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「こちらが奥様の御部屋になります。何か足りないものがあれば、何なりとお申し付けくださいね」
案内された部屋の扉が開かれた瞬間、私は思わず呆然と立ち尽くした。
「冷酷伯爵」と噂のベルンシュタイン・ベル伯爵の屋敷。
そこは血も涙もない、凍てつく地獄のような場所だと覚悟していた。
実家から売られるようにして嫁ぐ道中、私は何度、最悪の結末を想像して指を震わせただろうか。
しかし、目の前に広がる光景はその予想を鮮やかに裏切った。
用意された部屋には、午後の柔らかな陽光が大きな窓から惜しみなく差し込み、磨き抜かれたマホガニーの調度品を黄金色に縁取っている。
壁紙は目に優しいアイボリー
そしてテーブルには、私の好みを事前に調べたかのような、淡い色彩の花々が瑞々しく活けられていた。
「奥様、お召し替えの準備も整っております。お疲れではございませんか?」
控えていたメイドたちは、売られてきた私を憐れむどころか
まるで長らく待ちわびた家宝をようやく迎え入れたかのように、慈しみに満ちた眼差しを向けてくる。
(……おかしい。不自然すぎるわ)
先妻たちが次々と逃げ出したという不穏な噂。
それはもしかして、私のような女を油断させ、逃げ場を失わせるための巧妙な罠なのだろうか。
これほどまでに完璧な環境を整えておいて、希望を持たせたところで一気に絶望の淵へ突き落とす──
そんな残酷な愉悦のために。
そう思いつつも、伯爵の姿が見えないことが気にかかり、私は緊張しつつ尋ねた。
「あの……ところで、ベル伯爵は……?」
「旦那様は、本日も早朝から領地の視察に行かれていらっしゃいます」
メイド長が、柔和な笑みを浮かべて答える。
「そうなのですか……」
「はい。夕方にはお帰りになると思いますので、後ほどお呼びに上がります。それまでは、どうぞこのお部屋で、旅の疲れを癒しつつお寛ぎになってお待ちください」
不在だと聞いて、心臓の鼓動がわずかに静まり、どこかホッとした自分がいた。
もちろん、帰宅すれば顔合わせを避けることはできない。
メイド長たちが音もなく退出し、扉が閉められる。
部屋に一人残されると、私は吸い寄せられるように窓際へ歩み寄った。
眼下には見事な幾何学模様を描く庭園が広がり、手入れの行き届いたバラの蕾が風に揺れている。
しかし、その美しさを心から享受する余裕は今の私にはない。
「こんな豪華な部屋に通されて……何もかもが不自然すぎるけれど、上手く適応していくしかなさそうね……」
私は贅沢な刺繍が施されたソファにそっと腰掛けた。
背中を預けても、警戒心だけは解かずに辺りを見回す。
壁には巨匠の手によるものと思われる静謐な肖像画が飾られ
テーブルの上には銀食器に乗せられた上質な焼き菓子と、湯気を立てる紅茶が用意されている。
「これじゃあ、まるで本物の貴賓として扱われているみたい……」
皮肉な独り言を零した瞬間だった。
コンコン、と規則正しいノックの音が静まり返った部屋に響き、私は跳ねるように身構えた。
「奥様、旦那様がお帰りになられました。コンサバトリーまでご挨拶に向かわれますように、とのことです。ご案内しますので、準備が出来ましたらお教え下さい」
若いメイドの透き通った声が扉越しに聞こえる。
置時計に目をやると、考え事に耽っている間に数時間が経過していた。
「わかりました。すぐに行きます」
私は鏡の前で乱れた髪を整え、ドレスの皺を伸ばした。
急いで身支度を整えながらも、緊張で再び指先が氷のように冷たくなっていくのを感じる。
この豪華な部屋の、さらに奥に隠された「本性」が何なのか。
まだ何も確かではない。
だが一つだけ確かなのは───
今日からここが私の居場所になり
私はあの「冷酷伯爵」の妻として、この屋敷に生きていく。
たとえ、所有される運命だとしても。自分の心まで差し出すかどうかは、私が決める。
私は一度大きく深呼吸をしてから、覚悟を決めて扉を開けた。
メイドに導かれるまま、まるで迷宮のように長い廊下を抜ける。
突き当たりにある大きなガラス張りの温室、コンサバトリーへと到着した。
「こちらでお待ちです」
メイドは恭しく一礼して下がっていった。
私は湿った空気と花の香りが混じり合う室内へと足を進める。
暖かな室内には、この土地では珍しい熱帯の植物が溢れんばかりに生い茂っていた。
その緑の深淵の中心に、背の高い革張りの椅子が鎮座している。
そこに座っていた男性こそ、私にとって初めての夫になる人だった。
彼が立ち上がり、私の方を向く。
逆光の中に浮かび上がったそのシルエットは、圧倒されるほどに大きい。
「……今日からは、ここが君の家だ」
低く、チェロの弦を弾いたような落ち着いた声が鼓動に響く。
「私の名前はベルンシュタイン・ベル。今日からキミの夫になるが、よろしく頼む」
現れたベル伯爵は、噂通りの凄まじい威圧感を放っていた。
鋭い眼光、隙のない立ち居振る舞い。
冷徹な印象を覚悟して身を固くしたが、不思議なことに、至近距離で見つめ合うとその瞳の奥には静かな穏やかさが宿っているように見えた。
「はい……!今日からよろしくお願いいたします…ベル伯爵」
「気兼ねなく『ベル』と呼んでくれ。堅苦しいのは好きじゃない」
そう言う彼の顔立ちは、彫刻のように端正で知的だった。
世間が囁く「冷酷さ」という皮膜の下に、どこか不器用な優しさが隠れているような、奇妙な感覚に陥る。
「そういうわけには行きません……!伯爵を呼び捨てにするなど、私には……」
「……なら、伯爵以外で頼む」
彼は少しだけ困ったように眉を寄せた。
その僅かな表情の変化に、毒気を感じることはできなかった。
「わ、わかりました。では……ベル様、と呼ばせていただきます」
会話はそこから、探り合うように、けれど途切れることなく始まった。
夕食の時間まで続いたそのひとときは、私が想像していた「尋問」や「虐げ」とは程遠い、驚くほど温かな歓迎の時間だった。
しかし、真の試練はその晩に訪れた。
「奥様と旦那様は夫婦なのですから、同じベッドでお休みいただくのが当然かと存じます」
寝室に案内したメイド長は、事も無げに、決定事項としてそう告げた。
その言葉に全身が凍りつく。
「そ、それは……さすがにまだ、お会いしたばかりですし、早いのではないでしょうか?」
「いいえ。この家の伝統なのです」
控えていた他のメイドたちも、申し合わせたように次々に言い添える。
「先代もその前の代も、初夜からは共寝されておりました。こればかりは崩せぬ仕来たりでございます」
私は顔を林檎のように赤らめたまま、それ以上反論する言葉を見つけられなかった。
結局、半ば押し切られる形で、ベルの私室にある巨大な天蓋付きベッドに二人並んで横たわることになった。
シーツからは清潔な石鹸の香りと、彼のものらしき微かな白檀の香りが漂う。
広いベッドとはいえ、見知らぬ男性と同じ掛け布団の下にいると思うだけで、肺が潰されそうなほど息が詰まる。
「……嫌なら、嫌と言ってくれ。無理強いするつもりはない」
隣に横たわった彼が、天井を見つめたまま低い声でぽつりと呟いた。
私は反射的に隣の彼を振り返る。
「そんなことはありません……ただ、あまりに展開が早くて、驚いているだけで……」
取り繕う余裕もなく、正直すぎる気持ちが漏れた。
「ベル伯爵こそ、よろしいのですか? 私のような、政略で来た女と……」
「……仮にも夫婦になったのだから、おかしなことではないだろう」
彼の横顔はどこまでも無機質で、感情を読み取ることは難しい。
けれど、そこにはやはり悪意の欠片も感じられなかった。
むしろ、義務的な言葉の中に、守るべきものを慈しむような別の感情が潜んでいる気がしてならない。
「分かりました…背中合わせでしたら……」
「それで構わない」
そのまま私たちは、互いに背を向け合って横になった。
広い沈黙が部屋を満たす。
私はなかなか寝つけずにいた。
身体は長旅と緊張で泥のように疲れ果てているのに、頭の中では今日の出来事が万華鏡のように回り続けている。
……そのまま、何時間か経過したのだろうか。
遠くで夜鳥の鳴く声が聞こえ、ようやく瞼が重くなりかけていた頃。
「……ん?」
私は妙な違和感を覚え、薄暗闇の中で薄らと目を開けた。
お腹のあたりに、ずっしりとした、けれど心地よい重みがある。
視線を落とすと、誰かの逞しい腕が私の胴をしっかりと、逃がさないように巻き付いていた。
心臓が跳ねる。驚いて振り返ると───
そこには、私の背中にぴったりと身体を寄せ、まるで母親を探す子どものように無防備に私を抱き寄せているベル様の姿があった。
「ベル…さま……?」
蚊の鳴くような小声で囁いても、反応はない。
規則正しい寝息がうなじに当たり、彼が深い眠りに落ちていることを知らせていた。
彼の高い体温が寝着越しに伝わってきて、私の鼓動はさらに速度を上げる。
けれど同時に、不思議なことが起きた。
あんなに恐れていたはずなのに、その腕の強さから、言葉にできないほどの深い安心感が生まれていたのだ。
(この人……本当に世間で言われてる、あの『冷酷伯爵』なの……っ?)
彼の寝顔を少しでも覗こうと、身体をほんの少し捩る。
すると、彼は夢うつつの中でそれを拒むように、さらにぐいっと私を強く引き寄せた。
噂とはかけ離れた、不器用で真っ直ぐな温もり。
(もう…っ、これじゃ眠れないわ……!)
朝が来るまでの長い時間をどう過ごすべきか。
背中に感じる確かな熱と鼓動に戸惑いつつも、私はいつしか彼が紡ぐ安らかな寝息のリズムに合わせるように、再び浅い眠りの中へと沈んでいった。