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久しぶりに萌夏とけんかをした。
たまたま目にしたSNSの写真に萌夏が男と映っていて、頭にきて叱ってしまった。
ちょうど一年前、逆恨みから事件に巻き込まれ大けがを負った萌夏。
その一因は俺にもある。と言うか、俺の側にいたから萌夏は傷つけられてしまった。
全ては俺が悪いんだ。
だから、どんなことをしても萌夏を守ると決心した。
もう二度と萌夏が傷つく姿を見たくはない。
「おはようございます。本日の予定です」
いつものように、礼がスケジュールを読み上げる。
俺の専務就任とともに、専属秘書として秘書課に移った礼。
それまで俺の秘書をしていた坂田雪丸は営業部に残り、今は課長として腕をふるっている。
「顔色が優れないようですが?」
大丈夫なのかと礼が見つめる。
営業にいたころはほぼため口で遠慮なく何でも言っていた礼だが、秘書になってからはなれなれしい態度をとることはなくなった。
「普段から気を付けないといつぼろが出るかわからないから」と敬語を使うようになり、役職で呼ぶようにもなった。
「少し疲れがたまっているだけだ。心配ない」
「本当に?」
「ああ」
きっと礼の前で取り繕っても、すぐにばれるとは思う。
それでも、自分から弱音を吐く気にはなれない。
この意地っ張りな性格をめんどくさいと自分でも思っているが、どうすることもできない。
「コーヒーをお持ちしますね」
「ああ、頼む」
***
「ん、これは?」
コーヒーとともに出された小さな小皿。
そこには一口サイズの洋菓子が盛られている。
「朝食がとれていないと伺いましたので、よかったら少しでもおなかに入れてください」
そういうことか。
きっと母さんが礼に連絡したんだろう。
萌夏とけんかをしたせいで母さんともあまり会話をしないまま家を出た。
色々と気遣ってくれる母さんに今朝は酷いことを言ってしまって、謝りたい気持ちもありながら何も言えなかった。
本当に俺は何をしているんだ。
「お昼は取引先と会食の予定になっていますが、大丈夫ですか?」
あまり食欲のない俺を礼が気遣ってくれる。
「大丈夫だ」
どんなにつらくても仕事はこなす。
人から見れば恵まれた環境にいるんだ、少しくらい無理をしなければ罰が当たる。
金にもやりがいのある仕事にも不自由しない家に生まれたからには背負っていくものがあって、その責任だけは何としても果たすんだ。
「いつもの料亭を予定していますので、さっぱり目のメニューをリクエストしておきますね」
さすが礼、付き合いが長い分俺のことがよく分かっている。
「悪いな、助かる」
正直なところ今食べたいのは萌夏の作るみそ汁。
卵をポトンと落として半熟になったところを炊きたてのご飯とともに食べたい。
って、無理だよな。今朝喧嘩をしたばかりだものな。
***
「本日の来客は以上です。この後社長との打ち合わせがあります」
「ああ」
夕方6時。
何とか定時前に一日のスケジュールを終わらせた。
もちろんこの後には打ち合わせや事務処理があってすぐに帰れるわけではないが、気の張る仕事は終えられた。
「お茶を入れましょうか?」
一息つきたい俺の気持ちを汲み取ってくれる礼。
しかし、
「お茶なら誰かに頼むから、もう帰っていいぞ」
この春、礼の一人息子である大地は小学3年生になった。
最近では一人で留守番もできるようになったと聞くが、母親がそばにいたに越したことはない。
礼だって、早く帰りたいに決まっている。
「最近残業が続いているじゃないか、今日は早く帰ってやれよ」
十代で妊娠した礼。
当時友人として付き合っていた俺も随分驚いた。
もちろん、礼自身も迷ったはずだ。
そして、悩んだ末にシングルマザーとなることを決めた。
それからすぐ母さんが家に礼を連れてきて、大地の出産から1才の誕生日までを我が家で過ごすことになった。
世話好きの母さんのことだからその行動を不思議には思わなかったが、礼のおなかが大きくなり、大地が生まれ、一人で歩くようになるのを目の当たりにして不思議な気分になったのを覚えている。
「お茶を入れてまいります」
帰れと言っているのに、礼は専務室を出て行ってしまった。
***
どうしたものだか、俺の周りには言うことを聞かない女が多すぎる。
礼は意地を張って一人で子育てをして周りの手を借りようとしないし、萌夏はこれでもかってくらい母さんや父さんを気にして俺と2人の時間なんて持てたものじゃない。
寝室だって一緒でいいというのに、遠慮しやがって、
「社長の手が空いたそうで、もうすぐみえます」
「わかった」
だからと言っておとなしくて自分の意見を持たない人が好きなわけではない。
礼のようにしっかりと自分の信念を持つ女性をかっこいいとも思うし、自分の行動に責任を持とうとする姿を潔いと尊敬したりもする。
萌夏だっていやな顔一つ見せずに、我が家での生活を楽しんでいるように見える。
だけど、もう少し器用に生きられないものかなあ。
「私は隣に控えておりますので」
「ああ」
いくら帰れと言っても無駄な礼にしつこく言うのはやめた。
大地は素直に育っているようだし、礼自身も幸せそうだ。今はそれで十分な気がする。
***
「悪いな時間外に」
ノックもなく入ってきてソファーに腰を下ろした社長。
「コーヒーをお持ちしましょうか?」
ドアから顔をのぞかせて礼が声をかける。
「いいよ。この後会食なんだ。それより川田さん帰らなくていいのか?」
「ええ、大丈夫です」
少しだけバツの悪そうな礼がドアの向こうに消えていった。
社長も他の取り締まり役たちも礼の事情は知っている。
礼からすれば放っておいて欲しいのかもしれないが、周りのおじさんたちは気になって仕方がないらしい。
それに、社長がわざわざ口にするのは単に礼の事情を知っているからだけではない。
我が子のように育てた空と今でも時々会っている社長は、あいつからいろんな話を吹き込まれているに違いない。
「大地もずいぶん大きくなりましたから多少の留守番はできるようです」
礼をかばうわけではないがついフォローしてしまった。
「それならいいが」
「で、お話とは?」
こんな時間にわざわざ一人で俺の部屋を訪れるってことは個人的な要件だと思う。
「そのことなんだが・・・」
「はい」
「お前は結婚とかしないのか?」
「はあ?」
何を言い出すかと思えば。
結婚なんてまだまだ先のこと。今は仕事で実績を残して認められることしか考えない。
もちろん仕事だけの人間になるつもりはないから、恋はする。
でも結婚なんて、
「いつかは萌夏ちゃんと結婚するつもりだろう?」
「ええ」
今更ごまかすつもりもなく、俺ははっきりと答えた。
***
「空はどうだろうか?」
「どうとは?」
聞かれている意味が分からなくて、質問で返した。
「だから、付き合っている女性とか、結婚を考える相手とか」
「そんなこと・・・」
俺が知るわけないじゃないですかと言いかけて、言葉を止めた。
仕事上のよきライバルでもあり、俺の友人でもある高野空。
同い年で、子供の頃からよく遊んでいた。
幼稚園と小学校は同じ私立学校に通っていたし、中学で空が公立学校に移ってからはさすがに会う機会は減っていったが、お互いに将来の平石財閥を担っていく人間だと思っている。
「直接聞けばいいじゃないですか?」
「簡単に言うな」
そんなに難しい話なんだろうか?
空にとって社長は父親代わり。
物心つく前から一緒に暮らしてきて、実の親子以上の絆だってあるはずだ。
今更遠慮する理由がわからない。
「お前だって、賢介に『結婚はどうする気だ』と言われたらうざいだろうが」
「ええ、まあ・・・そうですね」
親父に限って言わないだろうけれど、言われたら速攻で逃げ出しそうだ。
恥ずかしくて顔なんて見られないだろう。
「それで、何があったんですか?陸仁おじさんらしくないですよ」
わざわざ時間外に部屋までやってきて尋ねるからには何かあるはずだ。
俺だって、普段は社長と呼び上司として接している。
その仕事ぶりは尊敬できるものだし、勉強になることも多い。
しかし、今は子供の頃に遊んでもらった大好きな陸仁おじさんの顔をしている。
***
「何か思い詰めているようだと、瞳が言うんだ」
「おばさんが?」
「ああ、昔の反抗期真っ盛りの頃、勝手に中学の入学を辞退してしまったときみたいな顔だと心配しているんだ」
「はあぁ」
瞳おばさんは空の母さん。
空が生まれてすぐに旦那さんとは離婚して、一人で空を育てていた。
女一人での子育ては決して楽ではなかったはずだが、幸い亡くなった両親の残してくれたマンションが都内にありそこに2人で暮らしていたらしい。
当時、仕事で忙しい陸仁おじさんも都内に隠れ家のようなマンションを何軒か所有していてその一軒が空達の住むマンションの隣だった。
どういうきっかけかはわからないが、偶然出会ったおじさんとおばさんは恋に落ちてしまった。
それ以来おじさんの猛アピールが続き、しまいにはマンションをリフォームして二つの部屋の壁を取り払ってしまった。
俺が空に初めて会ったのもちょうどそのころで、まだ幼稚園に上がる前だった。
「ああ見えてかたくなですからね」
「まあな」
そう育った一因はおじさんにもある気がするが、言わないでおこう。
***
そういえば、小学卒業から中学入学までの時期の空の荒れようはすごかった。
学校でトラブルがあれば必ず空の名前が挙がっていたし、毎日のようにおばさんが学校に呼ばれていた。
俺自身も平石家の養子で血がつながらない家に育つ生きにくさは感じていたが、空はもっと複雑だった。
おじさんもおばさんも結婚の形はとらず同棲しながら3人で暮らすことを選んだ。
一度結婚に失敗しているおばさんからすれば分からない選択でもないし、平石の血筋のせいで週刊誌に乗ることもあるおじさんのことを思えば間違った選択ではなかったと思う。
しかし、そのせいで空は『おじさん』と呼び続け、一度も『父さん』と呼ぶことはなかった。
「なんで俺に聞くんです?」
この春HIRAISIに移動になった空とは会えていないし、俺も専務就任で友人に会う余裕なんてない。
「それはあれだ、就職のときあれだけ頑として『役職に就く気はない、一般社員と同じ待遇にならないならよそに就職する』と言ったあいつが経営の勉強をしたいなんて言い出したのはお前と萌夏ちゃんのことがあったからだろ?」
「そう・・・ですかね」
確かに社長との関係を隠していた空がいきなりHIRAISIに行ってもういい言い出して正直驚いた。
その直前に平石建設と俺に対するスキャンダルがあった。関係があると思うのが普通だろう。
「誰に似たんだか知らないが思い詰めたら過激な奴だからな、心配なんだよ」
「そう、ですね」
さすがに長い付き合い、よくわかっている。
***
そうか、おじさんは息子のように育てた空が心配で俺に声をかけたんだ。
それだけ空のことを大切に思っているってことだろう。
「最近の空が変わったのは俺も気づいています。平石の一員になることを決心してくれたようでうれしく思っていました。あいつのことはともに平石財閥を支えていく人間だと思いますし、信頼できるライバルでもあります。しかしプライベートは別です。おじさんも空を信じて見守るか直接本人に聞いてください。俺は空のプライベートにまで踏み込む気はありません」
空にどんな変化が起きたのか、気にならないと言えば嘘になる。
おじさんの気持ちもわからなくはない。
でも、これ以上は踏み込まない。
それが俺たちにとって一番いいんだ。
「わかった、時間をとってすまなかったな」
「いえ」
トントン。
突然秘書室からのドアがノックされた。
ん?
「失礼します」
よほど急ぎのようなのか、返事を待たず礼が入ってきた。
「どうした?」
「ご自宅から急ぎの要件だそうで」
急ぎ?
そう言われてまず浮かんだのはじいさんとばあさんの顔。
2人とも八十歳を超えているし、いつ何があっても不思議じゃない。
「もしもし」
一応社長に断って電話に出た。
「遥?仕事中にごめんなさい。萌夏ちゃんが帰ってこないの」
「はあ?でも、まだ七時前でしょう?」
小学生じゃないんだ、萌夏だって遅くなる時くらいあるだろう。
「でも、今日は早く帰るって言っていたのよ。夕食がいらないときには必ず連絡もあるはずだし、それに携帯もつながらないの」
「わかった、俺からの連絡してみるから」
「お願いね。何かわかったら知らせてちょうだい」
「はいはい」
本当に心配性なんだから。
この時の俺はまだ事態の深刻さを理解していなかった。萌夏が本当にいなくなるなんて想像もしていなかった。