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「お疲れ様」
ことん、とコーヒー入りのカップが置かれる。いつも、十三時には爆睡に入るわたし。そのタイムスケジュールもわかっていての、粋なはからいだ。
会社で飲むアイスコーヒーってなんでこんな美味しいんだろう。疲れたからだに染み渡るのよね。
「ありがとうございます」とわたしがお礼を言えば、広岡課長は微笑み、「お疲れだと思うからゆっくり休んでね」と言ってその場を去っていく。
さり気ない気遣いがありがたい。
お盆明けの月曜日。ただし、お客さんのなかには今日からお盆休みというかたもいらっしゃって。それに合わせてお休みを取る社員も結構おり、ひとは、全体的に少なめだ。
失ったものよりも得たもののほうが多かったと思う。あの逃避行は。
翌朝は朝早くから、途中で海に立ち寄って、足を海水や砂で汚し、自然の豊かさを味わってから、鷹取の実家に帰った。
流石に、才我さんの車は、鷹取の家から離れたところに停めて貰った。
朝帰りをするわたしに誰もが冷たかった。ただいま戻りました、と玄関で挨拶をするとすぐに汐音さんが出てきた。彼女は、怒りの形相で、
「あなたねえ!」と叫んだ。咄嗟に詠史を背後に隠した。守らなければならない、と思った。「いまのいままでどこほっつき歩いてたの! うちに来たのに役割を放棄して出ていくなんて! 本当に最低ねッ!!」
平手打ちでも見舞いかねない剣幕だ。……まぁ、だいたい想像はついたけど。
「まあまあしーちゃんそのくらいにしてやって?」意外にも、庇ってくれたのは、義母だった。ただし相当疲れて見える。「有香子さんだって、……うちに来てこき使われるくらいなら……逃げたい、って思うことだってあるでしょうに。
有香子さん。たまにはお部屋でゆっくり休みなさい。疲れているでしょう」
思いもよらぬ義母の台詞に驚いた。しかし腕組みをした汐音さんは険しい顔で、母さんがあまやかすからこうなるのよ、とぼやく。
「いーい? 有香子さん。
鷹取の嫁として嫁いだからには自分から動く。言われる前にみんなが快適に過ごせるように働くのが嫁の務めでしょう?」
力説する義妹は、果たして、嫁ぎ先でどう動いているのかな、なんて思った。婿養子を貰ったから、嫁いだという感覚はゼロなのかもしれない。
「だからね。有香子さん。あなたのしたことは――」
「いい加減になさい」
いさめたのは義母だった。なんだろう。義母はいつも鷹取サイドの人間でわたしを庇うことなんてなかったのに。わたしが居なかった間になにがあったのだろう。
「しーちゃんはなにもやらないから分かっていないのよ。台所に立つ者がどれほど大変か。……あんたたち、飲むか騒ぐか悪態つくかばかりでちっとも……座ってくっちゃべってばかりで気持ち悪い。まるで豚ね。ブロイラーの鳥だわ」
「ちょっと母さん!! 言っていいことと悪いことがあるわよッ!!」
「あんたも自分の実家だからってなんでもかんでもあまえてないで。すこしは自立なさい。……まったく。
来る度に金をせびって恥ずかしくないのかしら?
それに比べたら黙って台所で働き続けた有香子さんは立派よ。一度くらい、逃げ出したってそれがなによ。十年以上、うちのために尽くしてくれていたのよ。
わたしは、……有香子さんのしたことは間違っていなかったと思うわ。でないと母さん、分からなかったもの……。
いままでごめんなさいね。有香子さん。気が付かないで……」
「お母さんったらアタマおかしくなったんじゃないのッ!?」こうなると、義妹は、面白くないはずだ。この展開は予想外だったが、悪くはない。「こんな……鷹取を裏切った女の味方して。狂ってる!! あたしは絶対許さないからねッ!!」
捨て台詞を吐いて、義妹はどすどすと床を踏み荒らして去っていった。一方、義母といえば、ごめんなさいね、とまた詫びる。
「有香子さんが毎回あんな大変な想いをしているだなんて……知らなかったのよ……申し訳ないわ」
なるほど、わたしが不在だったがために義母が台所仕事諸々をしたというわけか。だからわたしに同情的なわけね。
「いえ」と特に同意も否定もせず、「……すこし、部屋で休ませて頂きますね。失礼します」
「ええ。ごゆっくり」
義母をすこしわたしサイドに寄せられたのは収穫だった。
* * *
女が来た後のシーツは勿論触りたくもない。
無精者の夫が珍しくも、自分からベッドのシーツを洗ったりするのは、つまり、女が寄っていった証拠の隠滅だ。その動きが浮気の証左であり、よりこちらの疑念や不快感を煽るということを知らないのか。
部屋にて、詠史のために布団を敷き、彼を休ませているとおいッ、と声がした。ドアを開いた声の主はストレスで爆発しそうな顔をしていた。メガンテ。
「実家を抜け出して浮気か?」自分のことを棚に上げて夫は、「いいご身分だな。鷹取での自分の立場を分かっているのか? おまえがしたのは裏切り行為だ」
散々ひとを裏切っておいてなにを今更。一度くらい、やり返したってバチは当たらないわよね、神様。
「詠史を休ませているから、不満があるなら後にして」詠史のために、団扇をあおいでやりながらわたしは、夫の顔も見ずに告げた。
すると夫は、ふんっ、と鼻を鳴らして足音をどすどす響かせながら出ていった。やれやれ、流石は兄妹ね。することが同じ。
裏切り行為……ね。
休む我が子の寝顔を見つめ、わたしは思う。
嫁という称号を免罪符にして。朝から晩までこき使うことが正義?
共働きなのに、ご飯も家事も育児も全部わたしがする。稼ぎが少ないのがそんなにも悪いことなのか? そもそも子どもを優先して短時間勤務をしている時点で高収入は望めないではないか。
悔しい。
ここにいるといろんなひとの感情や事情に振り回され、自分という存在が摩耗するのを感じる。知らない間に靴底のように削れていくのだ。
決戦をクリスマスイヴと決めたのは自分。
それまで耐えようと思ったのも自分。……なのだけれども。
それまで持ちこたえられるのか、不安が現出してしまった。周りの言葉に振り回される自分。それまで全然わたしの味方なんかしてくれなかったはずの――ことあるごとに、詠ちゃんは、お兄ちゃんじゃないから分からないよね、と義妹の子どもたちと比較して……一人っ子なんて今どき珍しくないというのに……子どもを望まない夫婦だっている……前近代的な鷹取の価値観を押し付けられ、蹂躙され。理解のあるふりをされる。今更義母に歩み寄られたとて、疎ましいだけだった。
早く、……帰りたい。
二泊三日の予定だったが、詠史を休ませたい気持ちと、後は、わたしが抜け出したことを冷淡に受け止めるひとばかりだったらしい。居間に戻って、もう少ししたら帰ります、と告げても、誰も引き止める者はいなかった。夫は悪態をついていたが。報連相はどうなってんだよ、と不満顔だったら素知らぬふりを貫いた。
* * *
子育てをしていると、いつも、自分が正しいのか、思い悩む。
詠史は習い事をしておらず、マイクラ以外に特に夢中になれるものがなく。特に夏休みはだらだらしがちだ。去年と違って今年は友達があまり遊びに来ることもなく。詠史が涼しい部屋でのんびり、なにをするわけでもなく、ゆったりしているのを目の当たりにすると。これでいいのかなと考え込んでしまう。
わたしが小学生のときは、なにも勉強しなくても学校の勉強についていけた。……が、時代は変わったのだ。習い事、塾に通わせる親は珍しくはない。
四年生になると、夏休みには、するかしないかは自由の宿題がたくさんあって。友達曰く、それは、私立の中学受験を控える子たちが、学校の宿題なんかやってやれない事情があるゆえ。五〜六年生ともなると宿題を出すと嫌がられるらしい。
子どもの事情に疎いわたしはそんなことを全然知らなかった。大学時代に出来た友人に聞いてやっと……だった。
親ガチャというらしいけれど。詠史は本当に、わたしの子に生まれて幸せなのかな……と考えてしまう。
あんな夫がいて。はっきりしない状況でぐずぐずしていて。蛇の生殺し状態で。
それでも、真由佳たちは言ってくれていたのだ。有香子ちゃんは頑張っている。親として偉いよ、と。
でも。彼女たちは、わたしの事情のすべてを知っているわけではないし……。義理両親の宅を抜け出したと聞いたら、どんな顔をするだろう。
それでもわたしは自分の決めたこの道を突き進む。葛藤し、もがきながらも。なにが本当の正義なのか、悩みながらも。
* * *
九月に入り、詠史の夏休みが終わって小学校に戻り。日常が落ち着きを見せたはずの頃だった。その女性が現れたのは。
「鷹取くん。ぼくも帰るよ」
下りのエレベーターに乗っていると才我さんがやってきた。他にも乗り込む人はいるが。彼は、わたしの隣を選んだ。
おろした手に伝わる感触。
反射的に彼の顔を見た。涼しい顔をして……まったく……。
小指と小指をこっそり絡ませるわたしたちは、あまつまたるい秘密を共有していた。
特に言葉も交わさず、会社の入っているビルを出たときだった。
「才我さん。……会いたかった……!!」
才我さんの姿を認めるなり、抱きついてきた女性がおり、わたしはぎょっとした。
*