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「――――で、お前たちはこの落とし前をどうつけてくれるつもりなのかな?」 しゅん、とうなだれて突っ立っているギルベルトとアントーニョを不気味なまでににこやかに眺めながらフランシスは問うた。仁王立ちで腕組みをしているフランシスの前でしょげているギルベルトとアントーニョという、この3人をよく知る者が見たなら何とも珍しく滑稽な図であったが、その滑稽さとは相反して店内はもはや元が何であったかわからない瓦礫や吐き気を催す程に損傷した死体などが散乱しているという惨状である。ギルベルトによるライフルの乱射とアントーニョの援護射撃によって、騒動は一応の終局を迎えていた。
アーサーは奇跡的に無事だった1つのカウンターチェアに腰掛けて店内――否、店であった場所、と言うべきだろうか――をぐるりと見渡した。
死体の始末はあの東洋人の掃除屋に頼めば事もなし、だ。文字通り跡形もなく処分してくれる。
問題は店の損害の方だが――窓ガラスは全て割られ、テーブルや椅子、カウンターに置いてあったボトル、飾られていた絵画や写真、店内を彩っていた鉢植えなども皆無残な姿になり果てているが、かろうじて建物としての枠組みは残っている。この程度の被害なら比較的すぐに営業再開できるのではないか。アーサー自身が目にしたわけではないが、フランシスの話によると店が爆撃されたかのような被害を受けたこともあるらしい(因みにその件の主犯はギルベルトだそうだ)。それに比べれば随分とマシな方だろう。
ギルベルトが関わっている件だからブラギンスキの奴も補償費用は弾んでくれるはずだ。トマト野郎もいるから、もしかしたらヴァルガスからも補償金を分捕れるかもしれない。営業できない間の損害も上乗せできるだろう。
惨憺たる様相の店の中で異様なまでに騒動前と同様にそそり立っている防弾仕様のカウンターの陰には、ショック状態に陥っているのかフェリシアーノに寄り添われるようにしてへたりこんでいるルートヴィッヒの姿があったが、その2人の存在にはアントーニョもギルベルトも気づいていないようだった。
がみがみと小言を並べるフランシスにうんざりしたのか、アントーニョは唐突にむくれたようにそっぽを向いた。
「そんなん言うても、この人ら、ギルの客やし。俺、責任ないやんかあ」
「あ!? ふっざけんなよ、お前だってノリノリだったじゃねえかよ!」
「そんなことないですー親分は仕方なくギルの援護してあげてただけですー」
ギルベルトがアントーニョの胸倉を掴んでわさわさ揺すって食ってかかるが、アントーニョは口を尖らせて屁理屈をこねるばかりだ。が、
「いい加減にしなさい!!」
フランシスの一喝に、2人の動きがぴたりと止まる。
その光景にアーサーは思わず噴き出しそうになってしまった。
なるほど、『お兄さん』を自称しているのも伊達じゃねえらしい。てか、こりゃもう『お母さん』だな。
この街ではその名前を知らない者はいないくらい有名な悪党のギルベルトとアントーニョが、フランシスの前ではまるで悪さをして叱られている子供同然ではないか。まあ「悪さをして叱られている」という点は間違ってはいない――叱られて済む悪さの範疇を超えすぎてはいるが。
アーサーの視線は、再びうなだれてしまった2人を前にしてどこか諦めたように溜息をつくフランシスを捉えていた。
「はあ、もうほんっとお前らときたら……とにかく、菊ちゃんに連絡しなきゃね。まったく、お前らが死体量産するもんだから菊ちゃん休む暇がないじゃない! あの子、街に一人しかいない掃除屋なんだからあんまり仕事増やしちゃ可哀想でしょ!?」
「あーもう、わかったからよお、んなマジで怒んなよ……いつものことじゃねえか」
「いつものことだから怒ってんの! ギル、お前ほんとに反省してんの!? 今すぐツケ全額払ってもらってもいいんだけど!?」
「わかった、わかったから、反省してるからそれは勘弁してくれマジで!!」
「親分ツケないしー。こないだロヴィが全部払てくれたしー」
「何だそれ羨ましすぎるぜ!!」
「お前らねえ……」
(……この事態、収拾つくのかよ……俺、さっさと帰りたいんだがな……)
アーサーがカウンターに肘をついて新しい煙草に手を伸ばしたとき、アーサーの手元がふと暗くなった。カウンター奥でへたりこんでいたルートヴィッヒが、ゆらりと立ち上がったのである。
ふらふらとした足取りでカウンターの外へ歩み出していくルートヴィッヒをアーサーは訝しげに目で追った。
(フェリシアーノのダチ……確か兄貴を捜してるっつってたっけ……)
ルートヴィッヒはふらつきながらも、フランシスやアントーニョと揉めているギルベルトの方へと吸い寄せられるように歩みを進めていく。
弟の手が兄に届くには遠すぎる距離を残していたが、気配に気づいたギルベルトは背後を振り返り――ルートヴィッヒの姿を目にするなり、その紅の双眸を零れ落ちそうなほどに見開いた。
「……にいさん……」
「…………る、」
ギルベルトもルートヴィッヒもその場に立ち竦んだまま、お互いをただ呆然と見つめていた。
瞬きも、呼吸すらも忘れてしまったかのように立ち尽くすギルベルトは、周囲の者の目にはまるでよくできた人形のようにすら映った――が、ギルベルトの指先が小さく震えていることだけが、彼が生命を持った人間であることを指し示していた。
「にいさ、」
ルートヴィッヒはおずおずとギルベルトに歩み寄った。だが、ギルベルトは弾かれたように後ずさる。
一瞬傷ついたような表情を浮かべたルートヴィッヒだったが、それでも唇を噛み締めてギルベルトの方へと歩みを進めた、そのとき。
「――――『兄さん』なんて呼ぶな!!」
割れた窓ガラスから射し込む青白い月明かりを切り裂くかのような、ギルベルトの絶叫が響いた。
「……っ、兄さん、なんて呼ぶな……」
ギルベルトが絞り出した悲痛な声は聞く者の胸を締め付けた。フランシスもアントーニョもアーサーもフェリシアーノも、ただ固唾を呑んで兄弟を見守ることしかできずにいた。
4人の視線の中、ルートヴィッヒは壊れた玩具のように「にいさん」と繰り返して、その震える手をギルベルトに伸ばす。だが、ギルベルトは酷く怯えたように更に後ずさった。
「俺には、弟、なんて……いねえんだよ……」
「……に、いさ……」
「ルート!」
呆然としてその場にがくりと膝をついてしまったルートヴィッヒにフェリシアーノは慌てて駆け寄り、支えるようにして寄り添った。
「フェリちゃん! 来とったんかいな! あ、じゃあフェリちゃんの友達……え? え?」
「ギルベルト……そんな悲しいこと、言わないでよ……」
困惑するアントーニョをよそに、フェリシアーノは蹲るルートヴィッヒの肩を抱いてギルベルトを見上げた。
今にも泣き出しそうな顔をしたフェリシアーノにギルベルトはたじたじと顔を背けたが、それでも負けじと声を絞り出す。
「……はは、フェリちゃんの友達にこんなこと言いたかねえけど、……こいつ、頭おかしいんじゃねえ? ヤクでもやってんのか? ……弟、とか、すげえ笑える……」
たどたどしく発せられたギルベルトの声はいつにもまして掠れていた。おそらく常のように口端だけを上げて笑おうとしたのだろうが、くしゃりと歪んだギルベルトの表情は、アーサーには今にも泣き出しそうな子供のそれにしか見えなかった。
「……そんな言い方ってないよ……!」
フェリシアーノは大きなブラウンの瞳一杯に涙を溜めてギルベルトをきっと睨み上げた。だがギルベルトは唇を噛み締めて、その視線から逃れようとするかのように俯いたままだ。
アーサーはためらいがちにカウンターチェアから立ち上がると、ギルベルトに近づいてその肩にそっと手を添えた。
「ギルベルト。お前……」
「やめなって、坊ちゃん」
アーサーの言葉の続きを制したのはフランシスだ。
「……ちっ」
アーサーが苦々しげにギルベルトの肩からその手を下ろしたのと、ギルベルトがアーサーの手を振り払うように身を捩って戸口に足を向けたのはほぼ同時であった。
「俺様、もう帰っから……、あとはエドァルドが始末つけてくれるだろうよ」
重い沈黙が落ちる中、そう吐き捨ててギルベルトはルートヴィッヒに背を向ける。兄の背中に視線を縋らせながらも、ルートヴィッヒは立ち上がることもできず身体を震わせるばかりだった。
(このまま、俺はまた兄さんを失ってしまうのか――?)
兄さんが俺を振り返ることは二度とないだろう。今、引き留めなければ。ここでこの人を見失ってしまえば、また喪失の日々に投げ戻されてしまう。そんなことは御免だ。やっと、やっと会えたというのに――。それなのに、金縛りに遭ったように身体が動かない――。
絶望に呑み込まれそうになっているルートヴィッヒを背にして逃げるように立ち去ろうとしていたギルベルトだったが、ふとフランシスの前で立ち止まると彼を横目で見やった。
「フラン。る――こいつのこと、絶対売るんじゃねえぞ」
「は?」
「だから、俺の弟……だとか名乗ってる妙なのがいるって情報、流すなっつってんだよ。……特に、イヴァンには絶対言うな」
「――……何で?」
フランシスはあからさまに怪訝そうな表情をしてみせた。
「この子の噂を広めたくないっていうのはわかるよ。でもイヴァンには話しておくべきじゃないの? お前のボスでしょ」
「そんなのお前には関係ねえだろが!!」
ギルベルトの怒声に、アントーニョは「あーあ」とでも言いたげに額に手を当ててフランシスを見やった。
フランシスは怒った素振りも見せず、ただ穏やかな面持ちであったが――一拍の間を置いて、指先を唇に当てて思案顔をしてみせた。
「わかったよ。――でもねえ、ギル。俺、情報屋なのよ。情報屋に情報売るなって、酷い営業妨害だよねえ? だったらギルにもそれ相応のことしてもらわなきゃ、お兄さん割に合わないんだけど」
ギルベルトの片眉がぴくりと上がる。
「……俺にできることなら……」
渋々といった様子で吐き捨てるギルベルトに、フランシスはいやらしくニヤリと笑った。
「じゃあ、俺と一晩2人っきりで過ごしてよ」
フランシスの要求にアーサーが驚きを隠せずに目を丸くした一方、アントーニョは茶化すようにぴゅう、と高く口笛を吹く。ルートヴィッヒとフェリシアーノは唖然としてギルベルトとフランシスを見つめている。当のギルベルトは変わらない仏頂面でフランシスを睨みつけているだけだ。
フランシスが試すような口調で再びギルベルトに問いかける。
「もしかしてお子ちゃまなギルちゃんには意味分かんなかったかな? 『お前のケツ貸せ』って言ってんだけど」
潔癖症のギルベルトのことだ。フランシスに「ふざけんじゃねえぞこのエロ髭が!」などと罵声の――いや、拳のひとつでも浴びせて憤慨してしまい、この取引はおじゃんになるだろう――というのがアーサーやアントーニョの予想だったのだが。
「わかった」
「――――は?」
「――――え?」
アーサーとアントーニョの驚きの声が重なる。
フランシスは吟味するような眼差しをギルベルトに向けていたが、何も言葉にすることはなかった。
「ヤらせりゃいいんだろーが。まったく、お前もマジで物好きだな」
好き嫌いがないのもいいけど食うもん選ばねえと腹壊しちまうぞ? と妙な捨て台詞を吐いてギルベルトは立ち去ってしまったが、この場にいた誰もが、あの銀髪の男が最後までルートヴィッヒと視線を合わせなかったことに気づいていた。
ギルベルトが去った後、入れ替わるようにしてエドァルドとその部下たちが「オルレアン」にやってきた。
仕事をギルベルトに押し付けた件をアントーニョに問われたイケメンは「僕、頭脳労働の方が向いてますから。ギルベルトさんも楽しそうだったでしょう? 適材適所ですよ」と爽やかに笑い、補償の件などを手早くフランシスやアーサーと取りまとめた。
今回の件は元を正せばイヴァンがエドァルドたちに指示したことであるから、補償金は全額ブラギンスキが負担するという旨を告げられたアントーニョが「助かったわあ、ウチも払わなあかんかったらまたロヴィに怒られてまうとこやった!」と胸を撫で下ろす一幕もあった。
現在はエドァルドの指示のもと、部下たちが死体の回収作業を行っている。掃除屋のところに運びこんで処分してもらえばそれでこの件は終焉だ。今夜ここでこの世から消えた人間たちのことなど、誰も気にかけはしない。
さすがに血と硝煙の匂いが充満する店内に留まっているのは気分が悪いということで意見が一致し、フランシスたちは表通りに出て回収作業が終わるのを待つことにした。
吐く息はまだ白いが、コートなどを羽織っていれば耐えられない寒さではない。辺りは未だ闇に包まれ、繁華街から少し離れているこの近辺では、エドァルドたちが作業に使用しているライト以外にはぼうっと灯っている形ばかりの街灯くらいしか灯りは見当たらなかった。季節外れの一羽の蛾が街灯に纏わりついているのがアントーニョの目には酷く鬱陶しく映り込んだ。
「珍しいやんなあ」
薄暗がりの中で淡々と行われる回収作業をぼんやり眺めながら、アントーニョは通りの縁石に腰掛けて両手に息を吹きかけた。
「めっちゃ潔癖症のギルがあんなん言うなんてな」
先刻のギルベルトの発言を指しているのだろう。店の外壁に凭れかかり腕組みをして立っていたフランシスは軽く目を伏せた。
「そうまでして情報を漏らしたくないってことは本当に弟だってことでしょ、この子が。ギルの家族なんて知れたらどんなトラブルに巻き込まれるかわかったもんじゃないもの」
そう言って、アントーニョと同様に縁石に座り込んでいるルートヴィッヒに視線を向けるフランシス。アントーニョもつられるようにルートヴィッヒを凝視し、そしてぽつりと零した。
「ギルの方が弟いうんやったらわかるけどなあ。この子、これでフェリちゃんと同い年って、老け過ぎちゃう?」
空気を読まないアントーニョの能天気な発言に、フランシスもその傍に立っていたアーサーも思いっきり噴き出した。
「ちょ、お前、お兄さん思ってても言わなかったのに!」
げらげら笑う2人につられてアントーニョも笑いだす。
数時間前まではルートヴィッヒとカフェで談笑していたというのに、フェリシアーノにはこの日常的な雰囲気がひどく懐かしく感じられて身体中の力が抜けていくような気がした。
気まずそうにではあるものの少しだけ顔を綻ばせたフェリシアーノだったが、この空気に乗れるわけもないルートヴィッヒは眉根を寄せるばかりだった。
「……その、貴方に尋ねたいんだが」
空気を打ち破るように大きく咳払いをして、ルートヴィッヒはフランシスを見据える。この金髪碧眼の青年は先程までは呆然自失といった体であったが、少しずつ落ち着きを取り戻し始めていた。
「何? 俺のことはフランでいいよ。ルートヴィッヒ、だっけ? ルーイでいいかな?」
「……構わないが……、先刻の件だが。貴方は、その、兄とはどういう……」
「ああ、ケツ貸せって言ったこと? あれは冗談だよ気にしないで」
そんなことしたらミンチにされちゃうしね……とフランシスが続けて呟いた言葉の意味をルートヴィッヒは理解しかねたようで訝しげにしていたが、「……ならば、いい」と、とりあえずは納得したようだった。
「おい髭、お前それ本気で言ってんのか?」
フランシスとルートヴィッヒの会話に割って入ってきたのはアーサーである。
「とっとと押し倒してヤっちまえばいいじゃねえか。まさか本気の相手には手ぇ出せねえとか言うなよ? お前そんな純情キャラじゃねえだろ」
「ちょっと待って坊ちゃんは俺のこと何だと思って」
「色情魔」
「エロ大使に言われたくないんですけど!?」
「何や、眉毛も知っとったんかいな。フランが惚れとる奴って――」
「わーわーわー!! 何さりげにぶっちゃけようとしてんのかなトーニョ君!? ルーイもいるんだよ!?」
しゃがみこんでいるアントーニョの背後から覆いかぶさるようにしてその口を塞ごうと必死になっているフランシスを、アーサーは小馬鹿にしたように笑って見下ろした。
「言われなくても誰でも気づくだろ。ギルベルトが店の飯食ってるときのこいつの顔ときたら……」
「せやねんなあ! ギルを餌付けしとるときのフラン、めっちゃ幸せそうな顔してんねん! めっちゃ笑えんねん!」
「そこ笑うとこなの!? だってしょうがないじゃんあの子すっごい美味しそうに食べてくれるんだもん! ていうか何この羞恥プレイ! 何でこんなときだけ仲良しなのお前ら!」
3人の会話についていけないルートヴィッヒが終始ぽかんとした顔つきをしている傍で、フェリシアーノはとうとう堪え切れなかったようでけらけらと笑い始めた。そんなフェリシアーノにアントーニョたちは一瞬驚いたが、すぐに頬を綻ばせて穏やかな笑みを浮かべる。
今夜は最悪の夜だった。だが、いつまでも糸を張り詰めてばかりいても仕方ないのだ。
ひとしきり笑った後、フェリシアーノは謝罪の意を表して軽く肩を竦めた。
「ヴェ、ごめんねー。フラン兄ちゃんには悪いけど、何か和んじゃった」
ふわりと微笑むフェリシアーノに、アントーニョは勢いよく飛びついた。
「フェリちゃんやっぱかっわかわえええええ!!!」
「おいトマト野郎。さっき髭がフェリシアーノにセクハラ……」
「坊ちゃんちょっと黙ろうか!?」
フランシスは顔を引き攣らせてアーサーの頬を抓り上げ、アーサーも反撃に出ようとしていたが。
「ルート、どこ行くの?」
フェリシアーノの言葉に、アントーニョは彼を抱き締める腕を緩めて背後を振り返り、フランシスとアーサーも恒例行事と化している喧嘩を中断してフェリシアーノの視線の先を辿ると、そこには遠くに見える繁華街の下卑たネオンへと向かって歩み出しているルートヴィッヒがいた。
「いつまでもここで油を売ってもいられないだろう。俺は兄さんに会いにいく」
その答えを聞いた瞬間、フェリシアーノの瞳に硬質の光が宿る。
「会いにいくって、ギルベルトの居場所も知らないのに?」
「それは……」
「この街をこんな時間に一人で銃も持たずに歩き回るつもり? ルート、危険なことはしないって約束しただろう?」
常のフェリシアーノにはない厳しい口調に、ルートヴィッヒもたじろいで口を噤まざるをえなくなってしまった。
「気持ちはわかるがな。そんな焦るんじゃねえよ」
2人の親友の間に一瞬降りてきた重苦しい空気を破るかのように、アーサーはわざとらしく軽い口調で言う。
「どうせギルベルトはこの街から出ていけやしない。それに、あいつの態度見ただろうが。会えたところで、また追っ払われるのがオチだぞ」
「じゃあどうしろと言うんだ! ――……このままでは、また俺は兄さんを――……」
拳を握り締め、俯いてぽろぽろと涙を零し始めたルートヴィッヒを見て、フランシスとアントーニョは気まずそうに視線を交わらせた。アーサーも困惑した表情を浮かべて指先で頬をぽりぽりと掻いていたが、大きな溜息をひとつ吐くとぶっきらぼうにルートヴィッヒに声をかける。
「だから、焦るなっつってるだろ」
視線を上げたルートヴィッヒにアーサーはついてこい、と言うように相変わらずの仏頂面で顎をしゃくる仕草を見せた。
「ここじゃ落ち着いて話せねえし、場所を移そう。――とにかく、まず事情を聞かせろ。ルートヴィッヒ」
「アーサー、ルートの力になってくれるの? 思ったよりいい奴だね、お前!」「ばっ……、そんなんじゃねえ! 別にお前らのためってわけじゃなくて――つぅか『思ったより』ってどういう意味だよ!」などと雑談を交わしながら遠ざかっていくアーサー、フェリシアーノ、そしてルートヴィッヒの背中をフランシスがぼんやり見送っていると、そのすぐ側で突如ガンッという鈍い音が響いた。アントーニョが通りの脇にあったアルミ製のゴミ箱を力任せに蹴飛ばしたのだ。ひしゃげたゴミ箱はガラガラと耳障りな音を立てながら転がり、店の壁面に到達したところで動きを止めた。
「物に当たったってしょうがないでしょ」
「…………わかっとるって…………」
そう言いつつも割り切れない感情に身体を震わせているアントーニョの背中に、フランシスは小さく肩を竦めた。
アントーニョが苛立っているのには理由があった。
数分前のことだ。アーサーが場所の移動を提案したとき、アントーニョはフェリシアーノに忠告したのだ。
『フェリちゃん、友達のことやし放っとかれへんのはわかるけどな。早うルートヴィッヒ連れて帰った方がええよ。この街でギルの弟やなんて知れたら面倒なことになるし、フェリちゃんまで巻き込まれてまうかも――』
『――トーニョ兄ちゃんはさ、』
案じるアントーニョにフェリシアーノが向けた視線は暗かった。
『俺やルートの気持ち……わかってないよ……』
「守られる者にも葛藤があるってことだよ」
薄闇に沁み入るように優しくフランシスの声が響いた。
「お前が思ってるほどヤワじゃないよ、フェリシアーノは。……暖かい温室でぬくぬくさせとくだけが愛情じゃないでしょ?」
ちら、とアントーニョの虚ろな視線が問いかけるようにフランシスを見上げる。それを見てフランシスは小さく苦笑を浮かべた。
「お前も、ロヴィーノもさ」
荒く上下に揺れるアントーニョの肩に、フランシスは宥めるようにそっと手を添える。
「怖がらないで、ちゃんとフェリシアーノを見ててあげたらいいんじゃないの」
穏やかに言うとフランシスは視線をアントーニョから通りの向こうへと小さくなっていく3人に――その中で最も長身の青年の後姿に移した。
「それはギルにも言えることだけど」
「…………わかっとるわ……自己満足やいうことくらい…………」
アントーニョは自嘲気味に笑うと、再びどさりと縁石に腰を下ろして頭を抱え込んでしまう。
「けど、それでもな」
らしくない、夜の冷気に消え入りそうな声音でアントーニョはぼそぼそと呟いた。
「それでもできるだけ、あったかい場所に居らせてやりたいねん。守ってやりたいねん。フェリちゃんも…………ロヴィも」
「…………お前も面倒な性分だねえ…………」
「……うっさいわ」
ブルネットを柔らかに撫でるフランシスの手をアントーニョは容赦なく叩き落とした。「慰めてやろうと思ったのに」とおどけて頬を膨らませるフランシスだったが、アントーニョは剣呑な一瞥を返すだけである。
素直ではないロヴィーノの陰に隠れて目立ちはしないが、この男も相当に不器用だとフランシスは理解している。フェリシアーノもそんなアントーニョやロヴィーノの心遣いを無駄にしないようにということばかりに心を砕いて生きてきた節があるが、きっとそれだけでは駄目なのだ。――3人のことを2人だけで決めてもあまり意味がない。
「ちゅうか、この件はそんな精神論どうこうの問題ちゃうやろ。ギルに妙なちょっかいかけるっちゅうことは、下手したらイヴァンを敵に回すっちゅうことやで? ――相手が悪すぎる」
苦りきった顔で吐き捨てるとアントーニョは懐から煙草を取り出したが、それが空とわかるとますますしかめっ面になってその空箱を投げ捨てた。
「やから、ギルとルートヴィッヒのためにもギルのことは諦めてとっとと帰った方がええんや。やのにあんのクソ眉毛、余計なことしおって……あいつはこの街の流儀を全然わかっとらへん。やから嫌いや」
「お前と坊ちゃんは生理的に合わないだけでしょ」
俯いていたアントーニョの眼前にフランシスは右手を差し出した。その掌中に収まっていたのは上品な黒革製の煙草ケースだ。
「何や、お前吸わへんのに持っとるん……あ……」
アントーニョはぱちくりと目を丸くした。ケースの中に入っていたのはギルベルトが吸っている銘柄の煙草だった。
思えばギルベルトが煙草を切らしたときにフランシスがさり気なくこのケースを手渡している場面を見たことがなかったか――。
非喫煙者のフランシスが煙草を携帯していることに得心がいってアントーニョは薄く笑い、フランシスも気まずそうに微苦笑を浮かべる。
「ははっ、お前も難儀な性格やな。ちゅうか、お前こそギルのこと甘やかしすぎちゃうんか」
「俺はいいの、これで」
「さよか」
煙草と共に入っていたライターのシュポ、という耳に馴染んでいるはずの音が今は妙な違和感を持って響いた。
「――この街じゃ詮索好きは長生きできないってことは、坊ちゃんにも散々忠告したつもりだったけど」
フランシスはゆるりと立ち昇る紫煙から己の足先に視線を落とす。先刻まで街灯に纏わりついていた一羽の蛾は、すでに死骸となってフランシスの足元に転がっていた。
(問題はイヴァンがどう出るか、だね……)
イヴァンはギルベルトに執着している。それはもちろん個人的感情からであるが、ブラギンスキファミリーにとってもギルベルトという戦力はヴァルガスとの均衡を保つには欠くことのできない存在なのだ。もし愚直にもルートヴィッヒがイヴァンに「兄を返せ」などと直談判でもしようものなら――。
少しの間考え込んでいたフランシスはゆっくりと吐息を漏らすと、視線の高さを合わせるようにアントーニョの前に座り込んだ。
「? 何や、さっきから黙り込んで」
怪訝な眼差しを返すアントーニョに、フランシスはふっと小さく笑んで頭を振った。
「何でもないよ。――ただ、最悪の事態にならないように『この街の流儀』を知ってる俺たちはあの子たちに同行した方がいいんじゃないかと思うんだけどね、『親分』?」
フランシスの印象ではイヴァンは随分と変わったと思う。ただ、それはギルベルトが傍にいるからこその静穏であり――。
(あいつには笑っててほしいだけなのにな)
そのささやかな願いすら、狂気に満ちたこの街は簡単には叶えてくれないらしい。
エドァルドたちが作業を終え、フランシスとアントーニョがアーサーらと合流していたその頃。
逃げるように「オルレアン」を飛び出してきたギルベルトは、どこをどう帰ってきたかすら全く覚えていないが、ともかくアパートの自室まで辿り着いていた。そしてよろよろと中に入るとドアをバタン、と乱暴に閉めて灯りをつけることもしないままそのドアを背にずるずるとへたり込んでしまう。
(何で……何であいつがここにいるんだ……? フェリちゃんの友達って……あいつのことだったのかよ……)
『生き別れになった兄ちゃん捜しとるんやて』
アントーニョの言葉が脳裏に甦る。
まさか、ルートヴィッヒだとは思わなかった。あいつはドイツにいるはずで……。
なのに何で、ルートヴィッヒがここに? 俺を捜して、だと?
(何で……何で来るんだよ……何で俺なんか捜しにくるんだよ……!)
ギルベルトは座り込んだまま、銀髪をぐしゃぐしゃと掻き乱して頭を抱えた。知らず、紅玉から雫がはらはらと溢れ出してしまう。
(ルートヴィッヒ……ルッ、ツ……ルッツ……)
先刻、「オルレアン」で出会った金髪碧眼の青年の面差しが思い出された。
遠い記憶よりもずっと逞しく成長していた。だが、見間違うはずがない。ルートヴィッヒだ。
13年前に、不幸な事件のために引き裂かれてしまった最愛の弟だ。
この命を賭けても守りたかった、何よりも大切な弟――――
(お前は俺のことなんか忘れて、陽の当たる場所で幸せに暮らしてればよかったんだ)
そうでないと。
そうでないと、今まで俺は何のために――――
「……ふっ……うぅ……く、うっ…………」
冷え切った真っ暗な部屋の静寂を切り裂くかのように、ギルベルトの嗚咽だけがいつまでも響いていた。