秋の気配が感じられる季節となっていた。
あの夜からずっと、みなみは山中の答えを待ち続けている。常に携帯電話を気にかけ、落ち着かない日々を送っていたが、ふた月目に入った近頃は諦めの心境になりつつあった。そんなことをする人ではないと思いながらも、このままなかったことにされてしまうのかと、浮かんでくる不安を払いのけきれない。待つのはやめてこちらから電話してみようとも思ったが、相変わらず忙しそうな彼の様子を見てやめた。
しかし、山中のことばかリを考えてもいられなくなった。上期決算の時期となり、もれなくみなみにも仕事が割り当てられて毎日が慌ただしい。
そして今みなみは、総務課に資料を返してきた後の戻り足だった。
「岡野!」
背後から宍戸の声が聞こえた。みなみは足を止めて振り返る。足早に近づいてくる彼の両腕は、何冊もの分厚いファイルを抱えていた。
「お疲れ様。ずいぶんたくさんあるのね」
「これの中身全部、チェックしろだってさ」
宍戸は苦笑しながらふうっとため息をついた。
「少し持とうか?」
「お、ありがと」
みなみは宍戸からファイルを数冊受け取りながら、彼の顔にちらりと視線を走らせた。彼とは色々あったが、少なくとも表面上は以前と同じように接することができていると思う。宍戸もたぶんそうだと思いたい。
「お疲れ様です。これから外回りですか?」
突然宍戸がみなみの後方に向かって声をかけた。誰かいるようだ。
外回りということは営業部の人だろう。一応自分も挨拶しておこうと振り向いた途端、みなみの表情は固まる。そこにいたのは山中だった。彼の親友が切り盛りするバーでの夜以来、こんなに近くで彼に会うのは久しぶりで、胸がどきどきする。
「急遽アポが取れたから、それでね」
山中はみなみに気づいていた。穏やかな表情を崩すことなく、みなみに軽く頭を下げる。
みなみと山中は他部署である上に、その関係は直属の上司でも部下でもない。別におかしいことではないと分かっていても、あっさりとした彼の態度に胸がひりつく。
「それじゃあ、これで」
「お気をつけて」
宍戸の声に見送られて、山中はきびきびとした足取りで去って行った。
彼の背中をぼんやりと見ていたみなみを宍戸の声が促す。
「岡野、行くぞ」
「う、うん」
みなみは我に返り、すでに何歩か先を歩く宍戸の後を追った。
自分の席に戻ってからは、ひとまず山中のことは忘れるよう努力して、早速仕事に取り掛かる。
決算用資料を整える作業は、一日で終わるようなものではない。しかしこの日は、ひとまずめどが立ったからという上司のひと言のおかげで、みなみたち事務方は久しぶりに早く退社できることになった。ここ最近、皆それぞれに残業が続いていた。早く帰りたい気持ちは同じだったようで、誰もがいそいそと帰り支度を済ませて、次々と席を離れて行った。
他の皆よりひと足遅れて入ったロッカールームは、しんとしていた。みなみはロッカーに備え付けの鏡で簡単にメイクを直す。ロッカーに鍵をかけてから、ぼそっとひとり言をもらす。
「さて、どうしようかな」
今日も残業だと思っていたから、夕食はコンビニ弁当で済ませる予定でいた。しかし、せっかく時間ができたのだから、材料を買って料理でもしようかと考える。しかし一方で、どこかの店でのんびり食事をしようかとも思う。結局気分次第で決めることにして、ロッカールームを出た。エレベーターが降りて来るのを待っていると、宍戸がやって来た。この時間帯に彼と顔を合わせるのは珍しい。
宍戸はみなみを見て驚いた顔をした。
「あれ、岡野?今帰り?」
「えぇ、そうよ。今日は久しぶりに早く帰っていいってことになって。とは言え定時はだいぶ過ぎてるんだけどね。宍戸はこれから外回り?」
「まさか。俺も帰るところさ」
「そうなんだ。お疲れ様」
「岡野はこのまま帰るの?」
みなみに訊ねながら、彼は肩にぶら下げたリュックをかけ直した。
「どうしようか考え中。気分で決めようかなと思ってた」
「ふぅん……」
宍戸は考えるような顔をしていたが、いいことを思いついたとでも言うように、にっと笑った。
「じゃあ、俺と飲みに行こうぜ」
「え、いや、だけど……」
みなみはためらった。以前のように接することができるようになったとは言え、宍戸と二人きりになるのはまだ少し気まずい。それだけではなく、不意打ちでキスをされたという、なかなか完全には消えてくれない記憶のせいで、彼を警戒している部分もある。
エレベーターが到着した。
開きつつあるドアを前に、みなみは足を踏み出すのを迷った。
その理由を察して、宍戸は苦笑する。
「何もしないって。とりあえず乗りなよ」
「う、うん……」
迷いは消えないが、あまり警戒しすぎるのも悪いかと気を取り直す。みなみはぎくしゃくとした動きでエレベーターに乗り込んだ。
扉が閉まりエレベーターが動き出す。
「どこに行きたい?おごるぜ」
明るい声で言う宍戸に、みなみは苦笑を向ける。
「まだ飲みに行くとは言ってないけど」
「そう言わずに行こうぜ。飲んで少しは発散させた方がいいんじゃないのか」
「発散って何を?」
「ん?ストレス、とか?」
「ストレスなんかないわよ」
「ほんとに?何かあったんじゃないかと思ったんだけど、俺の勘も鈍ったかな」
冗談めいた口調で言った後に、宍戸はみなみに柔らかく微笑みかけた。
みなみは彼の言葉にどきりとし、彼がそのことに気づいていたらしいことに驚いた。彼の言う通り、実はひと月以上も鬱々と過ごしている。しかし、それ以上は踏み込んでこないでほしいと思いながら、みなみは彼の優しい瞳から目を逸らした。