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────話もまとまり、翌日の朝。
部屋でアッシュの傍から離れないアベルが、ずっと耳をぺたんと折ったまま元気がない。傷も癒えたし、呼吸も安定してはいるが、アッシュの肉体的な疲労が取れ切るまで、起きるのは難しい状態だ。
長く揃って生きてきた二匹の関係の強さに、ヒルデガルドは申し訳なさを覚えながら外の景色を眺める。どこまでも鬱蒼と広がる森には、なんとなく覚えがあった。
「……ああ、思い出した。シャブランの森だ」
ポーションの精製に勤しんでいたイーリスが顔をあげる。
「シャブランの森?」
「そうだ。たしかここには、魔物がいない」
大自然だ。本来であれば魔物──特にコボルトやゴブリンなど低級の──がいてもおかしくはない整った環境で、なぜだか一匹もいない。過去にヒルデガルドが薬草を採取するためにやってきたとき、数日間も野宿をしながらの作業で、ただの一度も遭遇せず、軽く調査をした結果、森の大気に流れる魔力が彼らに悪影響を及ぼすのだと分かった。
「かなり運が良かったな。ここに飛空艇が落ちたなら、乗客も全員が安全に過ごせるというわけだ。とはいえ、熊や狼といった普通の獣が出ることもあるから、もちろん警戒をしておく必要はあるだろうが」
イーリスが首を横に傾けた。
「じゃあ、どうしてアベルたちは平気なの?」
「うむ、そのあたりは少し小難しい話になるな」
湯気の昇るカップに入ったコーヒーをひと口飲む。
「魔物たちには人間とはやや違う性質を持った魔力がある。彼らが自然という環境で生きるうえで重要な、いわゆる病気にかかりにくい体質であったり、身を鋼のように守ってくれる大切なものなんだ。だから、暮らす環境次第で性質が最も適した状態に変化する。……ま、つまり人間社会で生きていると、我々に近い魔力になるわけだ。これを〝順応〟あるいは〝適応〟と呼んでいる」
ぽん、と手を叩いてイーリスは納得した顔をする。
「なるほど。だから、今のアベルたちは森の影響がゼロに近いんだ」
「ああ。せいぜい体が少し重く感じるくらいだろうな」
いつまでもジッとしているのは性に合わず、ヒルデガルドは立ち上がって、空になったカップをテーブルに残して部屋を出ようとする。
「どこか行くの?」
「気分転換に。外の空気が吸いたい」
「……そうだね。ボクも行こうかな」
閉じこもっているだけでは精神的に壊れてしまいそうだった。今はしずかな飛空艇の空気が、騒動の渦中で命を落とした者たちの賑わいを思い出させたから。
前に進まなくては、と思いながらも、クレイグと交わした言葉が何度も頭の中で繰り返される。彼の勇姿を見たイーリスは、特に傷ついていた。
デッキに出た二人を風が優しく吹いて出迎える。
「あら。こんにちは、ヒルデガルド様。それにイーリス様も」
「ティオネ。君が魔塔のローブを着てるのは久しぶりにみるな」
魔塔の所属でもあるティオネが持つローブは、他の魔導師たちと比べて着心地が良く、とても温かい。濃い青のローブに金の縁取りをした、見るからに高価なものだ。値打ちのあるものが好きなわけではないが、見栄として必要だった。
「中も楽な服装になってましてよ。あまり顔を出せていなくて申し訳ありません、ヒルデガルド様。なかなか忙しくて、研究に興味はあるのですけれど」
「無理に混ざる必要はないさ。ところで君はここで何を?」
神妙な顔で周辺を見渡していたティオネが、小さな声で。
「ヒルデガルド様がおっしゃったように、誰かに仕組まれた事故の可能性があると思って独自に話を聞いて回っていたのです。けれど、皆様、口を揃えて知らないと言うばかりで、有益な情報は何も。ただひとつだけ変なことが」
腕組みをして、ぽつりと。
「香水の匂いが強い気がするんです」
「……香水の匂い? 貴族の誰かがつけていたとかでは」
「いいえ、そうではないのです」
ティオネはかぶりを振る。
「二階の非常電源室の近くにいたときから、ずっと香りは漂っておりました。わたくし、匂いに関しては分析能力が高いんですのよ。それで出所を辿ったのですが……痕跡は吹き飛ばされた一階。メインの動力室に最も強く漂っておりました」
思わず聞き返したくなるような話をティオネは続けた。
「おそらく、何者かが動力室を吹き飛ばしたあとで確かめに来たのでしょう。完全に使い物にならなくなったかどうか、あるいはそれ以外の目的か。わたくしにはそこまで分かりませんが、少なくとも犯人は乗客に扮していた可能性が高いですわ」
ただ、とティオネは付け加える。
「忽然と、動力室の中から香水の匂いが、途切れてるんです。引き返した痕跡がない。ヒルデガルド様には理由がお分かりになりまして?」
第三者の僅かな痕跡。アバドン以外でヒルデガルドに気取られず、飛空艇に乗っていても目立たなかった何者か。その後を追える可能性を掴んだ。予想はあるが、どこの誰が企てたものかをハッキリさせられるかもしれない。
「わかった。動力室へ行って調べてみよう」