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朝の光は、
昨日より少しだけ柔らかかった。
カーテンの隙間から入り込む光が、
部屋の中を静かに塗り替えていく。
私は、いつもより早く目が覚めていた。
理由は、分かっている。
隣の部屋に、誰かがいるからだ。
(…起こさないようにしなきゃ)
そう思いながらキッチンに立つ。
冷蔵庫を開けて、
卵と牛乳を取り出す。
その動作が、
昨日よりも自然になっている事に気付いて、
胸が少しだけ痛んだ。
マグカップを棚から2つ出す。
1つは、
自分がいつも使っているもの。
もう1つは、
昨日、彼が無意識に選んだもの。
同じ色。
同じ大きさ。
(…同じ)
理由なんてないはずなのに、
それが少しだけ嬉しくて、
少しだけ怖かった。
お湯を沸かしていると、
背後で、かすかな足音がする。
「…おはようございます」
少し眠そうな声。
振り向くと、
彼が立っていた。
寝癖のついた髪。
無防備な表情。
(だめ)
(推しじゃない)
心の中で、
必死に線を引く。
「…おはよう」
声が、少しだけ柔らかくなる。
彼は、マグカップを見て、
一瞬、視線を止めた。
「…同じですね」
「…あ、はい」
気付かれてしまった。
「昨日、何となくこれ使った気がして」
その“何となく”が、
胸に刺さる。
(それ、あなたが選んだんだよ)
「…偶然、です」
私はそう言って、
視線を逸らした。
彼は、
それ以上追及しなかった。
その距離感が、
ありがたくて、苦しい。
朝ご飯を並べて、
2人で向かい合って座る。
「…頂きます」
「…頂きます」
声が重なる。
それだけで、
少しだけ笑ってしまう。
彼は、卵焼きを食べて、
小さく目を見開いた。
「…やっぱり、甘いの好きかも」
胸が、きゅっと縮む。
「…何で、そう思うんですか」
「何となく」
その言葉が、
何度も繰り返される。
(あなたの“何となく”は、全部、本当なのに)
食後、
洗い物をしていると、
急に視界が揺れた。
ほんの一瞬。
床が、
遠くなる感覚。
「…っ」
シンクに手をつく。
(大丈夫)
(すぐ、治る)
そう思った瞬間、
後ろから声がした。
「…花田さん?」
振り向くと、
彼が心配そうに立っている。
「…大丈夫ですか」
「…うん、ちょっと、立ちくらみ」
笑って誤魔化す。
最近、
こういう事が増えている。
「…座ってください」
彼は、
少し強い口調で言った。
「…本当に、平気です」
「…でも」
その“でも”の後に、
言葉を続けなかった。
代わりに、
椅子を引いてくれる。
その仕草が、
自然過ぎて。
(役割、逆だよ)
(本当は、あなたを支える側なのに)
座ると、
彼が水を持ってきた。
「…冷たいですね」
「…冬なので」
言い訳が、
少し遅れる。
彼は、
私の手を見て、
少し眉を寄せた。
「…いつも、冷たいんですか」
「…体質、です」
嘘ではない。
でも、
全部でもない。
「…無理しないでください」
その言葉が、
何度も重なる。
夜。
仕事から帰ると、
少し疲れが強かった。
玄関で靴を脱いだ瞬間、
視界が一瞬、暗くなる。
「…あ」
声が漏れるより早く、
腕を掴まれた。
「…花田さん!」
彼の声が、近い。
「…大丈夫ですか!?」
「…ごめん、ちょっと、ふらっとしただけ」
彼は、
私を支えながら、
ソファまで連れて行く。
「…病院、行った方が」
その言葉に、
胸がざわつく。
「…大丈夫」
少し、強く言ってしまった。
彼は、
驚いたように口を閉じる。
「…ごめんなさい」
すぐに言い直す。
「…心配かけたくなくて」
それは、本当だった。
彼は、
少し考えてから、
ゆっくり言った。
「…じゃあ、無理しない約束、してください」
その言い方が、
あまりにも真剣で。
私は、
小さく頷いた。
「…約束します」
守れるかどうか、
分からない約束。
夜、
布団に入ってから、
天井を見つめる。
(同じマグカップ)
(同じ朝)
それが、
どれほど特別な事なのか、
私は知っている。
だから、
胸が苦しい。
この日常は、
永遠じゃない。
彼の世界は、
いずれ彼を呼び戻す。
そして、
私の身体は ―
(考えない)
今は、
考えない。
同じマグカップで、
同じ朝を迎えられる事。
それだけを、
大事にしていたかった。
― この時間が、
音として残るように。