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朝七時。
尖塔の天窓から差し込む光が
礼拝堂奥の宿直室にふわりと舞い降りる頃
ライエルは静かに目を覚ました。
ぬるりとした精神の境界線をなぞるように
睫毛が震え
しばし天井を見上げる時間が続く。
本来であれば
もう少し早く目覚めていたい──
施設を担う者として
子供たちの生活の
一歩先を歩みたいという思いが彼にはある。
だが、同時に
〝もう一人〟の存在がこの肉体に宿る以上
それは無理が生じる。
──交代があるのだから。
それならば、スタッフたちを信頼し
朝七時を〝始まり〟と定めるのが
最良の選択だった。
「⋯⋯ん」
軽く身体を起こすと
すでに待機していたメイドが
そっと礼をして近付いてくる。
彼の神父服一式は、前夜のうちに整えられ
椅子の背にかけられていた。
布地は皺一つなく
くるみボタンには淡く艶が灯っている。
「おはようございます、ライエル様。
お着替えを」
「ええ。お願いします」
メイドの手によって丁寧に寝間着を脱がされ
白い肌が朝の冷気に触れる。
ライエルは特に何も言わず
その作業を受け入れ
静かに目を閉じていた。
腕を通す、背筋を伸ばす、襟を立てる──
一つひとつの動作が
彼を〝施設の長〟へと作り替えていく。
神父服の背中にある特殊な構造に
触れることは、彼自身なかった。
ただ、メイドがウエストに
何かを差し込む感触を
漠然と〝姿勢矯正の帯〟として認識している
それがどれほど巧妙な仕掛けであろうと
彼に疑念はない。
それは〝用意されたもの〟であり
彼はまだ〝知る必要のないもの〟だった。
支度を終えたライエルは
八時前には朝の祈りへと向かう。
礼拝堂で子供たちと共に椅子を並べ
短く祈りを捧げたあと
各所を巡回し、厨房に顔を出し
体調不良者の有無を確認する。
午前中は
福祉課との書類確認や、支援団体との面談。
昼食の前には中庭に姿を見せ
食後には孤児の一人ひとりと
小さな対話を交わす。
その日も、特別なことはなかった。
だが、彼にとってはその
〝特別でない〟日々こそが
守るべき日常だった。
そして──夕刻。
影が長く伸び
礼拝堂のステンドグラスが
赤みを帯びた光を落とす頃。
十七時、交代の時間が訪れる。
「⋯⋯お願いします」
静かに一礼するライエル。
後ろには既に二名のメイドが控え
彼を着席させると
神父服を一枚ずつ脱がせていく。
くるみボタンを外す音だけが
部屋に落ちる。
やがて、肌着だけとなった彼の姿に
深い黒のシャツが通され
タイトなベストが背を包む。
「アライン様、お着替え完了いたしました」
その声と同時に、彼の目がふと変わる。
眉の動き、肩の傾き
そして、僅かに口角を吊り上げたその表情。
それは、確かに〝ライエル〟ではない。
「ふふ⋯⋯
随分、丁寧に仕立ててくれるんだね
ボクのメイドたちは」
「当然でございます、アライン様」
応じるメイドの声も
どこか張り詰めていた。
ここからは
昼の清廉さとはまるで異なる
〝夜の支配者〟の時間だった。
──十九時、BAR Schwarz
暗い帳が街に降り
ネオンがちらつき始めた頃
アラインはSchwarzのカウンターに立つ。
シャツの袖を捲り上げ
磨き上げたグラスを一つひとつ
淡々と拭き上げながら
客の入りと目配せの順を見定める。
「いつものだ」
「ふふ、今夜は随分と荒れてるようだね?
何かあった?」
客と交わす言葉のひとつひとつが
情報の網となって張り巡らされる。
指先は酒を注ぎながらも
耳は常に四方八方に開かれていた。
客層は多種多様。
元締めらしき男
大学教授
若手の警察官
地元の貧しい芸術家──
一見
無関係に見えるそれぞれの言葉の端々から
情報の〝糸〟を抜き取っていく。
二十三時を回れば
VIPルームにて取引が始まることもある。
必要とあらば
記憶の一部を抜き取ることも。
言葉にせずとも
視線ひとつで
客の脈拍や呼吸の乱れを読み取り
〝全て委ねさせる〟術を
アラインは心得ていた。
そして、日付が変わる頃。
Schwarzの灯がようやく落ちる。
スタッフたちは
店内を清めるように片付けを始め
アラインは、バックスペースへと姿を消す。
「お疲れ様でございました」
迎えたのは、数名のメイド。
彼女たちは無言のまま
アラインのベストを脱がせ
ネクタイを外し
シャツのボタンをひとつずつ外していく。
そのまま、浴室へ。
水音が響き
香り高い蒸気が空間を包み込む。
床に膝をついたメイドたちが
酒や夜の気配に充たされていた
アラインの身体を丁寧に洗っていく。
首筋から肩、胸元、腹部、腕、背。
どこかの手が止まれば
別の手がそっと重なり
動きは一瞬たりとも乱れない。
だが、もっとも時間をかけていたのは──
髪だった。
長く艶やかな黒髪を櫛で梳かし
洗髪後は丁寧に湯でほぐし
根元まで薬草のオイルを染み込ませていく。
その間、アラインは一言も発さず
瞳を伏せて思考を巡らせていた。
子供たちの保護枠。
炊き出しに絡む妨害の兆候。
〝表〟の慈善活動と〝裏〟の利権への介入。
そして──
〝ライエル〟の清廉さが及ぼす破壊。
(さて⋯⋯次は、どこを崩す?)
唇がわずかに歪む。
だがその表情には、快楽も怒りもない。
ただ
冷たい水面のような静けさが漂っていた。
全ての洗身が終わり
髪を乾かし終える頃には
時計の針が二時を回っていた。
孤児院への迎えの車に乗り込み
ベッドへ導かれ
香りのついたシーツに身を横たえる。
目を閉じる瞬間
アラインはようやく息を吐いた。
「⋯⋯明日も、愉しませてくれるといいな」
深夜──三時。
そのまま
意識は深い眠りの底へと沈んでいった。
静けさだけが残された部屋で
灯りが最後にひとつ、ふっと消えた。