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えみりと別れた凪は、店から不在着信があることに気がついた。スマートフォンを素早く操作して、折り返しの電話をかける。
直ぐに内勤の担当者の声が聞こえた。
「ああ、ごめんね。仕事中だってわかってたんだけど、確認したいことあって」
「大丈夫です。確認したいことってなんですか?」
「ちょっと前にNGにした客いたじゃん」
「ああ、はい……」
凪の頭にはふっとちひろの顔が浮かび、苦虫を噛み潰したような顔をした。体が痛む度に嫌でも思い出す顔。もういい加減あの日のことは忘れたいと何度も思った。
連絡手段は絶ったし、予約の際に使用した連絡先は拒否し、ちひろ自体を出禁にしてもらったのだ。
もうこれで予約は入れられないはず。そう思うのだが、どうにか別のアカウントを使って予約を取りそうだとも思い警戒心は敏感なままだった。
そんなちひろのことを言っているのだ。おそらく予約を取りたがってるのだろうと頭痛がした。
「名前、ちひろで入ってるけど。新規」
「断って下さい。ちひろって名前は全員」
「でも違うかもしれないし……」
「本人だった場合、本当にマズイんでやめてください」
「わかったよ……。じゃあ、予約入れずにおくね」
「お願いします。俺も暫く新規の客は取らないようにしますんで」
凪はそれだけ言うと、電話を切った。ちひろのせいで怖くて新規の客もとれやしない。もちろん凪であればリピート客だけで1日を埋めることができるが、いつ離れていくかわからない客だけに頼るのも将来性が不安となる。
上手くいかない段取りに凪は苛立ちながら、ガシガシと頭を搔いた。頭痛が酷くなったような気がした。
「あー……このあと美容院だったわ」
次の予約まであと4時間。その間にパーマとカットとカラーを予約してあった。時間まで食事でもして暇を潰そうと大きくあくびをしながら凪は歩き出した。
凪は美容院のドアを開け、真っ直ぐ受付に向かう。広い店内はぎっしりと客で埋めつくされていた。
雑誌やテレビでも何度も紹介されている有名な店なのだ。理想の髪型にしてくれるのはもちろんのこと、おまかせにしても似合う髪型を見出し、傷み過ぎてどうにもならない状態から1日で復活させることができるほど優れた美容師が揃っていた。
アシスタントとしての入社も厳しい面接の上で合否が決まる。厳しい技術試験をクリアしてからようやくハサミを持つことができるのは当然として、ここはカリスマと呼ばれている美容師が存在する店だ。
その美容師に憧れて入社したものの、挫折を味わって退店した者が後を絶たない。
そんなカリスマを予約するために何ヶ月も客は待つ。向こう側1年まで予約はビッシリ埋まっているらしいと凪も聞いた事があった。
「いらっしゃい、凪くん」
担当の米山(よねやま)が笑顔で顔を出した。会員カードを受け取ると、素早く予約の確認をした。
「今日もめちゃくちゃ混んでますね」
「んねー。まあ、ほとんど成田さんのお客さん」
「あー、そうっすよね」
凪はははっと乾いた笑いを浮かべた。凪がこの美容院に通うようになったのは2年前からだ。同じ店で働いているセラピストが急に垢抜けた気がした。グングン指名を伸ばし、底辺に近かったはずが凪のすぐそばまでランキングを上げてきたのだ。
「勢い凄くない?」
「やっぱ髪型のおかげですかね? 前の宣材写真の時、全く指名入らなかったのに撮影の日に美容院行ってから撮ったんですよ。そしたら写真変えた途端、新規指名爆上がりです」
嘘だろ。そうは思うものの、凪から見ても写真が同一人物だとは思えなかった。写真だけではなく、実物も何割増しにも見える。
髪型だけでそんなに変わる? 半信半疑で店名を尋ねればここを教えられたのだ。
「成田さんって人にやってもらったんですよ! でも、成田さんの予約って半年待ちで。撮影日に合わせてようやく予約取れたんです!」
そう言って喜んでいた後輩。興味本位で予約を取ろうとした凪だったが、凪が電話した時には1年待ちだと言われたのだ。
誰が1年も待つかよ。苛立ちながら「じゃあ、指名なしで」と言ったものだから、その時の担当者となったのが米山だった。
「今日はカットとカラーとあとまたパーマあててく感じかな」
席に案内した米山が、凪の髪を触りながら言った。鏡に映る米山に向かって凪は小さく頷いた。
凪が座る席は比較的出入口に近いところだ。そこから一直線に6席並び、鏡を隔てて同じように席がある。その奥には角を曲がるようにして広い空間があり、そこにも何席もあるようだった。
美容師達はそこを『成田ブース』と呼んでいた。メンズカットを売りにしている成田の予約は1日に何人も訪れる。
シャンプー、カラー、パーマはほとんどアシスタントが行い、成田はカットのみに集中する。もちろんアシスタントが行った技術の確認はして回るのだが、ほとんど芋洗い状態である。
それでも成田にカットをお願いしたいと予約する者は絶えない。
凪はいつもの光景に特に気にする様子はなく、カラーを何色にしようかとカラーチャートを目で追った。
米山は仕事が速いし、アシスタントも気が利くため人気店であっても待ち時間が恐ろしくかかることなどなかった。
成田を指名しなければ至って普通の美容院である。ただ、どの美容師を指名してもハズレはない。
「ねぇ、凪くん。先に言っとくんだけど俺本店に行くことになってさ」
米山は口を開いた。ふと顔を上げた凪の目に飛び込んだのは米山の嬉しそうな顔だった。
「え? 本店ですか?」
「うん。ようやく。8年越しかな」
「うわっ、よかったっすね。ずっと行きたいって言ってたじゃないですか」
凪も思わず顔が綻んだ。米山を指名し始めた頃から彼が本店で働きたいと言っていたのを聞いていたし、応援もしていたからだ。
いくつか店舗はあったが中でも本店は倍率が高く、カリスマと呼ばれるいくつもの賞をとっている美容師でさえ簡単には移籍できなかった。
「成田さんが俺のこと押してくれてさ。向こうの店長に掛け合ってくれて行けることになったんだよ」
「えっ! じゃあ、成田さんに認められたってことですか?」
「そう思っていいのかな……。まあ、経験も年齢も俺の方が上だけど、専門職って技術と接客が全てみたいなところがあるから。成田さんのことはずっと尊敬してたから嬉しくてさ」
そう言ってはにかむ米山は、今にも踊り出しそうなほど喜びを噛み締めていた。