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時間をくれないか――。
あの夜からどれくらいたつのだろう。気がつけば、そろそろ秋の気配が感じられようという季節になっていた。
その間私は鬱々とした日々を送っていた。いつ補佐から答えをもらえるのかと、落ち着かない日々を過ごしていた。しかし、それもひと月、ふた月と時が過ぎるにつれ、次第に諦めに変わりつつあった。
このまま、なかったことにされてしまうのだろうか――。
そんなことをする人じゃないと思いながらも、ふと不安になった。待つのをやめて、自分から補佐に電話をかけてみようかとも思ったが、相変わらず忙しそうな姿を見てやめた。
しかし、そのことばかりに気を取られてもいられなくなった。上期決算のため、私にももれなく仕事が割り当てられたのだ。おかげで現在は慌ただしい毎日を送っている。余計なことを考えなくて済むという意味では、良かったのかもしれない。
そして今は、上司から頼まれた資料を総務課から借りて、自分の部署に戻る途中だった。
「岡野!」
背後から宍戸の声が聞こえて、私は立ち止まった。振り返って彼を待つ。その両腕に何冊もの分厚いファイルを抱えているのが見えた。
「お疲れ様。ずいぶんたくさんあるのね」
「これ全部、中身チェックしろだってさ」
宍戸はふうっとため息をついて、さほど嫌そうでもない顔で文句を言う。
「少し持とうか?」
「お、ありがと」
私は宍戸からファイルを数冊受け取ると、その横顔をちらっと見た。彼とは色々とあったけれど、少なくとも表面上は以前と同じように接することができている――と思う。宍戸もたぶん――そうだと思いたい。
「お疲れ様です。これから外回りですか?」
急に宍戸が私の背後にいる誰かに向かって、話しかけた。
外回りと言ったから、営業の人かもしれない。私も挨拶しておこうと振り向いて、そのまま笑顔が固まった。
そこにいたのは、山中部長補佐だった。
遠目に彼を見かけることはあったが、これほど近い距離で顔を合わせたのはバーでのあの夜以来だ。
「急遽アポが取れたから、それでね。――それはもしかして、決算用の資料?大変だろうけど、まぁそれも大事な仕事だからな」
「はい」
補佐は私に気がついていた。宍戸と言葉を交わした後、その穏やかな表情を崩すことなく私に向かって軽く頭を下げた。
私と補佐は他部署である上に、直属の上司、そして部下でもない間柄だ。だから、さらりとした態度は別におかしくはない。分かってはいたが胸の奥がひりひりと痛んだ。
「それじゃあ、これで」
「お気をつけて」
宍戸の声に補佐はくるりと背中を見せると、きびきびとした足取りで去って行った。
その後ろ姿をぼんやりと見送っていた私を、宍戸の声が促す。
「岡野、戻るぞ」
「う、うん」
私は我に返ると、すでに何歩か歩き出していた宍戸の後を追った。
自分の席に戻り、早速仕事に取り掛かる。
決算用資料を整えるという作業は、一日で終わるようなものではない。しかしこの日、私たち事務方は久しぶりに早く帰れることになった。ひとまずめどが立ったから、という上司の嬉しい一言のおかげだ。ここ最近、みんながそれぞれに残業続きだったから、早く帰りたい気持ちは同じだったようだ。誰もがいそいそと帰り支度をして、次々と席を離れて行った。
みんなよりひと足遅れて入ったロッカールームは、しんとしていた。備え付けの鏡で簡単にメイクを直してから、私はぼそっとつぶやいた。
「どうしようかな」
今日はこのまま帰りたくない気分だった。ロッカールームを出ると、手の中で携帯をもてあそびながらゆっくりと歩く。
誰か友達にでも連絡してみようかとも思ったが、週末だからきっとみんな、すでに約束があって私の入り込む余地はないかもしれない。
あそこに行ってみようか――。
ふとあることを思いついて立ち止まった時、宍戸が大股で歩いてくるのに気がついた。
「あれ、岡野?今帰り?」
宍戸は私に会って、驚いたような顔をした。
彼とは割と顔を合わせることが多いが、互いにこの時間に会うことは珍しいかもしれない。
「これから外回りなの?」
「まさか。今日は、もう帰るところ」
そう言いながら、彼は肩にぶら下げたリュックをかけ直す。
「そうなんだ。お疲れ様」
「岡野はこのまま帰るの?」
「友達を誘って飲みに行こうかなって思ったんだけど、週末だからどうしようかって考えてたところ」
「ふぅん……」
宍戸は少し考えるような顔をしたが、次の瞬間にっと笑った。
「じゃあ、俺と飲みに行こうぜ」
「でも……」
私はためらった。以前のように接することができるようになったとはいえ、宍戸と二人きりになるのはまだ少し気まずい。その上、私にとっては重大事項の一つである、不意打ちのキスという忘れたい記憶のせいで、宍戸を警戒している部分もあった。
エレベーターが止まった。
乗るのを躊躇していたら、扉を押さえながら宍戸が苦笑いを浮かべた。
「何もしないって。とりあえず乗りなよ」
そう言われて自意識過剰過ぎたかと、少し恥ずかしくなる。
「うん……」
ぎくしゃくと頷いて、私は中に乗り込んだ。
扉が閉まりエレベーターが動き出すと、宍戸が明るい調子で言った。
「何があったか知らないけど、今日は飲みたい気分なんだろ。俺でよかったら付き合うぜ」
彼の顔を見上げて、私は訊ねた。
「どうして何かあったって思うの?」
「まぁ、いわゆる『カン』っていうやつ?」
宍戸は宙を見ながら答え、それからふっと笑った。
「で、どこか行きたい所はあるか?今日は特別に俺のおごりね」
「ん……?」
眠っていたのだろうか。ぼんやりとした頭で目を開けた私は、自分の体の下にある柔らかい感触に気がついた。さらに、自分の腕がおかしな位置にあることに気づき動揺する。
何これ……。どうして私、宍戸に抱きつくような格好しているの……。
すると、宍戸の声が頭の上から聞こえた。
「やっと起きたか」
「あ、あの……」
至近距離に宍戸の顔がある。私は慌てて体を起こし、それから恐る恐る彼に訊ねた。
「えぇと、これはどういう状況……?」
宍戸もまた体を起こしながら、顔中を苦々しい笑みでいっぱいにした。
「覚えてないのかよ。俺に抱きついたまま離れてくれなくてさ。ま、そんな長い時間じゃなかったけど」
「えっと、あの……」
覚えていない――。
どういう経緯で、宍戸の体を下敷きにすることになったのだろう。その辺りの記憶がない。
恥ずかしすぎる――。
ベッドに腰掛けたまま顔を覆っていたら、宍戸の声が間近に聞こえた。
「岡野」
「ん?」
聞き返して顔を上げると同時に、私は宍戸に押し倒された。
「やめて」
「いやだ」
そう言って宍戸は私をぎゅっと抱き締めた。
逃げられなかった。宍戸の体の重みで動けず、私は硬直したまま天井を見上げた。
「岡野、今日はものすごいハイペースで飲んでたよな。帰りは足元ぐらぐらでさ。あんな飲み方する岡野を見たのは、たぶん初めてだ。――もしかして、やっと補佐に振られた?」
やっとという言い方にカチンとして、思わず言い返す。
「違う」
「じゃあ、あれか。まだ返事をもらえていないってやつか」
鎌をかけられただけだったかもしれない。それなのに、私は反応してしまった。
「当たりか」
私は横を向いたまま、つぶやくように言った。
「返事は少し待って、って……」
「なんだよ、それ。ただイエスかノーの二択しかないだろ。なんで時間が必要なわけ?」
「どうして宍戸が怒るの?」
身の危険を感じるような状況にあるというのに、私は不思議に思って宍戸に訊ねた。
宍戸は私の肩に顔を埋める。
「そんなの、岡野が傷つくのを見たくないからに決まってるだろ」
何よ、それ――。
優しく言われて、涙が浮かびそうになった。気持ちが不安定になっているせいだ、お酒を飲みすぎたせいだと自分に言い聞かせ、涙が流れ落ちないように我慢した。
宍戸は私から離れると、起こした体を支えるようにして両腕を突っ張った。膝を折り、私の上に覆いかぶさる。
「俺だったら、お前にそんな顔はさせない。させないように努力する。これ以上ないってくらい、とことん甘やかしてやる。最初は補佐の代わりだってなんだっていい。いつか俺だけしか目に入らないようにしてやる。補佐なんかやめて、俺を選べよ」
宍戸の甘くて熱い言葉に、心が揺さぶられた。このままイエスと頷けば楽になれる――心の片隅でもう一人の自分がそう囁く。
補佐のことは、もう諦めた方がいいのかな……。
私はぎゅっと目を閉じた。涙がこぼれた。
宍戸なら、私を大切にしてくれるかな……。
「岡野……」
宍戸の吐息を首筋に感じて、私はぴくりと肩先を震わせた。
彼の唇はまるで壊れ物でも扱うような優しさで、私の額、瞼、頬に触れていく。
これでいいの?本当に?
宍戸の指が私の唇をそっとなぞった時、私の口からその名前がこぼれ落ちた。
「補佐……」
そこに宍戸の盛大なため息が聞こえた。
「はぁぁぁ……」
ゆっくりと目を開けると、宍戸は眉間に深いしわを刻んで私を見下ろしていた。
「今回の告白も、結局失敗に終わったか」
そう言って私から離れ、床に座り込んだ。
「宍戸、あの……」
声をかけようとしたが、何を言っていいのか分からない。
言葉に詰まる私の前で、彼は天井を仰いだ。
「何も言わなくていい。特に『ごめん』とかいう言葉はいらないからな」
私は起き上がり、宍戸の背中を眺めた。
「こうなるだろうって、予想はついていたんだ。たださ、いくらかは可能性が残ってたりするんじゃないかなと思って、最後の手段の色仕掛けで堕とそうと思ったんだけど。残念。ダメだったわ」
「色仕掛け……」
私ははっとして、髪や洋服の乱れをそそくさと直す。
宍戸は私のその様子を笑って横目で見ていたが、不意に立ち上がった。真っすぐキッチンスペースへ向かうと、それから間もなくして水の入ったコップを手に戻ってきた。
「ほら、水。かなり飲んでたから」
「ありがとう……」
私はコップを受け取った。水を飲んで人心地ついたら、他人には見せたくなかったような自分の姿を、宍戸の前では色々と晒してしまったことを思い出した。顔が熱い。
「あの、宍戸。今夜のことは、誰にも言わないでほしいんだけど……」
宍戸は呆れたような顔で私を見た。
「言うわけないだろ。俺ってそんなに口が軽く見えるのか」
「そういうわけじゃないけど……」
宍戸はにやりと笑った。
「レアな岡野のこと、もったいないから他人には教えたくない」
「レアって……」
私は苦笑し、それから念を押すようにもう一度聞いた。
「……本当に内緒にしてくれるんだよね?」
「言わないって。なんなら指切りでもしとくか?」
「いえ、いい。信じる」
そう言ってから、私はふとあることを聞いてみたくなって、おずおずと口を開いた。
「ねぇ、どうして宍戸は私のこと好きになってくれたの?」
「フっておきながら、ずいぶんな質問だな」
「ごめんなさい……」
「謝るのはナシって言っただろ」
宍戸は苦笑いを浮かべた。
「そうだな……。気づいたら好きになってたとしか言いようがないな。ていうかさ。好きになるのに、はっきりこれだっていう理由って必要なものか?岡野はどうなんだよ」
「私?私は……」
「やっぱ、いいや。聞きたくないしな」
宍戸が立ち上がった。
「帰るわ」
「うん……」
私は見送ろうと、玄関まで宍戸の後を着いて行く。
「あの、どうもありがとう……」
私は宍戸の横顔に向かって言った。色んな思いを込めて。それがちゃんと彼に伝わるようにと願いながら。
宍戸は玄関のドアノブを回しながら、私の声には答えずに冗談めかして言う。
「さて、と。どこかでヤケ酒でも飲んでくかな」
宍戸の気持ちに応えられなかった私には、これ以上どうしようもない。たくさんの想いを向けてくれた彼に対して、申し訳なくて切なくてたまらない気持ちになった。
「そんな顔するなって」
宍戸はちょっと困ったように笑うと、私の額を指先で軽く弾いた。
「来週からは、今まで通りだ。たぶん、だけどな。――じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい……」
ドアが静かに閉まる。
宍戸の靴音が遠ざかっていくのを、私はしばらくその場に立って聞いていた。