テラーノベル
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◆ ◆ ◆
【現実世界・日本/駅前の広場】
最初は、ただの「具合の悪い人」に見えた。
背広の男が、膝に手をついて息をしている。肩が上下して、顔色は真っ青。
周りの人が距離を取って、スマホを向けるか迷う――その、次の瞬間だった。
男の左肩から胸にかけて、黒い“煤”みたいな影が、じわりと広がった。
黒の縁は、波打っている。
よく見ると、縁の中を青白い文字列が流れていた。
プログラムの表示みたいに。
男が顔を上げる。
「……たす、け……」
震える声。普通の人の声。
けれど、その直後、同じ口が“世間話”を吐いた。
「今日……寒くないですか?」
助けて、と、寒いですね、が、交互に出る。
周囲の空気が一気に冷える。
笑えない。泣くのも遅い。人の脳が追いつかない。
煤が、男の腕の先から“指”みたいに伸びた。
近くの女性のコートの裾を、すっと触ろうとする。
「いやぁぁっ!」
悲鳴が上がり、人の波が一斉に後ろへ弾けた。
転んだ人を踏まないように逃げながら、みんなが振り返る。
振り返ってしまう。見てしまう。
◆ ◆ ◆
【現実世界・日本/住宅街の交差点】
別の場所でも、同じ“おかしさ”が起きていた。
OL風の女性が、横断歩道の中央で立ち尽くしている。
半身が煤に覆われ、肩から背中へ文字列が走る。
「……助けて……」
泣いているのに、口元は笑う。
そして次の瞬間、声色が変わる。
「お買い物……行きました?」
問いかけの形だけが、人間らしい。
中身が、何か別のものだと分かってしまう。
近づいた男性が手を伸ばしかけて――やめた。
煤が、足元の影から“もう一本の影”を生やしていたからだ。
その影が、ひとの足首へ絡みつこうとしていた。
「来るな!」
「離れろ!」
警官たちが、さすまたを構えながら叫ぶ。
銃は抜けない。撃ったら“人”に当たる。
けれど放置したら、増える。
テイザー銃の乾いた音が鳴った。
バチ、と火花。女性の身体が一瞬だけ痙攣し、膝が落ちる。
「今!ロープ!」
二人がかりでロープを回し、腕と胴にかける。
煤が嫌がるように波打ち、文字列が早送りになる。
「いやだ……助けて……」
「今日……寒くないですか?」
同じ口が、同じ順番で、繰り返す。
周囲の誰かが吐きそうになり、誰かが泣いた。
“助けて”が本物かどうか、もう判断できない。
【現実世界・日本/繁華街の路地】
路地の端で、黒い猫がぴょん、と跳ねた。
見た目だけなら、ちょっと可愛い。
猫の形で、軽く走って、飛び跳ねて――人の足元をすり抜ける。
でも、近づくほど分かる。
毛がない。煤の塊だ。
尻尾の先から、青白い文字列がひらひら漏れている。
「ねこ……?」と小さい子が言いかけて、母親が抱き上げる。
猫影は、まるで“遊び”みたいに、追いかけるように跳ねる。
その跳ねた先。
煤に取り憑かれかけた男の影へ――するり、と溶け込んだ。
男の身体の黒が、分厚くなる。
声が、少しだけ“揃う”。
「……こんにちは」
それが、一番怖かった。
【現実世界・日本/木崎のカメラ越し】
木崎は、震える指でシャッターを切り続けた。
逃げる人波の端。警官の必死な顔。煤の文字列。跳ねる猫影。
(……やばい。これ、街が“日常”の顔で壊れるやつだ)
写真を選んで、城ヶ峰へ送る。
同じものを、何度も送る。
証拠がないと、話が消される。
送信が終わった瞬間、木崎は自分の息が浅いことに気づいた。
【現実世界・連絡/城ヶ峰】
城ヶ峰は届いた画像を拡大し、眉間に皺を寄せた。
煤の縁。文字列の流れ。猫影の跳ねる軌跡。
「……増え方が“点”じゃない。面で来てる」
城ヶ峰は部下へ指示を飛ばす。
「テイザーと捕縛を優先。銃は最後だ」
「避難線を二重に引け。人混みを作るな」
「“普通の警官”の誘導は活かす。混乱を増やすな」
そこまで言って、画面の猫影に目を戻す。
「……可愛い形で近づくな」
喉の奥で、言葉が冷えた。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ郊外/学園へ向かう街道】
石畳の街道を、馬の蹄が叩く。
リオはマスクの奥で息を整えながら、前を見た。
アデルの背中は揺れない。
ヴェルニは揺れている。というより、元気だ。
「急げば間に合う。急げば、ね」
「……余計なことはしないで」
アデルが淡々と言う。
「わかってるって。たぶん」
「たぶん、は要らない」
ヴェルニが笑って、風を指先に絡めた。走り出したくて仕方がない顔。
リオはそれを見て、胸の奥を押さえた。
(中に、ハレルがいる)
(サキも。……生徒も、先生も)
イヤーカフが、ちり、と鳴った。
『座標、まだ揺れてる』
ノノの声は早い。でも、焦りで割れてはいない。
『学園の周り、獣だけじゃなくて“人の影”も増えてる。イルダでも同じのが出てる』
「……向こうの煤が、こっちにも来たってこと?」
リオが小さく言う。
『たぶんね。まだ“混ざり始め”だけど、放っておくと馴染む』
ノノは一拍置いて続けた。
『馴染んだら、見分けがつかなくなる』
アデルが短く返す。
「だから、急ぐ」
【異世界・王都イルダ/市場区画】
イルダを守る班――ダミエとイデールは、市場の端で黒い“人影”を見ていた。
サラリーマンの形。OLの形。
中身は煤と文字列。近づくほど、空気が冷える。
イデールはいつもの笑顔のまま、でも目だけが真剣になる。
「……ねえ、ダミエ。ちょっとだけ、試してもいい?」
ダミエが小さく頷く。
「……効かないと思う。でも、やるなら、守る」
イデールは掌を胸の前で重ねた。
ふわり、と光が集まる。いつもは“治す”ための光。
「〈光療・第二級〉――『あたためて、ほどく』」
光が、やさしい輪になって飛ぶ。
それが黒い人影に触れた瞬間――
煤が、焼けるように縮んだ。
文字列が乱れ、針金みたいに跳ねる。
「……え」
ダミエの声に、ほんの少しだけ驚きが混ざった。
黒い人影が、口を開く。
「……こんにちは」
次の瞬間、声が崩れる。
「……やめ……ろ」
“人のふり”が、剥がれた。
イデールは目を丸くしつつも、すぐに笑顔に戻る。
「効くんだ……。じゃあ、みんなを守れるね~」
ダミエは、結界の印を切った。
「〈封環結界・第一級〉――『輪よ、閉じて』」
透明な輪が立ち、黒い人影の足元を囲む。
逃げようとした煤が、輪に当たって跳ね返る。
イデールが小さく息を吸う。
「じゃあ、もう一回。今度は少しだけ、強く」
光が増して、煤が“煙”みたいに剥がれ落ちた。
市場の人たちが、恐怖で固まりながらも、希望の顔をする。
その瞬間。イヤーカフがまた鳴った。
『今の、見た。光系、煤に効いてる』
ノノの声が速い。
『イデールの光、攻撃じゃなくても“ほどく”方向で刺さってる。ダミエの輪と相性いい』
アデルたちへ、すぐ繋ぐ――そんな呼吸が、声の端にある。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館の隅】
体育館の窓の外では、まだ遠くで唸り声が続いていた。
生徒たちは固まって、でも時々、外が気になって窓へ寄りかける。
ハレルは、自分のスマホを握りしめる。
ユナのコアも戻した。
胸元の主鍵は、熱だけは消えなかった。
「……セラ」
画面に向けて、名前を呼ぶ。
電話じゃない。メッセージでもない。
でも今は、それしかない。
一瞬だけ、ノイズが走った。
白い砂みたいな音が耳の奥で鳴る。
《……聞こえます》
セラの声。薄い。でも確かに。
ハレルの喉が詰まる。
「セラ!現実側に……行くことは出来ないのか!」
「向こう、街は……どうなってる?――」
《転移先が、危険です》
セラの声が少し硬くなる。
《元の刑務所――カシウスの実験施設の残骸。座標が汚れています》
「じゃあ、どうしたらいいんだよ」
ハレルは思わず声を荒くした。
「結局、またカシウスか? 父さんは? あの時のは――!」
《……私にも、全部は分かりません》
セラは正直に言った。
《でも、あなたが折れたら、守る人が減る》
その言い方が、痛いほど“橋渡し”だった。
ハレルが息を飲んだ、その時。
サキのスマホが、掌の中で熱を持って震えた。
画面が勝手に点き、知らない通知が浮かぶ。
《危険なものが迫ったら》
《その者に座標をあわせて》
《プログラム起動》
見たことのない地図アプリのアイコンが、ホームに増えている。
地図は真っ黒で、点だけが光っていた。
点が、じわり、と動く。
サキが青い顔でハレルを見る。
「……お兄ちゃん。これ、なに……」
ハレルは答えられない。
でも、胸元の主鍵が、答えの代わりに熱く脈打った。
◆ ◆ ◆
【異世界・学園へ向かう街道/アデル隊】
イヤーカフが鳴る。
『アデル、聞いて。イルダ側で確認できた』
ノノの声は落ち着いている。でも速い。
『イデールの光系、“煤”に効く。
ほどく感じ。ダミエの結界で閉じてから当てると、消えるのが早い』
アデルが短く返す。
「共有する。学園でも使える」
ヴェルニが嬉しそうに口角を上げる。
「光が効くなら、俺の炎と風も――」
「暴発しないで」
「しないしない。たぶん」
「たぶん、は禁止」
リオは、前方の森の上に、異様な“輪郭”を見た。
木々の間に、校舎の形がのしかかっている。
ありえない景色が、ありえる重さでそこにある。
(……間に合え)
今度は、願いの中身がはっきりしていた。
生徒が外へ出ないうちに。
カシウスが、次の手を打つ前に。
そして――サキのスマホの“点”が、意味を持つ前に。
馬が加速する。
森が近づく。
学園が、そこにある。
そして、誰にも見えないところで、世界の境目がまた一度、呼吸した。
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