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千代は居間で将臣にお茶を出すと、音を立てぬよう静かに襖を閉めた。
廊下の隅には、結丸がちょこんと座り、千代を見上げていた。千代はそっと口元に指を立てた。
「今は静かにね。あっちで小魚、食べましょう」
「にゃ」
結丸は千代の後を追う。けれど、一度だけ、閉じられた襖を振り返った。
将臣の前には、凪と源一郎が硬い表情で座っている。
凪の膝の上の手が、ぎゅうっと着物の布地を握りしめていた。
息の詰まるような沈黙の中、源一郎が口を開く。
「安藤殿。……凪を迎えに来てくださったのですか」
「いいえ」
将臣の短い答えに、源一郎は驚いて目を丸くした。
凪も眉を寄せたが、言葉は発しなかった。
「私は軍を退官し、家を出てまいりました。現在は、身分も職も持たぬ身です。ですから……今すぐ凪さんを妻として迎え入れることはできません」
(軍を……辞めて……家を出た!?)
凪の指先に、さらに強い力がこもる。
源一郎は目を伏せ、首を振った。
「……そんなことをして、これからどうするつもりかね」
将臣は二人をまっすぐに見据えた。
「私は、もう二度と、自分に嘘はつかないと決めました」
そして凪にだけ、そのまっすぐな瞳を向ける。
「私が凪さんを妻にしたいと願ったことだけは……決して嘘ではありません。私の本心です」
「将臣様……」
凪の瞳が大きく揺れる。
「過酷な戦地で、心が折れそうになった時……凪が作ってくれた結菓子が、私を救ってくれました。無事に戻れたら、何があっても必ず凪に会いに行くと……そう心に決めていたのです」
静かに、だが腹の底に響く声だった。
「朔也を救えなかったからといって……そこまで無理をしなくてもいいのですぞ……」
源一郎が胸を痛めるように呟くと、将臣は苦しげに唇を噛み締めた。
「今は信じていただけなくても構いません。信じてもらえるよう、私はこれからただの『医師』として、一からやり直す覚悟です」
将臣の気迫に満ちた視線を受け、凪は金縛りに遭ったように動けなかった。その強い眼差しが、自分の胸を突き刺してくるのがわかる。
「凪。この先、私がどう生きるかを見てほしい。……それから、決めてほしい」
(ただの医師として、町の人を救う……。それは、将臣様がずっと望まれていた姿……)
凪はどう答えていいかわからず、胸の動悸を抑えるように視線を彷徨わせた。
「この近くの空き家を借り、仮設の医院を開こうと思っています」
源一郎がすぐさま反応した。
「なら、ここを使ってくれ。ちょうど、店の奥が空いてしまったからな」
(……ここで……一緒に……?)
戸惑う凪の表情が硬直する。
だが、将臣は静かに、けれど強く首を振った。
「私はこれ以上……桐谷の家から好意をいただくわけにはいきません」
「それは……どういう意味でしょう?」
源一郎の声が、一段と低く沈んだ。
将臣は深く息を吸うと、居住まいを正し、両手を畳についた。
「安藤殿……?」
二人が怪訝な顔になる。
すぅっと、将臣の頭が低く下がっていった。
「私は……ずっとお二人に、隠していたことがあります」
「……」
二人は息を止め、ただ黙って将臣の言葉を待った。
将臣は唾をごくりと飲み込んだ。震える指先をぎゅっと畳へ押しつけ、額を畳に擦りつける。
「将臣様、顔をお上げくださいっ」
凪が慌てて止めに入ろうとした。だが、将臣は頭を深く下げたまま、強く横に振った。
「……桐谷は……っ!」
一瞬、将臣の喉が詰まり、ギュッと強く目を瞑った。
その切迫した痛々しさに、凪も源一郎も息を殺して見ていることしかできない。
そして将臣が、絞り出すように重い言葉を吐き出す。
「私の身代わりとなって──桐谷は死んだのです」
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