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【現実世界・聖環医療研究センター/第七特別病棟・703号室前】
《703 佐伯 蓮》
プレートの前で、ハレルは一度だけ深く息を吸った。
(戻るチャンスは、一度きり)
ネックレスが、薄く脈を打つ。
胸の奥の鼓動と、ぎりぎり重なっていた。
「……行くぞ」
木崎の小さな声に、ハレルは頷き、ドアノブをそっと回した。
カチリ。
音を飲み込みながら、隙間を開ける。
◆ ◆ ◆
【現実世界・第七特別病棟/703号室】
機械の音が、まず耳に飛び込んできた。
ピッ、ピッ、と一定のリズムで鳴る心電図。
呼吸器の低い駆動音。
消毒液とプラスチックの混じった匂い。
部屋は暗く、ベッド周りだけが小さなライトで照らされている。
その真ん中に、青年が一人。
細い腕に点滴ライン。
鼻にはカニューレ。
髪は短く刈り揃えられ、顔立ちは写真で見たより少し痩せて見えた。
ベッド脇のネームプレートには、はっきりと名前が記されている。
《佐伯 蓮》
「……本人、で間違いないな」
木崎が、声を殺して言う。
ハレルは、喉がひどく乾いているのを自覚しながら頷いた。
「他の二人は?」
「さっき通るときに見た。
向かいが《705 村瀬 七海》、その奥が《707 日下部 奏一》だ」
廊下の窓越しに、一瞬だけ見えたベッドの影。
三人とも、同じように静かに眠っていた。
(……三人分、ここに“器”が揃ってる)
ハレルは、足元のケースをそっと床に置いた。
「順番は、佐伯さんからでいいですか」
木崎は一瞬だけ考え、すぐに頷く。
「機械の数も比較的少ない。
最初の“様子見”には、一番マシだ」
「様子見って言っても、全部やりますけど」
自分でも強がりだと思うくらい、はっきりと言った。
「ここまで来て、一人だけ戻して“また今度”なんて……無理です」
木崎は、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「言うと思った」
短くそう言うと、彼は壁の時計に目をやった。
「巡回まで、あと十分。
――その間に一人目。残りの二人は、“窓”が持つ限り押し込む」
「はい」
ハレルは膝をつき、ケースのロックを外した。
フタを開けた瞬間、室内の空気がかすかに揺れた気がした。
四つの光が、ベッドの方へと一斉に“顔を向ける”。
「……今だな」
木崎が短く呟く。
ハレルは、胸元のネックレスを握り込んだ。
(セラ)
名前を心の中で呼ぶ。
軽くめまいがした。
視界の端に、薄いノイズが滲む。
《――聞こえてる》
少女の声が、頭の奥に届いた。
《病棟の中まで入ったんだね。
境界、さっきより深く揺れてる》
「703号室です。
佐伯蓮さんのベッドのそば」
声に出さずに、心の中で言葉を返す。
ネックレスの熱が、それに伴って強くなる。
《こっちは、オルタ・スパイアの基部まで出てる。
アデルとリオが腕輪、塔の制御はノノ。
“今夜一回きり、三回分のピークを連続で作る”って決めた》
「三人とも、やるんですね」
《うん。
本当は無茶だけど――世界が壊れない程度に、ギリギリまで伸ばす》
少しだけ、セラが笑った気配がした。
《最初の一人が一番“綺麗に”繋がるはず。
そこから先は、どんどん境界が崩れていく。
だから、迷ってる余裕はないよ》
(わかってる)
ハレルは、ケースの中から琥珀色のカプセルを取り出した。
《佐伯 蓮》
ラベルの文字を、指先でなぞる。
ベッドの上では、青年の胸が一定のリズムで上下している。
眠り続けたままの一年分の時間が、その呼吸の中に折り畳まれているようだった。
「……木崎さん」
ハレルが顔を上げる。
「モニター、お願いします。
何かあったら、すぐ遮ってください」
「了解」
木崎はベッド脇に回り、心電図と血圧計の数字を確かめる。
今のところは、安定した波形と数値。
《こっち、準備整った》
セラの声に、別の気配が重なる。
《ノノ。全チャンネルオープン》
《了解。塔の共振層、三段階まで開放。
リオ、アデル――副鍵、臨界一歩手前まで出すよ》
遠くの、でもはっきりした声。
リオとアデルの短い返事が、セラ越しに伝わってくる。
《ハレル》
セラが、静かに呼ぶ。
《これから三つ、ピークを作る。
一回目は佐伯蓮。
二回目、三回目は――状況が許す限り、残りの二人》
「……はい」
《カウントに合わせて。
“触れる瞬間”が、一番大事だから》
ハレルは、カプセルを両手で包み込んだ。
心の中で、一度だけ小さく頭を下げる。
(佐伯さん。
――帰りましょう)
カプセルを、そっと胸元の上へと運ぶ。
パジャマの布越しに、心臓の位置を確かめる。
《行くよ》
セラの声が、空気の温度を変えた。
《3――》
ネックレスが、灼けるように熱くなる。
《2――》
病室の照明が一瞬、わずかに暗くなった。
機械の音が遠のく。
《1》
同時に。
ハレルは、カプセルを佐伯蓮の胸に、そっと押し当てた。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都外縁/オルタ・スパイア基部】
夜の丘が、光で縫われていた。
細い塔《オルタ・スパイア》の根元に、魔術陣が三重に刻まれている。
中心には透明な柱、その左右にアデルとリオ。
左腕輪が白く、右腕輪が淡い青で脈打つ。
「――今だ」
アデルが剣を突き立てる。
〈座標杭〉が塔の基部を貫き、光の筋が空へ伸びた。
リオも右手を掲げる。
「〈同調・第二級〉……
蓮、七海、奏一――“戻る先”を、ここで見ていろ」
ノノの声が、塔の内部から響いた。
《ピーク一つ目、上げる!》
塔全体が、低く唸る。
世界の“厚さ”が、一瞬だけ薄紙になったように感じられた。
◆ ◆ ◆
【現実世界・第七特別病棟/703号室】
カチリ、と何かが噛み合う音がした。
聞こえたのは、ハレルだけかもしれない。
あるいは、病室全体がその瞬間だけ別の“層”にずれたのか。
心電図の波形が、いきなり大きく跳ねた。
「……!」
木崎がモニターに目を凝らす。
脈拍が上がる。血圧もわずかに変動する。
「まだ許容範囲だ。続けろ!」
「はいっ……!」
ハレルは、カプセルから手を離さない。
琥珀色の光が、ガラス越しに“染み込んでいく”ように見えた。
(繋がれ……!)
胸のネックレスが、同じリズムで脈を打つ。
頭の奥で、遠い塔の唸りと腕輪の響きが重なった。
誰かの息が、かすかに触れた。
《……あつ……》
男の声。
乾いた、でも若い声。
《……ここ……どこだ……?》
佐伯蓮の、断片的な意識。
ハレルは、思わず唇を噛んだ。
「――佐伯蓮さん!」
声は、喉から漏れただけで、耳には届かないかもしれない。
だが、指先が確かに動いた。
ベッドの上で、佐伯の指がぴくりと震える。
まぶたが、ゆっくりと揺れた。
機械のアラームが、一瞬だけ警告音を鳴らす。
木崎がすぐに操作し、音量を絞る。
「心拍上昇。
……だが、このパターンは“覚醒”に近い」
彼の言葉と同時に、佐伯の瞳が薄く開いた。
焦点はまだ定まらない。
天井と、点滴スタンドと、マスクの縁が映り込む。
「…………」
唇が、かすかに動いた。
「……っ……」
声にならない。
それでも、それは確かに“今ここ”の音だった。
ハレルは、胸の奥で何かが弾けるのを感じた。
(戻った……!)
ネックレスの熱が、少しだけ和らぐ。
《一人目――リンク成立!》
セラの声が、ほとんど歓声のように響いた。
《佐伯蓮、器とコアの再結合確認!
境界負荷、急激に上昇――!》
同時に、部屋の端がわずかに“ずれた”。
壁紙の模様が、一瞬だけ石造りの壁に重なって見える。
床のタイルの目地が、オルタ・スパイアの基部と同じ紋様を描いた。
「……これが、“座標を無理やり重ねた”反動か」
木崎が、低く呟く。
廊下の遠くで、カートの車輪の音がかすかに響いた。
ナースステーションのどこかで、誰かが「あれ?」と首を傾げるような気配。
時間は、待ってはくれない。
「ハレル」
木崎が、短く呼ぶ。
「佐伯は、もう“こっち側”に戻ってきてる。
あとは医療側のケアに任せるしかない。
――次に行くぞ」
「……はい!」
ハレルは、カプセルをそっと離した。
琥珀色の光は、もうほとんど見えない。
代わりに、佐伯の胸の上下が、さっきよりわずかに力強くなっている。
(一人、戻した。
あと二人――)
廊下の向こう、《705 村瀬 七海》のプレートが、非常灯に浮かんでいる。
ネックレスが、再び熱を帯び始めた。
《二つ目のピーク、準備する!》
ノノの声が、セラ越しに響く。
《世界、もう少しだけ頑張ってもらうよ!》
ハレルはケースを抱え直し、703号室のドアへと振り返った。
この夜が、あと二人分の“帰る道”を許してくれるかどうかは――
ここから先の、一歩一歩にかかっていた。
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