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「───エリス。今日でちょうど一年だな」
重厚なマホガニーの執務机の向こう側で、アビス侯爵が書類から目を上げずにそう告げた。
羽根ペンが羊皮紙を走るカリカリという音だけが室内に響き、張り詰めたような静寂を際立たせている。
窓の外では、沈みゆく夕日が王都の街並みを赤く染め上げ、燃えるような茜色が部屋の中まで侵食していた。
その残光が、彼の艶やかな茶髪を琥珀色に縁取っている。
彫刻のように整った鼻梁に、長く濃い睫毛。意志の強そうな薄い唇。
相変わらず、絵画から抜け出してきたような、一分の隙もない美貌だ。
一年間、毎日欠かさず近くで仕えてきたはずの私でさえ、時折その完成された造形美に、心臓が跳ねて息を呑みそうになることがある。
「はい、主様。お約束の期日となりました」
私は背筋を伸ばし、一ミリの狂いもない、訓練の賜物である慣れ親しんだ角度で一礼した。
一年前、父がギャンブルで作った莫大な借金。
利子が膨れ上がり、首が回らなくなって路頭に迷いかけていた私に、救いの手を差し伸べてくれたのが彼だった。
提示された条件は、あまりにも奇妙で、あまりにも破格なもの。
『一年間、俺の身の回りの世話をすること。そして、言い寄ってくる令嬢たちから俺を完璧にガードすること』
以来、私は「鉄壁の侍女」として、彼の無茶振りに応え続けてきた。
華やかな夜会では「氷の公爵」と恐れられる彼の斜め背後に控え
色香と毒を振りまいて突撃してくる令嬢たちを、完璧な笑顔と冷徹なマナーで鮮やかに撃退する日々。
真夜中に「眠れない」と呼び出されれば、彼の気が済むまで書類整理に励み、彼が好む適温────
熱すぎず、ぬるすぎない絶妙な温度のハーブティーを淹れた。
(……ああ、もう、今日で終わりなんだ。本当に)
思考の端っこで、胸の奥がチリリと焼けるように痛む。
正直、寂しくないと言えば嘘になる。
社交界では冷徹で血も涙もないなんて噂される彼だけれど、二人きりの時にだけ見せる
どこか子供じみた我儘や、ふとした瞬間にこぼれる柔らかな微笑みを、私は決して嫌いではなかった。
むしろ、そのギャップを知っているのは自分だけだという誇りさえ、心のどこかにあったのかもしれない。
けれど、私はあくまで雇われの身。
借金を完済し、父との縁も切れた今、この屋敷に留まる理由は、契約書上のどこにも存在しない。
「これが、最後のお茶になります」
私は震える指先を隠し、慣れた手つきでティーカップを置いた。
彼がお気に入りの───といっても、実は私が街の雑貨屋で見つけてきた、なんてことのない安価なティーバッグの紅茶だ。
最高級の茶葉よりも、この安っぽい香りの方が落ち着くと言い出したのは彼の方だった。
湯気が揺れる中、彼が大切にその香りを吸い込むのを、私はまぶたに焼き付けるように見守る。
「……最後、か」
アビス様がようやく顔を上げた。
その鋭く、深い海のような、どこまでも冷徹で美しい青い瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
彼はふっと視線を落とすと、手元の引き出しを静かに開き、小さなベルベットの箱を取り出した。
深い紺色のその箱は、夕闇が迫る部屋の中で奇妙な存在感を放っている。
「エリス。これは、君への贈り物だ」
「贈り物……?報酬か何かですか?契約書にある報酬はすでに頂いております。これ以上頂く理由はありませんよ…?」
「いいから、受け取ってくれ。俺の気が済まない」
相変わらずの強引さに、困った人だと苦笑いしながら、私は差し出された箱を受け取った。
そっと蓋を開けた瞬間、私は呼吸の仕方を忘れた。
夕日の光を吸い込んで、めまいがするほど輝く大粒のダイヤモンド。
それを支えるのは、職人の魂がこもったような繊細な細工が施されたプラチナの台座。
窓から差し込む斜陽がそのカットに乱反射し、図書室の壁に無数の小さな光の粒を散らしている。
「…………えっ?」
声が裏返った。
退職金にしては、あまりにも……というか、どう見ても、社会通念上どう考えてもこれは。
「主様、あの、これ、指輪……ですよね? しかも、その、左手の薬指にちょうど良さそうなサイズの……」
「そうだ。宝飾店に出向き、君に似合うものを選んだんだ」
アビス様は椅子からゆっくりと立ち上がり、獲物を追い詰める肉食獣のような、優雅でいて逃げ場を許さない足取りで私の前に歩み寄ってきた。
彼が近づくたびに、私のお気に入りの、けれど彼特有の体温と混ざり合ったサンダルウッドの香りが鼻をくすぐり、心臓が爆音を立て始める。
目の前に立つ彼の長身が、夕日を背負って大きな影を私に落とした。
「エリス。俺は、君を離したくない」
「……はい? どういう、意味、ですか……?」
「この一年、君の代わりなどこの世界のどこにもいないと痛感した。俺が安らかに眠れるのも、この紅茶を美味いと思えるのも、君がそばにいる時だけだ」
彼は私の自由な方の手を取り、指の隙間に自分の長く節くれだった指を滑り込ませた。
逃がさないように、熱く、強く絡められる。
その肌からダイレクトに伝わる熱さに、私の思考は一瞬にして真っ白に塗りつぶされた。
氷の公爵と呼ばれた男の手が、こんなにも熱いなんて知らなかった。
「契約終了のはずだったが、申し訳ないが予定変更だ。エリス……俺の妻になってくれないか?」
「………………はいっ!?」
あまりの衝撃に、持っていたトレイを床に落としそうになった。
素敵な主様だとは思っていた。
人として、雇い主として、深く尊敬もしていたし、密かな憧れだってあったかもしれない。
でも、まさか、あの超エリートで、社交界随一の女性嫌いと名高い侯爵様が
ただの借金まみれだった元貴族の使用人にプロポーズするなんて、誰が想像できるだろう。
「す、す、少し……少しだけ、考えさせてください……!」
私は真っ赤に茹で上がった顔を隠すように叫ぶと
絡められた手を振りほどき、彼の返事も待たずに、脱兎のごとく執務室を飛び出した。
バクバクと心臓の音がうるさくて、耳の奥まで痛い。
けれど、今の私には、それを確かめるために振り返る勇気なんて、これっぽっちも残っていなかった。
ただ、心臓の音だけが、ありえない結末を告げるように鳴り響いていた。
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