夜の駅は、静かだった。最終電車が出たあとの構内には、ほとんど人影はなかった。
ベンチに座る女がひとり。
うつむいて、手元のスマホを見つめている。
彼女の名は、美咲。
良規はその姿に、目を奪われていた。
暗い照明の下で、彼女の横顔はどこか痛々しく、それでいて、息を呑むほどに美しかった。
落ちていく人間の美しさ……。
それは彼の中にある、人間の”闇”を観察する欲望を刺激した。
ふいに、美咲の手からスマホが滑り落ちた。
「……っ」
小さく肩を震わせる彼女よりも早く、良規はそれを拾い、差し出した。
『落としましたよ。』
無意識だった。
いつもの良規なら、声などかけなかった。
無関心を貫き、通りすぎるだけだった。
けれどこの夜だけは、何かが違っていた。
美咲は顔を上げ、驚いたように彼を見た。
その目は、まるで水底から差し込む光を見つけた魚のようだった。
怯えと迷いと、わずかな希望……
すべてが、入り混じっていた……。
「……ありがとう」
それだけを告げて、彼女はスマホを受け取ると、また黙り込んだ。
–––––––『帰るつもりは、ないんだ』––––––––––
良規はすぐに悟った。
この女も、家に居場所がない。
誰も待っていない。
そうでなければ、こんな時間にこんな場所で、独りぼっちで座っている理由がない。
彼女の隣に、ゆっくりと腰を下ろす。
無言のまま、ただ並んで座った。
「……」
『……』
沈黙は、不快ではなかった。
むしろ心地よいほどだった。
数分、数十分……
いや、何時間だっただろう。
時計を見る気もしなかった。
「なんで、ここにいるの?」
やがて、美咲がぼそりと呟いた。
「この駅、通勤路でもないでしょ?」
良規は少しだけ口元を緩めた。
笑い方を思い出すように。
『君が居たから』
「は?」
『偶然見かけて。気になったから……。』
「……ストーカー?」
『違うよ。ただ……君のことが、少し気になっただけ……。』
嘘ではなかった。
だが、真実のすべてでもなかった。
彼はすでに、美咲のSNSを見つけ、名前も年齢も職場も把握していた。
投稿の中の暗さ、誰にも見せない本音、その奥底に潜む叫びを……
彼は誰よりも“理解”できた……。
だから、近づいた。
「……なんでそんなこと言うの? 気持ち悪いな」
美咲はそう呟いたが、声に怒気はなかった。
むしろ、寂しそうだった。
拒絶しているようで、どこか期待している。
壊れた人間特有の、“見捨ててほしくない” という甘えが、彼女の瞳に滲んでいた。
良規は、その目が忘れられなかった。
それから、ふたりは週に一度だけ、同じ駅で会うようになった。
きっかけは、偶然を装った。
すれ違いざまに声をかけ、名前を聞き出し、連絡先を交換し、たわいない会話を少しずつ重ねていった。
『彼氏いないの?』
「面倒だからいらない」
『寂しくない?』
「寂しくても、裏切られるよりマシでしょ」
『……俺も同じかも』
美咲は、彼の言葉に目を伏せた。
「人間って、全部信用できないよね」
その言葉に、良規の心が小さく震えた。
この人は、本当に“同じ”だ……。
1ヶ月が経った。
2人は他愛のない会話をしながらも、徐々に互いの“過去”を吐き出し始めていた。
「昔さ、親に捨てられたの。母親に。置き手紙だけで」
『……俺も同じだよ。暴力がひどくて、母親が逃げた』
言葉が重なり、心が擦れ合った。
過去の傷を打ち明け合うたびに、
ふたりの距離は静かに、だが確実に縮まっていった。
恋ではない。
友情でもない。
もっと……
深くて、脆くて、壊れやすい“依存”だった。
美咲にとって、良規は「裏切らないでくれる人」だった。
良規にとって、美咲は「自分と同じ闇を持つ存在」だった。
2人は、互いに救おうとはしなかった。
ただ、一緒に落ちることを選んだ。
それは、最初から“歪な関係”だった。
良規は、ふとした会話の中で美咲のアパートを突き止め、部屋の近くにGPSを仕掛け、SNSのログイン情報を盗み見て、メッセージを操作し、”美咲の周りの人間を遠ざける”ように仕向けていった。
誰も、彼女に近づかせないように。
そうやって、彼女の“唯一”になっていった。
けれど……
それに気づいた美咲も、黙ってはいなかった。
彼女は、良規が自分に執着していることを察しながらも、それを逆手に取って、少しずつ支配するようになっていった。
毎晩の電話、返事が遅れると怒る、他の女と話すと無言になる、LINEの返事を義務化し、スケジュールを共有させ、「私だけを見て」と、笑顔で告げた。
まるで……
最初から“主導権を奪うために”近づいたかのように。
そして……
ある夜、彼女の部屋で。
美咲が唐突に言った。
「ねえ、うちに住まない?」
良規は驚かなかった。
むしろ、待っていた言葉だった。
『……いいの?』
「うん。ずっと一緒にいてくれるなら」
その瞳は、どこまでも狂気に満ちていた。
そして彼もまた、微笑み返した。
『……ずっと、君のそばにいるよ』
その瞬間、ふたりの“世界”は閉じられた。
他人も、社会も、常識も、すべてシャットアウトして……
2人きりの檻の中へと、静かに落ちていった。