホを見つめながら、小さくため息をついた。
待ち受けには、涼太が撮った俺の寝顔。
こっそり撮るなよって文句を言ったら、「俺だけの特権だから」とか返されたのはいつだったっけ。
思い出すたびに、胸が少し痛む。
放課後、昇降口の下駄箱前で立ち尽くしていると、ちょうどふっかとめめが通りかかった。
「おーい翔太、帰んないの?」
「あ、うん。ちょっと忘れ物しただけ」
軽く笑って誤魔化すと、二人は深くは突っ込まず、そのまま談笑しながら帰っていった。
……こういうのも、もう慣れた。
俺と涼太の関係を知ってるのは、数人の気の置けないの連中だけ。
他の誰にもバレないようにって、俺たちは“普通のふり”をし続けてきた。
でも最近、その“普通”が、本当に普通になってきてる気がする。
生徒会室からは、話し声と書類の音が漏れてる。
中を覗くと、涼太は真剣な顔で先輩と話していた。
整った横顔、ペンを持つ指、真っ直ぐな眼差し。
……惚れ直す反面、なんだろう。
そこに俺の入る隙なんて、もうないんじゃないかって。
そんなこと、考えたくないのに。
LINEの未読は、今日もついたまま。
「ごめん、もう少しだけ待ってて」って、昨日も一昨日も同じ言葉。
──待ってるよ。でも、俺だって、そんなに強くない。
目の前の生徒会室から、笑い声が聞こえた。
声の主はすぐにわかった。
──涼太と、生徒会長の安藤咲。
「ほんと真面目すぎ!でもそこが舘くんっぽいけどね」
「いやいや、俺はそこまでじゃ……っ」
「えー、そんなことないって!」
軽くツッコミを入れる涼太の声、笑い声。
隣同士で書類を見て、距離が近くて。
それを見てる自分は、ただ、扉の影。
なにしてんだろ、俺。
心の奥が、きゅうっと狭くなる。
涼太の隣にいるべきなのは俺のはずで。
笑い合ってほしいのは俺で。
でも今、そこに俺の居場所なんて──なかった。
呼べばよかったのかもしれない。
でも、名前すら口に出せなかった。
声をかける勇気が出なかったのは、きっと、
“もし、振り向いてくれなかったら”って思ったからだ。
笑ってる涼太の顔が、少し遠く感じた。
「あー……バカだな、俺」
苦笑して、踵を返した。
足音を立てないように、そっとその場を離れる。
振り返ったら、泣きそうだったから。
──恋人なのに、なんでこんなに寂しいんだろ。
夕陽の染まる廊下に、俺の影だけが長く伸びていく。
誰もいない教室の窓に、自分の顔が映った。
その目は、ちょっと泣きそうに見えた。
――――――――――――
天井を見つめたまま、目を閉じても眠れなかった。
カーテンの隙間から入り込む街灯の光が、ベッドの上を淡く照らしている。
ポツリ、ポツリと、記憶が降ってくる。
──最初に出会ったのは、幼稚園の砂場。
どっちが先に山を作れるかって、競い合って、手が泥だらけになって。
勝った方が相手にラムネを分けるって、そんなどうでもいいルール、あいつが勝手に作った。
「翔太には青いのな。俺、赤の方が好きだから」
あの頃から変わらない。涼太は、ちょっとズルくて、優しかった。
小学校も中学も、いつもそばにいた。
でも、いつの間にか、俺の気持ちは“友達”じゃ収まらなくなってた。
高校に入ってすぐ、夏の終わりの夕方。
公園のブランコに座って、俺は思いきって言ったんだ。
「……俺、涼太のこと、そういう意味で好きなんだけど」
沈黙のあと、不器用なくらい真っすぐに、あいつは言ってくれた。
「翔太が他の誰かに取られるくらいなら、俺がずっとそばにいたいって思った」
顔、真っ赤だったくせに。声、震えてたくせに。
でも、嬉しかった。心臓が壊れるかと思った。
俺たちは、それから“恋人”になった。
──なのに、最近の俺たちはどうだろう。
すれ違って、言葉が足りなくて、
なんでだろうな。付き合ってるのに、あの頃より遠く感じる。
「……もう、俺ばっかり、好きなのかな」
ぽつりと呟いた時、スマホが振動した。
涼太からのLINEだった。
「今日一緒に帰れなくてごめん」
「また、ちゃんと話そう」
「翔太、おやすみ」
──“ごめん”じゃなくて、
“会いたい”って言ってほしかった。
画面の文字を何度も見つめて、返信は打たなかった。
寝返りを打って、目をぎゅっと閉じる。
まぶたの裏には、あの夏の日、嬉しそうに笑った涼太の顔が浮かんでいた。
―――――――――――
「……翔太」
屋上に出た涼太は、俺の姿を見つけて、少しほっとした顔をした。
そういうところ、ずるいよな。
声をかけられただけで、まだ好きだって思っちゃう自分が、もっとイヤだった。
「……LINE、読んでくれてたんだ」
「うん。……それだけ?」
涼太が少しだけ戸惑った顔をする。
「昨日のこと、ちゃんと話したいって──」
「“ごめん”って謝って、終わりにすんの?」
声が少し、震えた。
涼太の目が、少しだけ揺れる。
「……違う、そんなつもりじゃ」
「だったらさ──俺のこと、ちゃんと見てよ」
一気に言葉があふれ出した。
「ずっと待ってた。お前が生徒会で忙しいのも知ってる。でもさ、それでも“好き”って気持ちは我慢しなきゃいけないの?」
「俺ばっかり、気持ち押し殺して、涼太の邪魔にならないようにって──」
「それで“恋人”って言えるわけ?」
屋上を吹き抜ける風が、俺の言葉をさらっていく。
涼太は黙ったままだった。
言い返さない。否定しない。
……それが余計に、苦しかった。
「昨日だって、俺が見てたのに気づいてなかったよな。安藤先輩と楽しそうにしてるお前見て──俺、何にも言えなかったよ」
「ほんとは叫びたかった。“俺の彼氏なんだけど”って。でもそれ言ったら、お前困るだろ?迷惑だろ?」
涼太の目が、はっきり揺れた。
「違う……そんなこと思ったこと一回も──」
「だったら、なんで俺ばっかり、こんなに苦しいの?」
最後の言葉は、ほとんど涙声だった。
でも、泣きたくなかった。
泣いたら、全部終わっちゃう気がして。
「……もう、わかんねぇよ。涼太の隣にいて、俺はちゃんと“恋人”でいられてるの?」
そう言い残して、俺は涼太の前から歩き出した。
追いかけてくれるかなんて、期待してなかった。
──ただ、どうしようもなく、悲しかった。
―――――――――
Side涼太
翔太が屋上を出ていったあと、しばらく俺はその場に立ち尽くしていた。
言いたいことなんて、山ほどあった。
でも、あいつの言葉を聞いてるうちに、何も言えなくなった。
……俺、本当に“恋人”でいられてたのか?
「……馬鹿だな、俺」
誰よりも大切にしてきたはずなのに。
大切にしてるつもりで、勝手に甘えて、無意識に遠ざけてた。
あいつが泣きそうな顔で叫んでたのに、俺は、ちゃんと受け止められなかった。
走って追いかけようとして、でも足が動かなかった。
今さら、何を言えばいいかもわからなかった。
屋上を出て、階段を下りようとした、そのときだった。
「──ッ!」
足を踏み外したのは、本当に、一瞬だった。
滑るようにして視界が傾く。
手すりに手を伸ばすが、虚しく空を掴んだ。
耳鳴りがして、周りの音が遠のいていく。
頭の中には、翔太の顔が浮かんだ。
怒ってた。泣きそうだった。
でも、本当は──あいつ、俺をずっと待ってくれてた。
「……しょ、た……」
次の瞬間、視界が真っ白に弾けた。
―――――――――――
Side翔太
チャイムが鳴る直前、教室のドアが勢いよく開いた。
「しょっぴー!!」
目黒の声だった。珍しく、顔が青ざめている。
「舘さんが……舘さんが階段から落ちた!」
「……え?」
耳が、キーンとした。
心臓が何かに掴まれたみたいに、痛くなった。
さっきまで、屋上で話してたばかりなのに。
さっきまで、目の前にいたのに──。
ガタッと椅子を蹴る音だけが教室に響いて、
俺は無我夢中で走り出した。
廊下を駆け抜け、階段を飛ばすように下りて、玄関へ。
そのときにはもう、昇降口前はざわついていた。
誰かが「救急車!」「頭打ってたらやばいって!」と叫んでいる。
視線の先に、救急車の扉が開いていて、
担架に乗せられた人影が、周りに囲まれて運ばれていく。
──涼太だ。
だけど、俺の視界に映ったのはほんの数秒。
人だかりの隙間から見えたその顔は、
いつもの余裕も、笑顔もなかった。
何も言えなかった。名前も呼べなかった。
息が詰まりそうで、心臓がバラバラになりそうだった。
担架が車に運ばれ、扉が閉まる。
俺の足は、その場に釘付けになったまま動けなかった。
「……涼太」
隣に立った目黒の声で、ようやく呼吸が戻る。
「……しょっぴー、舘さんと……なんか、あった?」
落ち着いたトーンだったけど、目黒の目はまっすぐだった。
俺が何かを隠してるのを、きっともう気づいてるんだろう。
けど──言えなかった。
「……」
喉が詰まって、声が出なかった。
あの屋上での言葉が、涼太の最後の記憶になったらって思ったら、怖くて、何も言えなかった。
「……そっか」
目黒はそれ以上何も聞かず、ただ隣に立ってくれていた。
だけど俺は、その沈黙すら、痛く感じて。
胸の奥がじんじんと軋んでいた。
“ごめん”なんて、もう言わせたくなかった。
言葉にしなきゃ、届かないって、わかってたのに──
俺はまた、涼太の背中を見送ることしかできなかった。
―――――――授業なんて、頭に入るわけがなかった。
先生の声も、クラスメイトの笑い声も、全部、遠くに霞んでた。
チャイムが鳴って、机から立ち上がる。
誰かが声をかけてきた気がしたけど、聞こえなかったふりをして、そのまま校門を出た。
舘涼太が運ばれた病院。
何度も通ったことのある道なのに、足元がふわふわしていた。
冷静なふりしてるつもりだった。
でも、ポケットの中で握りしめたスマホが、何度も震えた手で汗ばむ。
早く、会いたい。
早く、顔が見たい。
でも──もし、目を開けなかったら?
俺のこと、怒ってたら?
……いや、もう、そんなことどうでもいい。
「涼太……ごめんなさい……」
誰もいない交差点で、小さく呟いた。
声に出した瞬間、涙がこぼれた。
「もう、わがまま言わないから……ちゃんと、ちゃんと涼太の隣にいるから……」
唇を噛んで、足を早める。
「だから、どうか──」
信号が青に変わる。
目の前の病院が、夕暮れの空に浮かんで見えた。
「……どうか、無事でいて」
答えなんて返ってくるはずない祈りを、
俺は心の奥で、何度も何度も繰り返していた。
――――病室のドアをノックをする手が、震えていた。
呼吸が浅くなるのを感じながら、ゆっくり扉を開ける。
そこにいたのは、ベッドに座る涼太だった。
頭には包帯が巻かれていて、点滴のチューブが腕に繋がっている。
でも、目はしっかりと開いていた。
こうして目を覚ましてくれていることが、何よりも嬉しかった。
「……涼太」
呼びかけると、涼太がこちらに顔を向けた。
目が合う。
でも、その瞳には、俺のことなんて──
「ごめんなさい……どちら様ですか?」
たった一言。
でもその一言で、すべてが崩れた。
「……え?」
聞き間違いじゃないかと、自分に問いかける。
でも涼太の表情は、真剣だった。
どこか戸惑っていて、でも本気で“俺が誰なのか”分かっていない顔だった。
「……翔太、だよ。幼馴染の翔太」
震える声で名乗ってみる。
だけど涼太は、困ったように眉をひそめるだけだった。
「すみません……俺、その名前に覚えがなくて……」
涼太の声は、優しかった。
だからこそ、残酷だった。
その口から、俺の名前が“知らないもの”として扱われるのが、あまりに苦しくて、呼吸が詰まりそうだった。
ここにいるのは、たしかに涼太なのに──
俺がどれだけ好きだった人でも、
今の涼太にとって、俺はただの“見知らぬ誰か”でしかなかった。
何か言わなきゃって思っても、喉が動かない。
胸がぎゅっと締めつけられて、言葉の形を作る前に、心が先に折れそうだった。
“忘れられた”んじゃない。
“いなかった”みたいに扱われる、この現実が。
目の前の涼太の顔が、滲んで見えた。
どんな顔をすればいいのか分からなくなって、
言葉を探していたそのとき――
「涼太君!!」
病室の扉が勢いよく開かれた。
思わず振り向くと、息を切らせた女子生徒が飛び込んできた。
──安藤咲。生徒会長。
学校でも知られた優等生で、涼太と生徒会を一緒にやっていたあの先輩。
「もう、ほんと心配したんだから……!」
駆け寄った彼女は、迷いなく涼太の体に腕を回した。
ベッドに身を乗り出すようにして、彼の首元に頬を寄せる。
「舘君……ほんとに、良かった……」
翔太はその光景に、言葉を失った。
涼太は驚いたように彼女を見つめて、少し身を引くと、おずおずと尋ねた。
「……あの、どなたですか?」
咲がピタリと動きを止めた。
けれど、次の瞬間には、静かに笑って言った。
「──私は、舘くんの彼女だよ」
その言葉が、爆音のように翔太の胸に響いた。
「……え?」
何が起きてるのか、すぐには理解できなかった。
涼太は咲を知らず、俺も知らず、
けれど彼女は当然のように“彼女”だと名乗った。
思考が停止する。
心がバラバラにほどけていく感覚。
涼太の隣にいたのは、俺だった。
笑った顔も、手を繋いだ日も、全部知ってるのは、俺だったのに──
「……ウソ、だろ……」
口から漏れた言葉は、誰にも届かなかった。
「……っ!」
気づいたときには、もう走り出していた。
病室を飛び出して、廊下を駆け抜けて、
人目も気にせずに非常階段を下りていく。
何人かとすれ違った気がするけど、誰の顔も見えなかった。
ただ、逃げたかった。
あの病室から、あの空気から、涼太の“知らない顔”から。
病院の玄関を抜けて外に出ると、
冷たい風が肌を刺した。
けれど、それすらも今の俺にはちょうどよかった。
「……なんで、あんなやつが“彼女”なんだよ……」
声が震える。
浮かんでくるのは、咲が涼太を抱きしめていた姿。
涼太が、驚きながらも拒絶しなかった様子。
──それに、俺の存在を何ひとつ覚えてなかったこと。
「まさか、浮気……?」
違う。そんなはずない。
涼太は、そんなやつじゃない。
でも──
「……いや、もしかして……もともと本命は、俺じゃなかった……とか……?」
自分の中から、そんな最低な言葉が出てくるのが嫌だった。
でも、止められなかった。
“忘れられる”ってことは、そういうことじゃないかと、
無意識が勝手に傷口を広げてくる。
そんなわけ、ないのに。
涼太は俺のことを、ちゃんと好きでいてくれたはずなのに。
足がもつれて、視界がぼやけた。
次の瞬間、近くの電柱に寄りかかっていた。
そのまま、ずるずるとしゃがみこむ。
「……っく……なんで、だよ……」
こらえきれず、涙が頬をつたった。
恋人に忘れられるなんて、想像もしてなかった。
それだけでも十分苦しいのに──
知らない“彼女”が、当然のように涼太に身を寄せていた。
全部、自分の居場所がなくなったみたいだった。
もう、どこにもいられない気がした。
――――――――
それでも結局翌日涼太の病室に戻ってきてしまった。
やっぱり、どうしても今ここにいなければならないような気がしたから。
病院の長椅子に座る。、
すると廊下の向こうから涼太の母が小走りにやってきた。
「翔太君……!」
「……はい」
顔を上げると、少し目元を腫らした涼太の母が、心配そうに俺を覗き込んでいた。
「……ありがとうね、駆けつけてくれて。幼馴染のよしなだからって、涼太も……きっと安心するわ」
「……そんな」
そう答えるのが精一杯だった。
涼太にとって、俺は“幼馴染”としてしか認識されていない。
それが、ただただ痛かった。
「ちょうど先生がいらっしゃるから……もし良かったら、翔太君も一緒に聞いてもらえない?」
「……はい」
断る理由なんてなかった。
むしろ、どんなことでも知っていたいと思った。
少しでも涼太に近づけるなら、それだけでも──
診察室のドアが開き、俺と涼太の母は中へ通された。
医師は穏やかな表情で、資料を確認しながら口を開いた。
「涼太さんの件ですが……今回の事故によって、部分性健忘症が見られる状態です」
──健忘症。
その単語が、現実をじわりと締め付けてきた。
「記憶の一部に、断絶があります。具体的には、ここ数年の出来事、特に人間関係の一部に混乱が見られるようです。ただし、脳に重大な損傷は見られず、生活には支障が出ない見込みです」
涼太の母が、少し安堵の息を漏らした。
けれど、俺の耳には、そのあとの言葉だけが、ずっと反響していた。
「……記憶が戻るか戻らないかは、個人差があります。ストレスや環境要因、本人の状態によって変わりますので、経過観察が必要になります」
──戻るかもしれないし、戻らないかもしれない。
その曖昧な断定が、一番残酷だった。
先生の口元が動いていた。
涼太の母が質問しているのも分かっていた。
でも、俺の耳には、
その声は水の中から聞こえてくるような、くぐもった音にしか聞こえなかった。
“戻らないかもしれない”
それが、ずっと頭の中でこだましていた。
俺のことを好きだった涼太は、もう、どこにもいないのかもしれない。
笑いながら「翔太」って呼んでくれた声も──
俺の肩にぽんと置かれた、あの手のぬくもりも──
全部、夢だったみたいに、消えてしまった。
「……翔太君?」
涼太の母の声に、ようやく我に返る。
「……すみません。聞いてました、大丈夫です」
でも、大丈夫なんかじゃなかった。
全部がぐらぐらしていた。
俺の中で、何かが少しずつ壊れていく音が、確かに聞こえた気がした。
「生活には支障がない見込みですし、少し安静にしていれば問題ないでしょう。……退院は、明後日を予定しています」
医師のその言葉に、涼太の母は小さく胸を撫で下ろした。
「良かった……本当に、ありがとうございます……」
横で何度もお辞儀を繰り返す彼女の姿を、ぼんやりと見つめながら、
俺はそれでも、自分の中のどこかがスースーと冷えていくのを感じていた。
“生活に支障がない”。
それはたぶん、俺の存在が“思い出せなくても困らない”ってことでもある。
退院が決まっても──
俺の名前は、涼太の中に戻ってくるわけじゃない。
説明を終えて診察室を出ると、廊下のベンチに腰を下ろした。
涼太の母が、隣にそっと腰かける。
「翔太君……今日は本当に、ありがとうね」
「あ、いえ。俺の方こそ、同席させてもらって……」
気を遣わせないように、努めて笑顔を作った。
でも、その次の言葉が、胸に突き刺さった。
「退院したら、また学校に戻るから……よかったら、涼太のこと、よろしくね。幼馴染として、そばにいてあげて」
──“幼馴染として”。
俺の中では、何かがひとつ確実に“終わった”ような気がしてならなかった。
「……はい。わかりました」
自分でもびっくりするほど、冷静に答えていた。
でも胸の奥は、ぐしゃぐしゃだった。
“よろしくね”って、そんな簡単な言葉で任せられるほど、俺たちは軽くなかったんだよ。
涼太が俺の隣で笑っていた時間も、
俺の名前を呼んだ声も──
全部、忘れられたままで、普通の顔して“よろしく”なんて。
……悔しいとか、悲しいとか、もうよくわからなかった。
ただ一つ、はっきりしていたのは。
俺は、まだ涼太を諦められていないってことだった。
――――――――――
その日の昼休み、昇降口が少しざわついていた。
「舘くんだ!」
「ほんとに戻ってきた……!」
「元気そうでよかった〜!」
次々に声が飛び交う。
見ると、制服姿の涼太が、生徒会の資料を抱えてゆっくり歩いていた。
数日ぶりの学校。
“いつもの場所”に、いつもの顔が戻ってきたはずだった。
──でも。
その表情は、少しだけ強張っていた。
呼びかけられるたびに困ったように笑い、
「ありがとう」「……うん、覚えてなくてごめん」と、ぎこちなく返している。
“副会長”として扱われることにも、
何かを期待されたような視線にも、
涼太はまだ慣れずに戸惑っているようだった。
それを、少し離れた廊下の端から、俺は見ていた。
声をかけようかと、何度も思った。
でもそのたびに、あの病室での「どちら様ですか?」が頭をよぎって、
足がすくんだ。
「──はいはい、ちょっとごめんなさいね!」
ひときわ明るい声とともに、その場の空気が変わった。
安藤咲、生徒会長。
どこかのタイミングで合流したのか、自然な仕草で涼太の隣に立つと、
お決まりのように言った。
「舘くん、まだ本調子じゃないから、あんまり質問攻めにしないであげてね?」
そして、振り向きざまに、さらっと──
「彼、私の彼氏だから」
その場が、一瞬静まり返った。
誰かが小さく「えっ」と声を漏らしたのが聞こえた。
俺も、そのひとりだった。
涼太は驚いたように咲を見つめていた。
でも、すぐに表情を曇らせて目を伏せる。
否定しなかった。
──できなかったのかもしれない。
記憶がないんだから。
でも、それでも。
「……」
気づくと、拳を握っていた。
胸の奥がきゅっと縮んで、呼吸が浅くなる。
視界が少しだけ滲んでいた。
あの場所に、本当は俺がいたはずだった。
涼太の隣で、支えるのは、
笑いかけられるのは、
手を繋ぐのは、俺だったはずなのに。
知らない顔で並ぶふたりが、
“当たり前”のように見えてしまうのが、悔しかった。
まるで、俺との時間が最初から存在しなかったみたいに。
「……っ」
その場から逃げ出したくなる衝動を、
なんとか飲み込んで、
俺は、もう一度だけ涼太の顔を見た。
でもその目は──誰のことも思い出せていないままのようだった。
続きはnoteで作者名『木結』(雪だるまのアイコン)で検索して下さい。
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