翌日の昼下がり
中庭はやわらかな陽光に包まれていた。
薄雲がゆっくりと空を横切り
風が草花の匂いを運んでくる。
その風の中に混じるのは
子供たちの笑い声。
遊具などはまだ少ない石敷きの広場と
細長い植え込みだけの簡素な庭だったが
それでも彼らにとっては
充分な遊び場となっていた。
「せーの、いっけーっ!」
「うわっ、ボールとんだー!」
バケツをひっくり返したような笑顔たちが
無防備な喜びを全身で表現している。
風に揺れる制服の裾
転んで擦りむいた膝
小さな靴音。
そのひとつひとつが
この場所が〝日常〟になり始めたことを
物語っていた。
その光景を
建物の縁に設えられた木製ベンチから
見守っているのは
黒衣の青年──ライエルだった。
手元には、分厚い革表紙の帳面。
膝の上に開かれたままのページには
丁寧な字で
いくつかの項目が書き連ねられている。
「食料支援」
「冬季衣料」
「地域住民との接点」
「貧困層の識別方法」
そして
大きく下線が引かれた言葉があった。
『炊き出し』
「⋯⋯まずは食から、か」
独り言のように呟きながら
視線は自然と中庭へ戻る。
空きっ腹では、走れない。
笑えない。
人を信じる余裕すらなくなる。
子供たちの笑顔は
ただ与えられた環境の産物ではない。
〝満たされている〟という実感が
安心をもたらしているのだ。
(大人にも──
そういう場所を、作らなければ)
ライエルは帳面に指を添え
思考を巡らせる。
ノーブル・ウィルが
〝孤児院〟として動き出したことは
すでに街の福祉課や
警察関係者の耳には届いている。
それに乗じて
地域住民へ向けた炊き出しを実施すれば
〝慈善団体〟としての印象が
街に根付きやすくなる。
──だが、食材はどうする。
人手は。
場所の確保は。
安全管理は。
「⋯⋯子供たちには見せない裏の手間、か」
ページをめくり
裏に必要資材の一覧を書き出す。
古米、根菜、缶詰。
大量に作れるスープ系メニュー。
アレルギーへの配慮。
万が一のトラブル時に備えた
薬品や連絡体制──
全ての項目をひとつひとつ
現実の問題として見据える。
理想ではなく、実行の段階へ。
「まずは試験的に、休日の昼に一度⋯⋯
対象は、ホームレスと生活困窮者」
手帳の隅に小さく
「第一回:40食分」と書き込む。
その数字が、たったの40でしかないことに
どこか痛みも感じていた。
けれど今のノーブル・ウィルには
それが限界に近い。
だが──始めなければ、何も広がらない。
「今のうちにスタッフを割り振って⋯⋯」
思考を中断させたのは、小さな声だった。
「ライエルせんせー!」
手帳から顔を上げると
数人の子供が手を振りながら走ってくる。
一人が抱えたバケツには
水が半分ほど溜まっており
どうやら庭に咲きかけた花に
水をやるつもりらしい。
「このお花、きのうより、さいたよ!」
「そうですか。
それは⋯⋯きっと君たちが
優しくしてくれたからですね」
ライエルは優しく笑い
しゃがんで花を覗き込む。
濃い緑の葉の隙間に、紫の小さな蕾が
確かにひとつ、綻んでいた。
「大人もね、優しさがあると
こんな風に⋯⋯少しずつ、咲くんですよ」
ぽかんとした顔で見上げてくる子供たちに
それでもライエルは微笑みを深めた。
この場所から始める。
この子たちの笑顔が
他者にも波及していくように。
──炊き出し。
それは、温かいスープを通じて
心を開かせる〝入口〟だ。
やがて、風がまた吹いた。
陽の光が雲間から差し込み
中庭にいる全員の影を伸ばす。
ライエルは立ち上がり、帳面を閉じる。
「さて⋯⋯
そろそろ、本当に動き出しましょうか」
それは、静かな決意だった。
冷たい現実の中に
小さな〝熱〟を灯すための、第一歩。
彼の眼差しは、既に孤児院の外──
この街全体へと向けられていた。
⸻
かつては
骨董市の喧騒で賑わっていた広場だった。
今では地面にひびの入った石畳の隙間から
草がのぞくほどに荒れ
風に煽られて吹き溜まる落ち葉や紙屑が
寂れた時の流れを物語っていた。
──それでも、今日だけは違っていた。
手作りの横断幕が
少しだけ斜めに張られている。
「ノーブル・ウィル 炊き出し無料配布会」
と書かれたそれは
子供の筆跡で彩られており
赤や青の絵の具がにじんでいた。
場の隅では、大きな寸胴鍋に火が入り
湯気がほかほかと立ち上る。
スープは
提携したレストランや喫茶桜で得た
廃棄予定だった野菜や食材を活用したもの。
味付けは控えめだが
心が温まるような香りが辺りに広がる。
「おいしいよー!」
「おかわり、あります!」
孤児院から連れてこられた子供たちは
炊き出しの手伝いをしながら
笑顔を浮かべ
時には緊張気味に
湯気のたった紙皿やパンを差し出している。
ライエルはテーブルの端で
書類と照らし合わせながら
並ぶ人々の応対をしていた。
彼の表情は穏やかだったが
内心では緊張の糸が張り詰めている。
──これは試験的なものだ。
予算も、人手も、規模も限られている。
だが、それでも
今日ここに集まった人間の顔を前に
彼は確信していた。
「⋯⋯誰かの居場所になれるなら、十分だ」
彼の横では
スタッフたちが支援物資の配布を
手際よく進めていた。
そんな中
一人の小さな影が列の最後尾に現れた。
ひどく汚れた服。
顔には古傷の痕。
痩せ細った身体に
不釣り合いなほど大きな目をした少年──
否、〝子供〟だった。
年齢すら判別しがたいほど痩せこけている。
スタッフの一人が躊躇いがちに
彼に声をかけようとしたその瞬間
ライエルが静かに前へ出た。
「ようこそ。
君の分も、ちゃんと用意してあるよ」
一言だけ、優しく。
子供は警戒しながらも、ゆっくりと近付き
震える手で皿を受け取る。
そのとき、ほんの少しだけ──
涙が、目尻に滲んだ。
ライエルは
背後で頷くシスターに目配せしながら
すでに手続きを進めるための書類を
手にしていた。
この子を保護し
孤児院へと迎え入れる準備が始まる。
けれど──
それを、じっと見ている者たちがいた。
広場から少し離れた建物の陰。
煙草を吸う男たちの視線は
料理にも配布物にも向けられていない。
彼らの目に映っていたのは
〝資源〟だった。
ボロを纏いながらも健康そうな肌。
骨格のバランス
臓器の収量
転売時の利幅
彼らの頭の中では
すでに〝査定〟が始まっていた。
「⋯⋯目障りだな」
短く吐き捨てたその声は
通行人に聞こえないほど低く
だがその背後には──
確かな〝組織〟の気配があった。
人身売買。
臓器売買。
売春斡旋。
子供たちは〝命〟ではない。
〝部品〟であり〝商材〟だ。
路地裏から始まり
地下に広がる輸送網へと流される。
保護される前の〝野良〟は
言ってみれば〝未契約の在庫〟
自由であるということは
価格が未定であるということ。
──そして
ライエルの炊き出しは
その未契約在庫たちを〝奪っていく〟
利益の損失。
供給の減少。
人員流通の妨害。
「ちょっと、手を打つか⋯⋯」
誰かがぼそりと呟いた時
上空で一羽の烏が羽音もなく旋回した。
烏は舞い降りることなく
ただ一本の木の枝に留まり
漆黒の瞳を動かして
すべてを〝記録〟していた。
その視界の奥。
黒衣の神父服を身にまとった青年──
ライエルの中で
精神の鏡に揺れる〝もう一人〟の男が
無言で笑った。
(⋯⋯目障りだろうねぇ?
あの子たちは
〝資源〟でしかなかったんだから)
アラインは、知っていた。
ただ知っているだけではない。
かつて自らが、その〝構造〟の一部であり
その上流で計画を回していたことすらある。
〝需要〟と〝供給〟
〝失われた者〟と〝見捨てられる者〟
彼はそれを用い、利用し、時には壊した。
今──
その利権が、ライエルの手で
少しずつ蝕まれていく。
それを知って
アラインは鏡の奥で冷笑を浮かべていた。
(⋯⋯でも、壊させはしない。
これは〝ボクの舞台〟だもの)
ライエルにとっては、ただの〝救い〟
だがアラインにとっては
神と天使を舞台に引きずり出し
その清らかな理想をひとつずつ試す
見世物劇と処刑台でもあった。
偽善か、理想か。
救済か、独善か。
舞台は、整い始めたばかりだ。
その中心で
ライエルは子供たちとスープを注ぎ続ける。
純粋な慈愛を込めて──
それがいずれ
誰かの憎しみを呼ぶとも知らずに。
枝の上の烏が、静かに鳴いた。
その声は、遠く喫茶桜へ
時也のもとへ、届くことになるだろう。
善と悪の境界線は
まだ誰にも見えていなかった。
だが、この日。
ノーブル・ウィルは
初めて〝闇に牙を剥かれた〟のだった。