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ゆうき あきや
1,642
厚揚げ衣
20
なんたろ
1
いちご@ホロオタ×ぴちりす
295
第64話:スタプロ本社と、場違いな男〜港区のキラキラ大企業と、狂う自律神経〜
静かな音を立てて開いた自動ドアの向こう側は、完全に『異世界』だった。
一歩足を踏み入れた瞬間、肌を撫でる完璧な温度の空調。
そして、どこからともなく漂ってくる、高級ホテルのような柑橘系の上品なアロマの香り。
床は大理石でピカピカに磨き上げられ、壁には巨大なモニターがいくつも埋め込まれ、スタプロに所属するトップVTuberたちの華やかなPVが無限ループで流されている。
「……すげえ。これが、ミリオンVTuberたちの巣窟……」
俺は、ドン・キホーテで買った三千円の黒いキャリーケースを固く握りしめたまま、その場で完全に石化していた。
ここは、港区の一等地にある超高層ビル。そのワンフロアを丸ごと貸し切っている『株式会社スターダスト・プロダクション』の東京本社エントランスだ。
俺の服装は、首元がヨレたグレーのパーカーに、膝の抜けたジーンズ。そして、帯広のイオンで買った歩きやすいスニーカー。
控えめに言って、不審者である。
「あ、あの……お客様? いかがなさいましたか?」
大理石の受付カウンターから、モデルのように美しい、ピシッとした制服姿の女性社員が声をかけてきた。
「ひっ!?」
俺はビクッと肩を震わせた。
ヤバい。完全に怪しまれている。「ここは便所を借りる場所じゃありませんよ」と塩を撒かれるかもしれない。
「あ、あのっ……! ほ、本日、そ、3Dの、その、収録で、お呼ばれしまして……っ」
俺がしどろもどろになりながら答えると、受付の女性はにこやかな、しかし営業スマイルを崩さずに首を傾げた。
「さようでございますか。では、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「お名前……」
俺の背中に、滝のような冷や汗が流れた。
VTuberという職業の、現実世界(リアル)における最大の試練。
それは、一般の、しかもこんな美人の前で、自らの『痛すぎる中二病ネーム』を口にしなければならないという、公開処刑である。
「あ、えっと……。る、るし……」
「ルシ?」
「ルシフェル、です……。堕天使の、ルシフェル……」
消え入りそうな声で俺が告げると、受付の女性は一瞬だけ「えっ?」という顔をした。
無理もない。四十歳でパーカーを着た薄汚れたおっさんが「俺は堕天使ルシフェルだ」と名乗っているのだ。完全に頭のおかしい人である。
だが、彼女はさすが大企業の受付だった。すぐにプロの笑顔を取り戻し、手元のタブレットを操作した。
「確認いたしました! 個人VTuberのルシフェル様ですね! お待ちしておりました!」
その声がエントランスに響いた瞬間。
奥のセキュリティゲートから、「ルシフェル様!? どちらですか!!」と、やたらとテンションの高い男の声が響き渡った。
現れたのは、仕立ての良さそうなネイビージャケットに、流行りのテーパードパンツ、そしてつま先の尖った革靴を履いた、いかにも『港区のギョーカイ人』といった風貌の三十代半ばの男だった。
「おおおお! ルシフェル様! はじめまして! 私、スタプロで企画運営統括をしております、プロデューサーの神崎(かんざき)と申します!」
男は俺の元に小走りで駆け寄ると、俺のヨレヨレのパーカーなど一切気にする素振りも見せず、両手で俺の右手をガシッと握りしめた。
「いつもアリスやカノンがお世話になっております! いやぁ、まさかあのルシフェル様が、直々に弊社のスタジオまで足を運んでくださるとは! 社員一同、大興奮ですよ!」
「あ、いや……どうも。ルシフェルです……」
俺は、神崎の手から伝わってくる『成功者(資本主義)の熱量』に圧倒され、引き攣った愛想笑いを浮かべることしかできなかった。
「ささっ! 立ち話もなんですから、どうぞ中へ! 本日は弊社の最高峰の3Dスタジオを、ルシフェル様のために一日丸ごと貸し切っております!」
神崎に案内され、IDカードがなければ通れないガラスのゲートを抜ける。
その先には、広大なオフィススペースが広がっていた。
ガラス張りの会議室では、横文字の羅列が書かれたホワイトボードを囲んで、MacBookを開いた若手社員たちが白熱した議論を交わしている。
すれ違うスタッフたちは、みんなカフェの店員かアパレル店員のようにオシャレで、そして生き生きと輝いていた。
「……ッ」
その光景を目にした瞬間。
俺の脳内で、何かがショートするような感覚があった。
『眩しい』。
帯広の四畳半のボロアパートで、賞味期限ギリギリの限界みそラーメンをすすり、ケースワーカーの鈴木さんに怯えながら、たった一人で暗いモニターに向かって喚き散らしている俺の日常。
それとは対極にある、この明るく、活気に満ち、若さと才能と『金』が渦巻く、巨大なエンターテインメントの心臓部。
「うっ……」
胃の奥底が、ギュルルッと不快な音を立てて捻れた。
自律神経が、この圧倒的な『場違い感』に耐えきれず、完全に狂い始めているのだ。
「ルシフェル様? どうかされましたか? 顔色が悪いようですが……」
エレベーターに乗り込んだ神崎が、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「あ、いえ……なんでもないです。ちょっと、都会の空気に……酔ったみたいで」
「ああ、北海道からいらっしゃったんですもんね! 東京は人が多いですから。でもご安心ください、今日はルシフェル様の3D化のために、弊社も採算度外視で最高の環境をご用意しておりますので!」
神崎は爽やかに笑いながら、エレベーターの『35階』のボタンを押した。
「採算、度外視……」
俺は、その言葉にピクリと反応した。
「あ、あの。神崎さん。今回の3D化費用、俺の自己負担分が二百五十万ってことになってますけど……」
「はい! ご入金、確かに確認いたしました! 早急なご対応、本当にありがとうございます!」
「……残りの半分の二百五十万は、スタプロさんが負担してくれてるんですよね?」
俺が恐る恐る尋ねると、神崎は「あはは!」と豪快に笑った。
「ルシフェル様、ご冗談を。今回の3Dモデル、ただのモデルじゃありませんよ? 弊社のトップモデラーが数人がかりで一ヶ月徹夜して組み上げた、超高解像度の特注品です。さらにこの港区のスタジオの貸切費用、機材のオペレーター数名の人件費……」
神崎は、人差し指をスッと立てて、満面の笑みで告げた。
「総額で言えば、一千万は軽く超えてますよ! つまり、弊社が八百万近くを被っている大赤字プロジェクトです!」
「いっ、せん、まん……ッ!?」
俺の口から、ヒキガエルが潰れたような声が漏れた。
一千万。
俺がボイスを売りまくってようやく到達し、そして消費税の『課税事業者』という地獄の切符を手にする羽目になった、あの忌まわしき壁の数字。
それを、この会社は、たった一回の俺のコラボ企画のために、ポンと経費で溶かしているというのか。
「なんで……なんで俺みたいな底辺個人勢に、そこまで……?」
「ルシフェル様には、それだけの『数字(価値)』があるからです。アリスとのコラボ、そして今日の3Dお披露目で発生する莫大なスパチャと、グッズの売上。それらを計算すれば、数千万の利益が見込めます。一千万の投資なんて、安いもんですよ」
エレベーターの扉が開き、神崎が「さあ、どうぞ」と手を差し出した。
そこには、資本主義のバケモノがいた。
ただのエンタメじゃない。血も涙もない、徹底的な数字と利益の計算。
「あ、ああ……。俺、とんでもない魔王の城に足を踏み入れちまったんだな……」
俺はフラフラとエレベーターを降りた。
案内されたのは、『VIP専用控室』と書かれた、ホテルのスイートルームのような豪華な部屋だった。
革張りのソファ、巨大なモニター。
そしてテーブルの上には、見たこともないような高級そうなフルーツの盛り合わせと、シャレた瓶に入ったミネラルウォーターが並べられている。
「うぉぉ……。この水、一本五百円はするぞ……。持って帰ってメルカリで売れねえかな……」
四十歳の貧乏性が発動し、俺がコソコソと瓶をキャリーケースにねじ込もうとしていると、ガチャリとドアが開いた。
「ルシフェル様! お待たせいたしました! 本日の収録でお使いいただく『衣装』をお持ちしました!」
神崎が、若手のスタッフを数人引き連れて、恭しく入ってきた。
「い、衣装!? まさか、ルシフェルのあの真っ白な軍服みたいなやつを、わざわざ作ってくれたんですか!?」
俺が目を輝かせたのも束の間。
スタッフが恭しくハンガーラックにかけて持ってきたのは、軍服でもなんでもなかった。
それは。
無数の白いピンポン玉のようなセンサーがびっしりと縫い付けられた。
真っ黒で、ピチピチの。
『全身タイツ(モーションキャプチャースーツ)』だった。
「さあ! 本番まであと一時間です! すぐにお着替えを!!」
神崎の眩しすぎる笑顔と、目の前に突きつけられた黒い全身タイツ。
「……え? 俺、これ着るの? この、キラキラした港区のビルの中で……俺のこの、たるんだ四十歳の腹を……これにねじ込むの?」
圧倒的な都会のプレッシャーに狂いかけていた俺の自律神経は、この『究極の羞恥プレイ』の宣告により、ついに完全に崩壊の音を立てるのであった。
コメント
1件
わあ、もうこの場違い感がすごくて……! ドンキのキャリーケースと膝抜けジーンズで「堕天使ルシフェルです」って名乗らされるシーン、笑いと切なさが同時に来ました。受付の方が一瞬「えっ」ってなるのも、プロの切り替えが早いのもリアル。最後の全身タイツ宣告で「俺のたるんだ腹を……」って絶望するところ、もう感情移入しすぎて胸が苦しいです。ゆうきあきやさんの描く「場違いな人間の心の震え」、本当に巧みだなあ……。