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「さぁ、七瀬、そのままそこに立って下さい」
「ーーーはい」
「右脚は椅子の上に置いて」
「ーーーはい」
「手は、あぁ、左手だけを膝に置いて」
「ーーーはい」
「顔は私の方を向いて下さい」
私は惣一郎の操り人形の様に手足を動かした。
「動かないで」
海風がアトリエに充満したテレピンオイルの臭いを攪拌かくはんしクロッキー帳のページをパラパラと捲った。チューブから捻り出されるカドミウムオレンジの油絵具が素裸の私を描いてゆく。
「動かないで」
気怠い惣一郎の目が私を捉えて離さない。
「そう、良い子だね」
はためくカーテンの向こうには日傘を差した大島紬の着物を着た女性。蝉時雨が降り注ぐ異空間の様だった。
(ーーー惣一郎からはあの人が見えないのかな)
惣一郎は筆を取り替える度に背後を向いているが彼女の姿に気が付かない様子だった。そこで珈琲の空き瓶に挿されていたペインティングナイフを取り出しキャンバスに塗り始めた。
「惣一郎」
「なんでしょうか」
「それは洗っていないの」
使用した筆やペインティングナイフはその都度テレピンオイルで絵具を洗い落とす。そうしなければ絵具が固まってしまう。
「あぁ。これですか」
そのペインティングナイフには赤い絵具が全体的にこびり付き、先端が盛り上がり実に扱いにくそうだった。惣一郎は目の前でそれを左右に動かして見た。
「これはこのままで良いんですよ」
「そうなんですね」
「このままの方が使い勝手が良い」
「そうなんだ」
「黙って」
「はい」
キャンバスに向けた惣一郎の目の奥底には鬼気迫るものを感じさせた。
(違う人みたい)
そしてこの部屋には時計がない、あるものは太陽の翳り具合だけだ。
(今、何時なんだろう)
私の脚も極限に達し、惣一郎の集中力も途切れたのだろう。
「七瀬、今日はこれまでにしておこうか」
惣一郎は筆を置き、グローブを脱いだ。張り詰めていた空間が和らぎ私には冷えたオレンジジュースの缶が手渡された。
「晩御飯の準備があるから私が先にシャワーを浴びますよ」
「はい」
「夕ごはんはペペロンチーノ、パスタで良いでしょうか」
「パスタ、好きです!」
「私よりも?」
惣一郎は私を抱きしめ軽く口付けた。
「惣一郎の方が好き」
「良かった」
「ご褒美に白ワインも開けよう」
「わーーーい!」
ここに来てからというもの食事の準備は惣一郎がしてくれる上げ膳据え膳状態だ。申し訳ないから「手伝わせて」と言ってみたが「あなたはこのアトリエのゲストだから良いんだよ」と気怠げに微笑んだ。
(ーーーーあれ)
気が付くと胡桃の樹の下にその女性の姿は無かった。