テラーノベル
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その朝は、異様なほど静かだった。
いつもなら、隣の布団のぬくもりや、小さな寝息があるはずなのに――
すちが目を覚ました瞬間、腕の中は空っぽだった。
「……みこと?」
返事はない。
トイレ、キッチン、リビング。
どこを探しても、みことの姿はなかった。
玄関。
靴が一足、消えている。
血の気が、一気に引いた。
「……嘘だろ……」
スマホを掴み、震える指で名前を呼ぶ。
――繋がらない。
外に飛び出し、近所を走り回る。
公園、コンビニ、駅の方向。
声が枯れるほど名前を呼んでも、返ってくるのは冷たい風だけだった。
「みこと……っ」
「どこ行ったんだよ……!」
胸の奥が、壊れそうなほど締めつけられる。
“目を離した自分”
“鍵をかけ忘れた自分”
“疲れて眠り込んだ自分”
後悔が、刃物みたいに突き刺さる。
膝が震え、道路脇にしゃがみ込む。
視界が滲んで、涙が止まらなかった。
「……俺のせいだ……」
「俺が……守れなかった……」
声にならない嗚咽が、喉を塞ぐ。
通り過ぎる人の足音も、車の音も、すちの耳には遠く聞こえた。
ただ、みことのいない世界だけが、現実として重くのしかかってくる。
どれくらい泣いたのか、わからない。
喉が痛くて、目が腫れて、身体の力が抜けきった頃、すちはふらふらと家に戻った。
玄関の扉を閉めた瞬間、また胸が締めつけられる。
「……みこと……」
返事は、ない。
そのまま床に座り込み、顔を覆った。
涙はもう枯れたはずなのに、まだ溢れてくる。
――そのとき。
ふと、視界の端に、見慣れたノートが映った。
テーブルの上に置かれた、みことの日記。
「……日記……?」
無意識に、手が伸びる。
ページをめくるたびに、胸が締めつけられた。
震える文字。
拙くなっていく文章。
それでも、何度も何度も書かれている言葉。
『すちが大好き』
『すちの声が安心する』
『忘れたくない』
『忘れるのがこわい』
そして、ページの後半には、葛藤の跡が滲んでいた。
『今日は名前が出てこなかった』
『また思い出せなかった』
『すちに迷惑かけてる』
『それでも一緒にいたい』
文字が歪み、ところどころ、涙の跡でにじんでいる。
すちは、息を詰めた。
「……こんなこと……ずっと……」
ページをめくる指が、震える。
――最後のページ。
日付は、“今日”。
そこには、今までよりも、さらに滲んだ文字があった。
『いままでありがとう』
『すちのことが大好きだよ』
『忘れないで』
インクは涙で流れ、紙は波打つほど濡れていた。
何度も、何度も、書き直した痕跡。
まるで、覚悟を刻みつけるみたいに。
すちは、その文字を見た瞬間、息ができなくなった。
「……みこと……?」
胸の奥が、ぎゅっと潰れる。
『忘れないで』
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
「……忘れるわけないだろ……」
「……忘れるわけ……ないだろ……っ」
ノートを抱きしめた瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出した。
声を押し殺すこともできず、床に崩れ落ちる。
「……なんで……」
「なんで、一人で決めたんだよ……」
「……置いていくなよ……みこと……」
日記のページに、すちの涙が落ちる。
みことの涙と重なって、さらに文字が滲んでいく。
――まるで、二人の想いが、混ざり合うみたいに。
「……絶対……見つける……」
「……どこにいても……迎えに行く……」
震える声で、すちはそう誓った。
たとえ、もう名前を呼ばれなくなっても。
たとえ、顔を忘れられていても。
それでも――
“一緒にいる”という約束だけは、絶対に手放したくなかった。
コメント
1件
記憶が薄れていっても絶対また再開してほしい