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今日は洋室のドアを押す手が、やけに軽く感じられた。
「失礼いたします。お呼びでしょうか、お父様」
薫子は胸を弾ませ、三日月の目で父を見つめた。
父は舶来の革ソファに深く腰掛け、煙草の煙をゆらしている。小太りの体型に、冷ややかな細い目。普段は寡黙だが、一度癇癪を起こせば容赦のない人間だった。
薫子には、呼び出された理由がわかっていた。
将臣様との見合い──いいえ、正式な婚約に違いない。
我慢できず、つい口元が綻ぶ。
幼い頃から「美しい」と褒め続けられてきた、この三日月の目。勝負の場面で無意識に作る癖がついていた。
「薫子。お前に軍医との縁談を組んだ」
「まあ……嬉しいわ」
薫子は口元に手を添え、可愛らしく目を瞬かせる。
「安藤将臣様は……ずっと私の憧れの方でしたから」
だが、浮き立つ娘に、父は冷酷な一言を叩きつけた。
「何を言っとる。あの男は軍を辞めた。もはや何の価値もない男だ」
「……え?」
薫子の顔から、無邪気な笑みが一瞬で消え失せた。
「では……軍医とおっしゃるのは……?」
「これが縁談相手だ」
父が卓の上に一通の釣書を投げ置いた。
薫子が恐る恐る写真を覗き込む。
「……ひぃっ!?」
悲鳴を上げて思わず顔を背けた。
ボサボサの長髪が前髪に張り付き、着ている背広はハリもなくシワだらけ。
(汚い……!!)
「不潔ですわっ……こんな方と!? 冗談でしょう!?」
「二ノ宮殿は帝国大学卒。将来、軍医総監も夢ではない優秀な男だ。家柄も申し分ない」
薫子は言葉を失い、必死に頭を振った。
「お前が望んでいた条件は、すべて揃っているはずだ」
「私はっ……! 総監の妻になりたいわけではありませんっ!!」
必死に叫んだが、父の射抜くような冷たい視線とぶつかり、途端に言葉が喉に詰まった。
「千条家の娘には『家の役目』がある」
父の細い瞳が、ギラリと光る。
昔から、残酷な決断を下す時の目。
薫子の背筋を、冷たい悪寒が駆け抜けた。
「だからこそ、莫大な金をかけてお前を教育してきたのだろう?」
いつもなら従順に従ってきた。だが、今回は自分の人生のすべてがかかっている──。
「……私は将臣様をお慕いしております……! だから……っ」
「だから、何だ?」
父の静かな一言。
薫子の息が止まる。
「私は……好きなお方とっ……!」
「薫子」
父の重低音が、薫子の芯を揺さぶる。
蒼白になる薫子に、父は冷ややかに言い放った。
「恋愛ごっこは、終わりだ」
薫子は凍りついた。
「もう決めたことだ。拒否は許さん」
父の細い目が、すうっと三日月を形作る。
(この目……何を言っても、無駄だ……)
薫子は震える指を畳につき、ゆっくりと頭を下げた。
「……承知いたしました。謹んで……お受けいたします……」
部屋に戻った薫子は、鏡台にかけてある絹の布をそっと外した。
引き出しからあの簪を取り出し、自らの髪に差し込む。
(私は、千条家の『取り引き材料』でしかなかった……)
「でも……こんなに完璧に生きてきたのよっ!? なのにっ!!」
眉を吊り上げ、目が血走る。奥歯を強く噛み締めると、前歯がむき出しになった。
しかし──。
ふと、写真に写っていたあの身窄らしい二ノ宮の姿が脳裏をよぎり、一気に激しい寒気に襲われた。
「ひぃっ!!」
素早い動きで髪から乱暴に簪を引き抜くと、目の前の鏡に向かって思い切り投げつけた。
ガッシャンッ──と、大きな音を立てて、鏡が細かく砕け、床へ飛び散った。
その歪な破片たちに、薫子の三角形に吊り上がった目が、幾重にも醜く映し出されていた。
夏目莉央
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