コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「京介さん!」
車内の重い空気を、芳子が破る。
「あなた、もしかして、また、昔の様なことを?!それじゃあ月子さんは、どうなるの?!」
「見合いということを忘れてないだろうなっ!京介!」
兄の男爵も助手席から、チクリと意見する。
「どうするも、何も……わ、わかっております」
岩崎の困りきった返答に、芳子は、満足げにニンマリ笑った。
「それなら、良し」
助手席で、男爵も頷いている。
「まあ、なんですね、京介様、早く、あの女学生さんと手を切っておしまいなさいな」
三田が、何故か朗らかに口を挟んで来た。
「い、いや、ちょっと!何を!」
岩崎は焦りきるが、三田は、のほほんと言い続ける。
「旦那様、どうせ西条家へ伺うんですから、結納の日取りと、祝言の日取りもお決めになったらどうですか?何度も、行ったり来たりは、あたしも、面倒ですからねぇ」
なるほど、なるほど、と、男爵が、三田の言い分に頷いた。
「そうよね、その方が、月子さんも、落ち着くだろうし、何かと準備もはかどるだろうし、何よりも……」
芳子も三田の言い分に納得しているが、ふと、言葉を止めた。
「あー、奥様、さいですねぇ、血の雨を見るのは、今日で最後にしておきましょうか」
三田が、妙な事を口走る。
隣の男爵は、また、なるほど、なるほど、と、頷いている。
「い、いや、ちょっと!これは、見合いの報告でしょう?!月子さんをこちらに頂戴するという報告で!なんです、血の雨とわっ!」
「言ったわよ!三田!」
「はい、あたしも、聞きましたよ奥様!」
「……また、はめたのですか、義姉上《あねうえ》」
むすりとする岩崎の隣で、芳子は、なんのことかしらと、とぼけきっている。
「おやおや、そんなこんなで、皆様、日本橋界隈にやって参りましたけど……やはり、人が多いですねぇ」
三田が、言うように、道には人が溢れかえっていた。
はっきり、車道と歩道が分けられてない道を進んでいるからか、三田は、速度を落とし、どこか、口振りも固くなっている。
「……確か……。月子さん。ここからだと、西条家も、そう遠くはないはずだね?」
男爵に問われた月子は、見慣れた景色に、そうですと答える。
「じゃあ、三田。停めてくれ。ここからは、歩いて行こう。どのみち、家の前までは無理だろう?」
「ええ、おそらく、少々道が狭もうございますからねぇ。無理だと思われますが?」
言いながら、三田は、道端に車を寄せて停車した。
「あ、あの……」
路面電車が走る大通りの様な広さはないが、決して狭いとは言えない道幅だと、月子は、言いかける。
西条の屋敷も、大通りから、路地には入るが、そこも、路地裏の様な道幅ではなく、ちゃんと車が通れる道だ。
しかし、男爵夫婦は、今いる道すらも、狭い狭いと言って、結局、三田が車のドアを開けている。
何か、おかしな感じがしたまま、月子は、三田の手を借りて車を降りる。
続けて降りてきた岩崎が、
「すまんな。三田は、口達者なだけで、まだ、運転に慣れてないのだよ。おおめに見てやってくれないか?」
と、芳子が降りるのを手伝う三田に聞こえないよう、月子へ言った。
なんだかんだと、男爵夫婦は、三田に恥をかかせないよう、気遣いを見せていたのだ。
育ちが良い。
月子は、ふと、思う。
優しい、というよりも、何かしらちゃんとした育ちゆえに、男爵家の人々は、隅々に気を配れるのではないだろうか。
「どうした?車に酔ったか?」
考えこんでいる月子へ岩崎が、心配そうに言った。
「い、いえ、そうではなくて……」
「ああ、そうか。大丈夫だ。君は歩かなくて良い。私が背負っていくから」
長歩きに心配しているのだろうと岩崎は勘違いしたようで、さあ、と、言って月子へ背を向けしゃがみこむ。
そんな岩崎の姿に、チラチラ目をやりながら、人々は、通りすぎるて行く。
「月子さん、先に行ってくれないと私達は道を知らないのだけど?」
往来の邪魔になりかけていると、芳子は、言いたいのだろうと、月子は、はっとした。
道案内をするごとで、月子は、仕方なく、岩崎の背に身を預ける。
月子を背負うと、すっくと岩崎は立ち上がり、
「すまんな、色々、戸惑うことばかりだろう?岩崎の家は、少々変わっているからなぁ。そんな所へ来てもらうのは、酷なのだが……。私も……洒落た話の一つも出来ない。それに、今の様な、上等な着物も用意出来ない。それでも君は来てくれるのかね?」
淡々と言う。
「ああ、すまない。突然。しかし、西条家へ出向く前にはっきりさせておかないと……」
さらに、畳み掛けるよう、岩崎は月子へ言って来た。
「あ、あの……」
つまり、それは、月子を側に置くと言うこと……なのだろう……か。
「……わ、私こそ、学もない人間で……それなのに、あのようなご立派な音楽をお聞かせ頂いて……あんな、大きな楽器を、やすやすと扱う岩崎様に、私が釣り合うかどうか分かりませんが……」
月子は、口ごもりながらも、岩崎の背で、精一杯答えた。