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Side.青
「待ってねー、もうすぐできるよ」
退屈になったのか、大我が服の裾をくいっと引っ張ってくる。
ちょうどバッグに2人分の衣類を入れているところだ。全て詰め込むと、不足がないか確認してチャックを閉めた。
「オッケー、行こうか」
リビングを出る瞬間、大我が振り返って相棒のアップライトピアノを見た。ちょっと寂しそうな表情をする。少し留守にすることは分かっているみたいだ。
「ちょっと我慢だよ、大我。2日だけだから」
最低でも一泊が限界だろう。
「帰ったら弾けるからね」
もちもちの手を握ると、ぶんぶんと振った。
「人多いなあ…大丈夫かな」
改札を入ると、行き交う人の量に少しびっくりする。休日だからしょうがないかと思うが、人が多いところが少し苦手な大我が心配だ。顔色をのぞくと、案外普通にしている。手を繋いでいれば安心かな、と前を向き直す。
「新幹線は……こっちか」
普段あまり電車を使わないし、大きな駅だから道に迷いそうだ。息子の前なんだからしっかりしないと、と通路を進む。
何とかホームにたどり着き、「ここで待つよ。すぐ来る」
何もせずに待つのは無理かも、と考えてスマホに繋げたイヤホンを大我の耳に入れる。ピアノの曲でもかけてあげようと思った。
が、それを払いのけた。「あっ…。ごめん、嫌か」
初めての場所で緊張しているのだろう。頭をなでたり抱っこをしたりして安心させる。
しばらくして、白くて長い車両が目の前に滑り込んできた。
「お、来た来た。大我、新幹線だよ」
その目は見知らぬ乗り物に向けられているが、少なくとも興味の色はなかった。まあ、予想はしていたことだ。きちんと乗れればいい。
乗り込み、指定席に腰を落ち着ける。
窓側に座った大我は、枠に手を掛けて外を見ている。気になるのは気になるのかな、と頬が緩んだ。
出発して走っていても、景色を眺めながら静かにちょこんと座っている。
心配はどうやら杞憂だったようだ。
祖父母の家は、新幹線の駅では3駅離れている。一つ前の駅に着くころには、大我はすやすやと寝息を立てていた。
「着いたよ、起きて」
まだ眠たそうに目をこする。でも手を繋ぐと、すんなりと歩いて付いてきた。
人の流れに従って行くと、改札までついた。
「また切符を、ここに入れるんだよ」
抱き上げて大我の手を持ち、切符を差し込む。ぴよぴよっ、とかわいらしい音が響いた。それに続く。
出口に行こうとしたところ、握っていた手が引っ張られた。
「ん? どうした大我。こっちだよ」
言っても、顔は正反対のほうに向けられている。手を振りほどいた大我はそちらに進んでいく。
「ちょ、行ったらダメ」
腕を掴もうとしたが、うまくかわされた。見失ったらヤバい、と慌てて追いかける。
大我が向かった先にあったのは、グランドピアノだった。いわゆる誰でも弾けるストリートピアノだ。駅ピアノ、と言うべきか。
「あ…」
きっと人混みの中、大きなそれが垣間見えて弾きたくなったのだろう。
立ち止まっている間にも、大我は椅子に座ろうとしている。こうなれば、無理に連れ戻そうとしたらかんしゃくを起こしてしまう。
仕方なしに付きあうことにした。
「ちょっとだけね」
はい、と座らせる。
セミコンサートサイズなのでさほど大きくはないものの、大我の小さな身体には不釣り合いなくらいだ。
大我がちらっとこちらを見る。いいよ、とうなずいた。
指を鍵盤に載せると、考える間もなく弾き出す。それもやはり知らない曲だった。
しばらく弾いていると、何人かが足を止めて聴いていることに気がついた。緊張しないかな、と思ったが、大我は完全に自分の世界に入り込んでいる。
すると、「樹」と自分の名を呼ぶのが聞こえた。
振り返ると、いつの間にか両親が立っていた。「着いたなら連絡してくれればいいのに」
「これ、見つけちゃって…」
とピアノを指さす。
「大我、やっぱりピアノが大好きみたいだな」
「うん。ずっと弾いてる。ごめん、しばらく止められないからちょっと待ってやって」
「でもすごいわね。ほんとに幼稚園児なのってくらい上手だし、プロになれるかも」
自由に手を動かす彼を見て言う。もし人前に出られるならね、と内心思ってしまう。
放っておいたら切りがない。そろそろやめさせようか、と大我の肩を触る。「行くよ」
和音で締め、手を下ろす。
するとそのとき、周りから拍手が聞こえてきた。それは正真正銘、大我に向けられているものだった。
多くの人が、大我の演奏を聴いてくれていたのだと思うと涙が出そうになる。
大我もびっくりしたようで、椅子から降りると足に抱きついてきた。
「よしよし、怖いね。行こっか」
それから、腕を広げた祖母の胸に飛び込んだ。
「よく来たね、大ちゃん」
それを微笑ましく祖父が見つめている。
大我も白い歯を見せ、笑った。稀にみる輝くような笑顔。
それはほかの子と何ら変わりのないだろう、かわいい孫の表情だった。
終わり