(……あのまま寝ちまってたのか……) 薄いカーテンから微かに射し込む朝の陽射し。冬の弱いそれでさえ、泣きはらした目には眩しかった。
(泣き疲れてそのまま寝ちまうとか……ガキじゃあるまいし)
古びたワンルームのアパートの、玄関と呼ぶのも躊躇われるような狭いスペースにへたりこんでいたギルベルトは、痛む頭を押さえながらよろよろと立ち上がった。とりあえず、この靄がかった頭をすっきりさせたい。インスタントコーヒーを淹れるため、ギルベルトはコンロが二つだけの簡素なキッチンに立ってポットを手に取った。
──ルートヴィッヒはあの後、どうしたのだろうか。
フェリシアーノと行動を共にしている限りは、その身に危険が及ぶことはないだろう。フェリシアーノはこの街で生まれ育った。この街を熟知している彼は決して軽率な行動は起こさない。それに何よりアントーニョが護衛としてついている。
──だが、この街にいるかぎりは完全に身の安全が保証されることなど──。
フランシスに口止めしたとはいえ、ルートヴィッヒがこの街に長居して人目につけば身辺を嗅ぎ回る者だって出てくるに違いないのだ。ルートヴィッヒがまだここにいるならば、一刻も早く帰さなくてはならない。できることなら、イヴァンに気づかれる前に。昨晩の態度で自分に見切りをつけてくれていればいいが……。
やはり、現在の状況だけでも知っておきたかった。フランシスに連絡を入れようとスマホを探すも──
(あ、そうだ……昨日の騒ぎでフランのとこに……)
小さく溜息を吐きつつ、ギルベルトは沸いたばかりの湯をコーヒーカップに注ぐ。コポコポという音とともに真っ白な湯気が天井へと上っていくのをぼんやりと眺めていた、そのとき。
早朝にもかかわらず、無遠慮にインターホンが鳴った。昨晩のこともある、一瞬で緊張の糸を張りつめたギルベルトだったが──。
モニターを確認し、そこに映る馴染みの顔にふっと肩の力が抜けていく。フランシスだ。
緩慢にドアを開けると、昨晩の騒動のせいか常よりはややくたびれた様子の優男の姿があった。
「ごめんね、起こしちゃった?」
「いや」
目線でフランシスを中に促すと、ギルベルトは一歩外へ出て周囲をざっと見渡した。
ギルベルトの部屋は二階にあり、外廊下からは地上の空き地の様子が窺える。そこに停められた車にもたれかかるようにして煙草を吸っている人影があった。アーサーだ。こちらに気づいた緑の視線に軽く手を振って部屋へ戻ると、フランシスは既にベッドに腰かけて寛いでいた。フランシスにとっては何度となく訪れた勝手知ったる部屋である。ギルベルトもそれを咎めはしなかった。
「……フラン……その……」
こんな早朝にわざわざフランシスが来たのは昨晩の件に関してだろうが、どういう用件だろう。……とにかく今は、ルートヴィッヒがどうしているのか知りたい。けれどどう切り出したものか。不安げに視線を彷徨わせるギルベルトを見て、フランシスはやわらかく微笑んだ。
「そう緊張すんなよ。話の前に……これ。忘れ物」
フランシスが差し出した紙袋に入っていたのは、ギルベルトの上着とスマホ、そして銃だった。昨晩逃げるように「オルレアン」を後にして置き忘れてきたものだ。
「ああ……ダンケ」
素直に礼を言ってまずスマホを確認するも、重要な着信やメッセージはないようである。
(逆にイヴァンから何の連絡もないってのも妙だな……エドァルドから報告いってんだろうに……)
ふいに視線を感じ、スマホから顔を上げて悪友を見やる。悪友の顔から笑みは消えていた。
「フラン……? 何──、」
怪訝な顔をするギルベルトの腕を、フランシスは力まかせに引っ張った。気づけばギルベルトはベッドに仰向けに倒れていて、その身体の上にフランシスは無遠慮に跨った。
フランシスはギルベルトを見下ろし、愉しげに上唇を舐めてみせる。
「忘れたとは言わせないよ? 昨日の約束」
「……はあ? ……まさか、今からかよ? さすがに勘弁しろよ、アーサーだって待って──」
ギルベルトの抗議には耳を貸さず、フランシスはギルベルトの両手首を掴んでシーツに押しつける。
フランシスの表情はいつになく真剣だった。
「え……ちょ、フラン……ふぁっ!?」
フランシスの唇がギルベルトの耳朶を甘く噛んだ。
「フラン、待てよ、」
フランシスは一旦身体を起こし、ギルベルトをまっすぐに見下ろした。
「……俺になら何されてもいいんだろ? “Mon petit lapin”」
ギルベルトは息を呑んだ。こんな表情のフランシスは初めて見る。今のフランシスの瞳は、いつもの穏やかな海の濃藍こいあいではなく、そこに確かに凶暴な熱を孕んでいた。声も常になく低く艶っぽくて、明らかに昏い情欲が滲んでいる。
──この男を「怖い」と思ったのは初めてかもしれない。
そんなギルベルトには構わず、フランシスの舌先は再びギルベルトの耳朶を弄び、やがて首筋を這って鎖骨へと下りていく。シャツははだけさせられ、その布地の下の脇腹にフランシスの指先が滑り込んできた。
────こいつは本気だ──本気で、俺を────
ギルベルトは身体をこわばらせ、耐えるように強く目を閉じた。
すると──……やがて、フランシスの手が引いていく気配がして。
「……?」
ギルベルトがおずおずと目を開けると同時に、ちゅ、と軽く、額にやわらかなものが触れた。
「……冗談だよ」
視界に飛び込んできたのはくすくすと肩を揺らすフランシス。もうすっかりいつもの優男に戻っている。
「でもあんなふうに男煽っちゃダメだよ。俺だからよかったけど、他の男なら本気にするよ」
見下ろされたままギルベルトはふくれっ面をしてみせる。
「本気にさせるために言ってんだよ」
「やめときな。お前、向いてないんだから」
「向いてないって何だよ……お前、昔の俺知ってるだろ」
「よーく知ってるよ、だから言ってんの」
フランシスは呆れたように笑み、ギルベルトの額を指先で軽く突く。
「昔、仕事の後よく吐いてたろ。今だってこんなガチガチじゃん」
「……昔の話だ。ヤりたきゃヤれよ」
ギルベルトはフランシスの瞳をじっと見つめた。
「お前にはいろいろ借りあるし……マジで構わねえよ」
「──……だめだよ、そんな投げやりじゃさ。こういうことは愛し合う二人がするものなんだから」
「こんなの、ただの手段だ」
「こら」
「お前だって情報のために誰彼構わず寝てるじゃねえか」
フランシスは得意げな笑みで、ギルベルトの頬を撫でて指先で唇に触れる。
「俺はベッドの中ではその相手のことだけを全力で愛してるよ?」
「……ふん、スケコマシが。いつか刺されるぞ」
「そんな言い方やめてほしいな。お兄さんの愛の前では性別なんて無意味だからね」
「ふっ、そこかよ。お前マジで歪みねえな」
ようやくギルベルトの口元にも笑みが浮かぶ。
フランシスはニヤリと意地悪く微笑んだ。
「ま、お前抱いたところで、最中に他の誰かさんの名前呼ばれて萎えそうだしねー?」
「…………んなわけあるか」
「どうだか」
フランシスはギルベルトの上から退いた。ギルベルトも身体を起こし、二人肩を並べてベッドに腰かける。
フランシスは後ろに両手をつき、どこか物憂げな顔で天井を見上げた。
「……フラン? どうかしたか?」
「……いや」
フランシスはギルベルトを見て薄く微笑んだ。それが何故だか、自嘲が滲んでいるように見えて──
「いくらムカついたからって俺も大人げなかったなと思ってさ。……ごめんね」
「……ムカついたのか?」
「え? まあそりゃあ、ねえ。心配してるのに『関係ないだろ』とか怒鳴られたらさあ」
「…………あ……、……ごめん……」
昨夜のことを思い出す。予期せぬ事態で余裕がなさすぎた。うなだれるギルベルトを見てフランシスは少々呆気にとられ、そして軽く吹き出した。
「どしたの。いやに素直だね」
フランシスは苦笑しつつギルベルトの髪をくしゃりと撫でる。
「何? 久々に『フラ兄』とか呼んだから昔の気分に戻っちゃった?」
「……ばか」
ギルベルトはベッドから立ち上がった。
「コーヒー、飲むか? 安物のインスタントだけど」
「うん、もらおうかな」
頷いて、ギルベルトはキッチンに向かった。
ポットに残っていた湯でコーヒーを作ると、カップを持ってフランシスのところに戻った。「Merci」と受け取るフランシスの前に立ち、ギルベルトも自分のカップに口をつける。自分のために淹れたそれはもう冷めていた。
「てかさすがに疲れたなー。お店は壊されるし、神様に救いを求めたらフライパンで殴られるし、もう散々。早くシャワー浴びてマドモアゼルの柔肌に顔を埋めて眠りたいよ」
そうぼやいて肩を竦める悪友をギルベルトは訝しげに見やった。
「フライパン?」
「そ。地球で最も安寧を約束されたとこだろ? 女神様がお守りくださるんだから」
得意気に笑むフランシスに、ギルベルトはこれ以上ないというほどの呆れた顔をしてみせる。
「……その女神様のお怒りに触れたからボコられたんだろ……」
フランシスはコーヒーに口をつけつつ決まり悪そうにへらりと笑った。
「まあねー。眠れる女神を叩き起こしちゃいけないねー」
「うげ……よくそれで首と胴体が繋がったままでいられたな……」
「神父様の眠りを妨げてたら今頃は天使とランデブーしてたかもだけど」
「そりゃ僥倖だったな」
街の外れ、港の近くにあるエーデルシュタイン教会。そこが「女神様」のおわします処ところだ。とはいえ、この街で教会など需要があるはずもなく、彼らにも聖職とはかけ離れた物騒な本業がある。
確かに、女神のご加護を賜れればあれほど安全な場所もないだろうが──。
「ありゃあ、女神っつか闘神だからな。地球でおっかない女第一位だ」
「それはナタちゃんじゃないの?」
「同率一位だな」
軽口を叩きつつも、ギルベルトの心を占めているのはルートヴィッヒのことばかりだった。「オルレアン」の二階はフランシスの住居にもなっている。まあ、住居というか、連れ込み部屋というか──時には娼婦の営業場所として貸し出したりもしているので、いかがわしさ極まりないところだが──ともかく、昨晩のフランシスは寝床をなくしていたわけだ。だが、フランシス一人が身を寄せるだけなら、アーサーの部屋でもヴァルガス邸でも、あるいは馴染みの女の部屋でも、いくらでも場所はあるはずで。
それなのに、わざわざ街外れの教会にまで行ったということは──。
「……あいつは今、……教会に……?」
コーヒーを啜りながら、ギルベルトは呟くように問うた。
「……そのつもりだったんだけどね」
含みある口ぶりにギルベルトは眉をひそめる。
「……何か、あったのか?」
フランシスは幾分申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ルーイのこと、イヴァンにバレた」
「──何、で……」
「ゆうべ、お前んとこの優秀な頭脳派にルーイの姿を見られちゃってさ」
「……エドァルドが……」
──迂闊だった。
騒動の場に居合わせた、明らかに余所者である青年。しかもフェリシアーノと──ヴァルガス家の人間と、繋がりのある人物。そもそも余所者という時点で、用心深いエドァルドが素性を調べないはずがない。
言いにくそうにしながらも、フランシスは続けた。
「それに……昨日の騒ぎを見てた奴がいたんだろうね。ちらほらとだけど、ルーイに関する噂も出回り始めてる。お前に縁のある者だって」
「──な、」
蒼褪めて言葉を失ってしまったギルベルトを気遣ってか、フランシスは努めて淡々と言葉を継いだ。
「イヴァンは、ルーイがこの街から出ていかない以上はブラギンスキ家の『保護下』に置くってさ。……まあ当然かな、幹部の家族だからね。よそに任せるわけにはいかないだろ」
「監禁……てことか……」
ギルベルトは伏し目がちに、抑揚のない声で呟いた。
ギルベルトの弟だと広く知れ渡れば、ルートヴィッヒはこの街に蠢く野心に満ちた輩の格好の餌となる。その餌でギルベルトをブラギンスキから引き抜いて味方につけることも不可能ではないのだ。イヴァンとしてはそんな人物を放っておくわけにはいかないだろう。
だからといって、弟の自由を奪うことは安易に容認できることでもなく──。
悔しげに唇を噛むギルベルトを気遣ってか、フランシスは宥めるように言った。
「イヴァンだって今更ルーイに手荒な真似しないだろ」
「そんなの、わかんねえだろ」
思いのほか刺々しい口調になってしまったことに自分でもどきりとする。
「……悪わりぃ……」
フランシスは微笑を浮かべてふるふると頭を振った。そして、ギルベルトを見上げて些か歯切れ悪く告げる。
「まあ、それでさ。……お兄さん、イヴァンに頼まれて、ルーイをブラギンスキ邸に連れてくとこなんだ」
「──え?」
「何でお前が……いや、だってよ、……重要人物の護送だぞ。普通ならエドァルドかトーリスが出向くだろ。何でイヴァンはお前に……もしかしてお前、イヴァンとやばいことになったんじゃ……」
動揺を見せるギルベルトにフランシスはふっと目を細めた。
「心配してくれんの? 嬉しいな」
「ふざけんな、俺は真面目に、」
「大丈夫だよ、何もないって。わざわざ家の人間を出向かせるより俺に連れてこさせた方が手間が省けるってとこだろ」
こともなげに言いつつフランシスはウィンクしてみせる。
「けど……」
納得していない様子のギルベルトに、フランシスはそれ以上何も言わずに微笑を向けるだけだったが──。
情報屋としてのフランシスの営業スタイルはあくまで依頼あってのことだ。依頼を受けていない以上はフランシスには何の義務も発生しない。だから、ルートヴィッヒの来訪をイヴァンに知らせなかったことで咎められる筋合いはないのだ。
という言い訳を認めてほしいところだが、ルートヴィッヒを隠匿していたことはイヴァンに良い印象を与えるはずがなかった。かといって「ギルベルトに頼まれたから」などと馬鹿正直に告げれば、イヴァンとギルベルトの間に軋轢を生みかねない。
いきさつはどうあれ、フランシスとヴァルガス家の人間、あるいは教会も含めて、それらの勢力が協力してギルベルトの弟を匿うような行動をとっていた。ブラギンスキ家には何の釈明もなしに。イヴァンが掬い取る事実はそれだけだ。
アントーニョがしきりに「ルートヴィッヒと一緒におるとこイヴァンに見つかって、痛くもない腹を探られたらかなわんわ」と言っていたが──アントーニョには気の毒だが、結果的にはそうなってしまったようだ。
とはいえ、イヴァンはブラギンスキ家のボスとして事を起こすときは慎重である。
だからおそらくは、これが最後通牒。
この指示に従わなければ、自分たちはただちにブラギンスキ家の敵と見なされるのだろう。
(まあ、死にたくもないけど惜しむような命でもなし。これぐらいスリルがあった方が人生は楽しいさ)
心中でそう呟くと、フランシスは再び口を開いた。
「でね、今、ルーイを車で待たせてんだけど」
「……それでアーサーがいたわけか」
「護衛としちゃ頼りないけど、いないよりはマシだからね」
さりげなく辛辣な言葉を吐きつつ、フランシスは単調に、真の用件を切り出した。
「ルーイがね、お前と二人で話したいって言ってるんだ」
「──っ、……俺は、何も……話すことなんか……」
ギルベルトは苦しげに俯いた。フランシスは微笑を浮かべ、ベッドから立ち上がってギルベルトに歩み寄る。
「ねえ、ギルちゃん」
フランシスは殊更に穏やかに話した。
「あの子、大きくなったね」
「……うん……」
「……会いたかっただろ」
「…………」
「ルーイも、ずっと会いたかったんだよ」
「──……で、も……」
「……うん。つらいね……でも」
フランシスは俯くギルベルトの髪を優しく撫でた。
「あの子をここから遠ざけたいなら……お前が納得させるしかないよ」
「どうだったよ、ギルベルトの様子は」
「……んー……」
運転席で煙草を吸うアーサーの質問には答えないまま、助手席のフランシスは上方に見えるギルベルトの部屋のドアをぼんやりと眺めた。今、あの部屋の中にいるのは兄弟二人だけだ。
フランシスに問うのを諦めたのか、アーサーは黙ってただ紫煙を燻らせていた。
やがて小さく息を吐き、フランシスは無言でアーサーに向けて手を差し出す。
「あ? 何だよ」
「煙草。ちょーだい」
「……はぁ?」
ゴミを見る目をしながらも、アーサーはフランシスに煙草の箱を差し出した。その箱の中にライターも押し込んである。礼も言わずにそこから煙草一本とライターをつまみ出し、フランシスは気だるげに火を点けた。
脳裏に焼きついて離れないのは、腫れた瞼。普段より一層朱に染まっていた瞳。
(泣いてたんだろうな……)
──本当に、これでよかったのだろうか。
「……不味」
数年ぶりに煙が肺に広がっていく感覚に不快感を覚えつつ、フランシスはただぼんやりと紫煙を燻らせ続けていた。
フランシスがギルベルトの部屋を訪れた頃から遡ること数時間、まだ街が闇に包まれていた頃。フランシスたち一行は、街外れにあるエーデルシュタイン教会の前にいた。
フランシスたちとアーサーたちが合流して移動先を決めるにあたり、まずアントーニョが「眉毛が言い出したことやねんから眉毛の部屋でええやん」とごねた。だがアーサーの部屋は深夜でも賑わいの絶えない繁華街にあるので好ましくないと思われた。ただでさえ余所者であるルートヴィッヒは目立つというのに、同行者がアントーニョをはじめとした街の有名人ばかりとなれば、どうしても人目を引いてしまう。ヴァルガス邸も候補にあがったが、ロヴィーノとヴァルガス家を巻き込みたくないというアントーニョの言い分を聞き入れて却下となった。そもそもアントーニョとしてはフェリシアーノを放っておけないから同行しているだけであり、ギルベルトの弟などという厄介な人物には極力関わりたくないというのが本音である。
安全で人目につきにくく、イヴァンにも知れにくく、ルートヴィッヒのことを悪用しないと信用できて、かつブラギンスキ家の名にも恐れをなさない猛者──と考え抜いた結果、というか「ま、あそこなら何か面倒ごとになっても自力で何とかするだろ」というフランシスの一声で、エーデルシュタイン教会に白羽の矢が立ったのだった。
──エーデルシュタイン教会。表向きは普通の教会だが、その本業は、街で唯一武器の売買を公認されている手配屋である。ギルベルトに「闘神」と言わしめるのはここのシスターであり、彼女は、この教会の長である貴族然とした神父の右腕でもあった。
ここに至るまでの道中、フランシスは事情を説明しようと何度かシスターに電話を入れてみたが、一向に繋がる気配はなかった。こんな夜深い時間だ、不思議ではない。そうこうしているうちに教会に到着してしまい、大の男五人はがっちりと施錠された礼拝堂のドアの前に佇み、ただひたすら途方に暮れていたのだった。
「こうなったら強行突破するしかあらへんやろ」
「ちょっとトーニョ、何で銃なんか出してんだよ!」
「これでドア開けたらええやん」
「やめときなって! フライパンじゃすまないよ!? 額に風穴開けられちゃうぜ!?」
「いや、全身蜂の巣だろうな」
「お前がな眉毛」
「何でだよ」
「眉毛やからや。潔う犠牲になれや、うっといわー」
「てめえが粉砕されろよクソトマト」
「ヴェー……跡形も残らず消し飛ばされちゃいそう……」
もめにもめる面々をルートヴィッヒは困惑して見つめていた。
そんな一悶着を経て、最終的に「正攻法でいくのがベストでしょ。……多少の犠牲は覚悟のうえで……」というフランシスの一言のもと──アントーニョとフランシスは大声を上げながら激しく礼拝堂のドアを叩き始めた。
「エリザちゃん、開けてー! エーリーザーちゃーん! 非常事態なんだよー!」
「エリザちゃーん! 開けたってーなー!」
「……ルート。下がってた方がいいよ」
いつになく深刻な面持ちで言うフェリシアーノの緊張感が伝わったのか、ルートヴィッヒは速やかにその指示に従ってドアからかなり離れたところまで退却し、フェリシアーノは更にルートヴィッヒの大きな背中の後ろに隠れた。
そうしてアントーニョたちが騒ぎ始めてしばらくした頃、ふいにガチャリ、とドアノブが回った。
「来るぞっ皆逃げろ! てかフェリ、速っ!」
「眉毛お前が犠牲になれやあああ!」
「うわ、引っ張るなよこのクソトマト野郎!」
ルートヴィッヒは、おそらくエリザと呼ばれた女性が出てくるのだろうと思っていた。だが、僅かに開かれたドアの隙間からぬっと現れたのは──、
「……フライパン……?」
すべては、一瞬の出来事だった。
「何で俺までボコられなきゃなんねえんだよ……騒いだのはお前らだけじゃねえか……」
「眉毛だから天罰が下ったんじゃねえのー?」
「お前の存在自体が罪やからな。何で眉毛のくせに息しとるん」
「腐れトマトこそさっさと土に還れよ。髭は死ね速やかに死ね」
「え、何? 減給してほしいって?」
「あ゛? ふざけ──」
「おいコラそこの三馬鹿」
凛と響く声に、今にも取っ組み合いにもつれこみそうだった男たちはびくりと凍りついた。そしてたじたじとなりつつ声のした方を見やる。そこには、おそらく神父の様子を見にいっていたのだろう、今まで場を外していたシスターの姿があった。
「静かにしなさい。でないと……」
肩に担いだフライパンをトントン、と楽しげに揺らす美女に、三馬鹿と呼ばれたアーサー、フランシス、アントーニョは縮こまって愛想笑いを浮かべるしかなかった。三人とも先程まで冬の夜空の下に気絶したまま放置されていたのである。さすがに再びあの強烈な一撃をくらって外に放り出されては命に関わる。男たちは恐怖と未だおさまらぬ寒気に身体をぶるりと震わせた。
フライパンは手放さないまましずしずとソファに腰かけるシスターに、アントーニョは機嫌を伺うように声をかけた。
「ロディは? 寝とったんか?」
「おやすみだったわよ。じゃなきゃあんたたちが無事ですむはずないでしょ」
シスターの言葉を聞いてフランシスはほっと胸を撫で下ろす。
「よかった、命拾いしたな……てかエリザちゃん、今日はコスプレしてないんだ」
「コスプレじゃないわよ、修道服は正装よ」
身体の線が出るぴったりとしたTシャツにハーフパンツというラフな格好のシスター──エリザベータ・ヘーデルヴァーリは、呆れたようにフランシスを見やった。
「いつものシスター服も禁欲的で逆にそそられちゃうけど、今日のそのカッコもセクシーで……ごめんお茶目なフレンチジョークじゃん」
エリザベータの背後から近づいてその耳元で囁いていたフランシスは、フライパンを眼前に突きつけられて口の端を引きつらせた。
フェリシアーノは苦笑いを浮かべてその様子を眺めていたが、やがて宥めるようにエリザベータに声をかける。
「ヴェー、エリザさん、そのへんで勘弁してあげて? フラン兄ちゃんたち、俺たちのためにここへ来たんだからさ」
「いいのよ、フェリちゃんたちは気にしないで。この三馬鹿は許さないけど」
「何でやねん」
「何ででもよ、中に入れてもらえただけでもありがたいと思いなさいよ」
エリザベータは忌々しげに鼻を鳴らした。
「フェリちゃんとお友達はいいけど、あんたたちみたいなのが入ると天罰が下るわよ」と言い放つエリザベータの指示で、フランシスたち一行は礼拝堂ではなくその裏にある応接室に通された。アントーニョやギルベルトが「商談」の際に訪れる部屋でもある。商談はエリザベータではなく神父が対応するのだが、神父とギルベルトは稀に見る犬猿の仲であるために商談がスムーズに運んだためしは一度もない。神父の傍らに控えているエリザベータのフライパンにより強制終了されるのが恒例だ。
その応接室の中央にあるソファにフェリシアーノとルートヴィッヒは隣り合わせに座っており、ガラステーブルを挟んだ斜め向かいにエリザベータが、そしてその隣にフランシスが腰かけた。アントーニョはエリザベータに見咎められながらも、部屋の隅に置いてある「商品」を眺めたりして落ち着きなく動き回り、アーサーは壁際で少し空いた窓の隙間から煙草の煙を逃がしていた。
「ちょっと、アントーニョ。商品には触らないでよ」
「わかっとるよ、見とるだけや」
ったく、ガキかよ潰すぞ、と小さく吐かれたエリザベータの悪態をルートヴィッヒは聞き逃さなかったが、今更その程度のことでは動じなくなっていた。
「それにしても、驚いたわ」
エリザベータはルートヴィッヒをまじまじと眺めた。
「あなたがあの馬鹿一号の弟だっていうの?」
「……馬鹿一号ってのがギルベルトのことなら、そうだな」
エリザベータの質問に答えを返したのはアーサーだ。
「あら、馬鹿一号ってそんな名前だったのね、知らなかったわ。──あんたたちは適当に二号から四号ね」
「何やねんそのネーミング……ガキなのはどっちや」というアントーニョの呟きはフライパン強打の音にかき消えた。
「つーか、とっとと本題に入ろうぜ」
うんざりとした面持ちで手元の空き缶に吸殻を放り込むと、アーサーはルートヴィッヒに視線を向ける。
「事情を聞かせろっつったよな、ルートヴィッヒ」
「ああ……だが……」
口ごもりながら、ルートヴィッヒは居合わせた面々をぐるりと見渡した。
「その……あなたたちは大丈夫なのか?」
「何が?」
きょとんとするエリザベータに、ルートヴィッヒはためらいがちに言った。
「……俺と一緒にいることは、あなたたちにとって不利益になるのかもしれないのだろう?」
「ルート? お前、まさか」
続きを遮るように、ルートヴィッヒは傍らのフェリシアーノに向き直って言葉を継ぐ。
「ここが危険なところだということはよくわかった。だが、フェリシアーノ、お前に……お前の大事な人たちにも迷惑をかけたくはないんだ。俺はとにかく、兄さんにもう一度会ってちゃんと話をしたい、だから兄さんの居場所さえ教えてもらえれば、後は俺一人で行動した方が……」
「ダメだよ、ルート」
ふいに、くすくすと笑い声が上がった。エリザベータだ。自分に集まる不思議そうな視線に謝るようにエリザベータは肩を竦めたが、その声音は楽しげだった。
「ねえ、ルートヴィッヒ君、あなたほんとにあの馬鹿と兄弟なの? あいつがこんな殊勝なとこ見たことないんだけど」
ひとしきり肩を揺らすと、エリザベータは微笑して続けた。
「逸る気持ちは察するけど、落ち着いてちょうだいね。フェリちゃんの友達を一人で放り出すなんてできないわよ。どうせ泊まるところもないんでしょ?」
「うん……俺の家か、家と繋がりのあるホテルに泊まってもらおうと思ってたんだけど……」
そこで言葉を切ると、フェリシアーノはちらりと部屋の隅を見やった。その視線の先には、フライパンで殴られた頭をさすりつつしゃがみこむ男がいる。その男とフェリシアーノの視線がかち合うが、すぐさま互いに気まずげに逸らしてしまった。「オルレアン」での諍いを引きずっているのか、合流してから今までフェリシアーノとアントーニョが言葉を交わすことは一度もなかった。
「……なるほどね」
フェリシアーノの目線の先を確認したエリザベータはすぐに状況を把握したらしい。
「ヴァルガスとしては今はブラギンスキと事を構えたくないわよね。馬鹿三号もフェリちゃんとロヴィちゃんをむやみに危険にさらすわけにはいかないものねえ」
「俺は三号か」
「二号の方がよかったかしら?」
「……どーでもええわ……」
アントーニョは心底どうでもよさそうに乱暴に頭を掻いた。エリザベータはそれには横目で一瞥をくれただけで、すぐにルートヴィッヒを真っ直ぐに見据えて言った。
「巻き込まれちゃった感は否めないけど……ルートヴィッヒ君、あなたの素性を知ったうえでこうしてる以上は当教会も『無関係です』じゃすまないし……いいわ。あなたがこの街にいる間の居場所と、身の安全は保証してあげる」
「だが……」
反論しようとするルートヴィッヒを制してエリザベータは続けた。
「あなたみたいないい子なら、ローデリヒさんも快諾してくださるわよ。だからとにかく、単独行動だけはやめてちょうだい。その方が迷惑だわ」
歯切れのよいエリザベータの言葉に気圧されたのかルートヴィッヒはしばし言葉に詰まっていたが、やがて僅かにではあるが頬を綻ばせた。
「……すまない」
「この場合、『すまない』じゃなくて『ありがとう』でしょ」
「ああ……ありがとう、エリザベータさん」
「よろしい」
満足げに微笑んで「コーヒーでも淹れましょうか」とエリザベータは席を立つ。だが、その顔が切なげに歪んでいるのをフランシスは見逃さなかった。エリザベータとてわかっている──再会を果たした兄弟の行く先に暗雲が立ち込めていることは。それを何一つ心を痛めずに傍観者として見過ごせるほど無情ではない。──だが、兄を求める弟の背中を押してやるにはエリザベータは内情を知りすぎていた。おそらく彼女は、そんなどっちつかずの態度しか取れない自身を口惜しく思っている。
応接室を出ていくエリザベータの後ろ姿を見送って、フランシスはルートヴィッヒに問いかける。
「なあ、ルーイ。お前、アーサーたちからどこまで聞いた?」
ルートヴィッヒは困惑した顔でフランシスを見返した。
「どこまで、とは?」
「ギルのこととか、この街のこととか……あ、その前に言っておくけど……」
そこで一旦言葉を切ると、フランシスは微笑を消して真剣な声で告げた。
「ルーイ、お前がここで見聞きしたことは他言無用だからね」
「いらんこと喋ってまわったら消されるだけや。俺らのお仲間は世界中どこにでもおる」
ふらりと立ち上がりつつ、アントーニョは俯きがちにぼそぼそと呟いた。
ブラギンスキ家もヴァルガス家も巨大な組織ではあるが、どちらも所詮「支社」に過ぎないのだ。組織の全体の規模や頂点の者の正体などはギルベルトやアントーニョはもちろん、ファミリーのトップたるイヴァンやロヴィーノですら与り知るところではないし、また知る必要もなかった。
「そういうこと。いいね?」
念を押すフランシスに、ルートヴィッヒは真剣な面持ちで頷くと訥々と話し始めた。
「……俺が聞いたのは……兄は、ブラギンスキファミリーというマフィアのボスの右腕であること、フェリシアーノの実家、ヴァルガス家はブラギンスキ家と敵対関係にあるが、今は休戦中で……だからフェリシアーノは兄とも交流がある、と……それとフランシス、あなたが情報屋であることぐらいだ」
「俺もフェリシアーノも、知ってることはそれぐらいだからな」
アーサーがぶっきらぼうに言う。
「右腕っちゅうか、愛人やろ」
独り言のように小さく零れたアントーニョの呟きに、ルートヴィッヒは目を見張る。
「ちょっと、トーニョ」
たしなめる口調で言いつつフランシスがアントーニョを振り返ると、アントーニョは拗ねたようにそっぽを向いてしまった。その様子にフランシスはやれやれ、といったふうに肩を竦め、再びルートヴィッヒに向き直る。
「愛人っていうと聞こえ悪いけどさ。まあその、二人は、何ていうか……」
言葉を濁すフランシスに、ルートヴィッヒはためらいがちに問うた。
「……愛人? 兄さんが?」
「……あはは……えーと、うん、ルーイ、そんな曇りなきまなこでお兄さんを見つめないで……」
「事実、なのか?」
「……えーと、だからね……その……」
「恋愛関係にあるかってことなら、否定も肯定もできないわ」
凛とした声が響いた。返答に窮しているフランシスに助け舟を出したのは、コーヒーを淹れて戻ってきたエリザベータだった。
白く湯気の立つ人数分のカップがテーブルの上に手際よく置かれていく。口々に礼を告げ、アーサーとアントーニョもテーブルに近づいてカップを手に取った。コーヒーの香ばしい匂いが部屋の中を満たしていく。さしものアーサーも、この状況では「俺は紅茶しか飲まない」などとは言い出さなかった。
コーヒーカップを乗せてきたトレイを壁際の小さな書棚の上に置くと、エリザベータは再び元々座っていたソファに腰を下ろした。
「……どういうことだ?」
ルートヴィッヒは、エリザベータの言葉でますます困惑したようだった。だがフランシスは「エリザちゃんの言うとおりって感じかな。……複雑なんだよ、あいつらは」と苦笑を浮かべるばかりだった。やがて少しだけ硬い表情になると、フランシスは静かに言葉を継いだ。
「確実に言えるのは、ギルはイヴァンに雇われてるってことだけ。厳密に言うならギルはブラギンスキファミリーの一員じゃないってことさ。とは言っても、ギルのやってることは他のブラギンスキ家の奴らと同じなんだけど」
「ヴェー、俺、そのことずっと不思議だったんだー」
ふいにフェリシアーノが口を挟んだ。
「……何がだ?」
ルートヴィッヒは不思議そうにフェリシアーノを見つめる。その青の視線を受け止めつつ、フェリシアーノは思案しながら話し始めた。
「うん、ブラギンスキ家とウチは一口にマフィアっていっても全然タイプが違うんだ。俺の爺ちゃんって世話好きだったからさー、揉め事収めたりとか仕事の斡旋とか、主にイタリア系の人たちの相談役みたいなことしてて。それで爺ちゃんを慕ってきた人たちやその家族とかの集まりが大きくなって、何となくマフィアになっちゃった、て感じなんだけどー」
「……『何となく』でマフィアになるのか……」
「はは……でも、フェリの爺さんらしいよ」
頭を抱えるルートヴィッヒを見てフランシスは苦笑を滲ませる。
「他に行き場も食う術すべも何もない奴らばっかりやからな。しゃあない……て言うたらあかんのやろけど、それが手っ取り早い食い扶持の稼ぎ方やったんや。……俺も、爺さんに拾われたクチや」
その声の主は壁際にある背の低い書棚にだらりと座り、エリザベータが淹れたコーヒーを啜っていた。フェリシアーノはその言葉に耳を傾けつつ微かに切なげに笑んだが、気を取り直すようにへらりと笑うと再び話し始めた。
「ウチはそんなんだから割とユルいんだー。いつの間にか仲間になってたり『農業で食べてく』って故郷に帰っちゃう人もいたりね。でも、ブラギンスキ家は全然違ってて。ボスも部下たちも代々続いてる家系で、一旦ファミリーに入れば抜けることなんて許されない。ボスには絶対服従、裏切り者には死を、みたいなガチガチな感じなの」
ルートヴィッヒは苦しげに眉をひそめてしまう。それを見てフェリシアーノは些か慌てたようだった。
「あ、でも、イヴァンとギルベルトは全然そんな感じじゃないよ。ただ、そんな家だから、形式上だけとしても、側近を外部から雇うなんてすごく異例じゃないのかなって思ってさ」
思案顔でフェリシアーノの話に耳を傾けていたフランシスは、テーブルのコーヒーカップをそっと手に取り、それに視線を落としつつ静かに言った。
「ギルが提案したことだ。そしてイヴァンもそれを受け入れた」
「何でそんなことになったの?」
「……理由、が必要だったんじゃないかな……あの頃は……」
翳りを帯びたフランシスの表情を見てフェリシアーノとルートヴィッヒは気まずげに視線を交差させる。
「ファミリーに入るってことはイヴァンに忠誠を誓うってことだろ? 形式上だとしても、ギルベルトはそんなこと嫌だったんじゃねえのか」
アーサーはやたらと険のある口調で続けた。
「それに、どんなに嫌いな奴でも『雇用主だから我慢するしかない』って自分を納得させられるからな」
「そうだね……それもひとつ、だろうけど……てか坊ちゃんは何でお兄さんをガン見してんの」
「言外の意味を汲み取っていただきたいものだな、雇用主さんよお」
「言外ってかはっきり言っちゃってるじゃん。お兄さん、概ねいい雇用主だと思うけど?」
突き刺さるアーサーの視線に、フランシスは不服そうに口を尖らせる。
「……つまり……兄さんは、望んで今の立場にいるわけではない、と……?」
おずおずと疑問を口にしたのはルートヴィッヒだった。真剣な青の視線に、フランシスは柔和な、だがどことなく悲しげな笑みを返した。
「アーサーが言ったことも確かにその通りなんだろうけど……そんなこじつけとも言える提案を呑ませてまで、ギルはイヴァンのそばにいようとしたってのもあるんだよ。望むとか望まないとか……好きとか嫌いとかさ。一口じゃ言えないんだ、あの二人は。多分、本人たちもよくわかんなくなってんじゃないかな」
「そうかしら。根っこのところはわかりやすいように見えるけど」
エリザベータは物言いたげな視線をフランシスに向ける。フランシスは数瞬考えこんだが、やがて思いついたように言った。
「根っこっていうのは地中深く埋もれてるじゃない。だから見えにくいんじゃないの、当人たちには」
「掘り起こす度胸がないだけじゃなくて?」
「……はは、辛辣だねえ……」
他の面々が自分たちのやりとりにぽかんとしていることに気づき、フランシスは「まあ、感情的なところを第三者がどうこう言っても詮無いよね」と肩を竦めてカップを手に取り、コーヒーを一口啜る。そして小さく息を吐いて言葉を継いだ。
「とにかく、そういう異例の提案を受け入れてまでイヴァンはギルベルトをそばに置きたがった。それだけイヴァンはギルベルトに執着があるってことは確かだ」
悔しげに唇を噛むルートヴィッヒを見て、件の悪友もよく同じ仕草を見せることをフランシスは思い出す。だが──
「でもそれだけじゃなくて……ルーイ、お前も見たろ、ギルの大立ち回り。あの力は、今やブラギンスキ家にとって欠かせない戦力なんだよ。だから……」
一旦言葉を切ると、フランシスはカップをそっとソーサーに戻す。そして自分の膝の上でそっと両手を組み合わせた。
「落ち着いて聞けよ、ルーイ」
──これから告げなければならない話は、ルートヴィッヒにはきっと酷なものだ。とっとと逃げてしまった悪友を恨みたくなる程度には嫌な役回りだが──
フランシスはとりわけ淡々と、感情を殺すように言葉を紡いだ。
「俺は──イヴァンがギルを手離すことなんて、ありえないと思う。もしお前が、また兄弟で元のように暮らしたいと望んでるなら……そんな希望は捨てた方がいい」
「おい髭、てめえ、」
フランシスを咎めるアーサーの声と同時に、ルートヴィッヒはがたん、とソファから立ち上がった。
「──兄さんを見捨てろと……? こんな危険な状況にいる兄さんを見殺しにしろというのか? このまま諦めろと!?」
ほとんど悲鳴のような怒鳴り声。エリザベータやフェリシアーノは苦しげに俯き、アーサーは顔を曇らせる。アントーニョは無表情のまま、壁際で煙草を吸っていた。
「やっと……やっと、会えたというのに……」
「わからんやっちゃな」
冷淡な、スペイン語訛りの声が響いた。
「あいつは、昔のあいつやない。──お前の兄貴は、もうおらんのや」
ルートヴィッヒは声の主を睨みつけた。冷たいペリドットの瞳は真っ直ぐに青の視線をとらえた。両者はしばし睨みあったが──やがてルートヴィッヒは視線を逸らして掌で顔を覆ってしまうと、まるで縋るように言葉を絞り出した。
「……俺のせいだ……俺のせいなんだ、俺があのとき、」
「転ばなかったら、って?」
その不可解な発言に、一同の視線がフランシスに集まった。それは、ルートヴィッヒも例外ではなかった。
呆然と突っ立っているルートヴィッヒを見上げて、フランシスは優しく言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「それは違うよ、ルーイ。お前は悪くない。ギルだって、命がけで守ったお前がそんなふうに自分を責めてるなんて知ったら、きっと悲しむよ」
「フランシス……?」
言葉を失っているルートヴィッヒに代わるようにエリザベータがその名を呼んだ。フランシスはエリザベータを一瞥してこくりと頷くと、再びルートヴィッヒを真っ直ぐに見上げてはっきりと告げた。
「……俺、十四年前にお前たちに何があったのか……知ってるんだよ」
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